30 | here−heart−hear





『 here − heart − hear 』





 雑然として埃臭く。
 窓という窓は割れ。
 欠けた天井からは光が差し込み。
 雨が降れば雨漏り。
 湿気が外の土臭さを流し込む。
 不衛生で、不健康。



 それが僕らの家。



「お前さ、いい加減こっちが用意した部屋に住めよ」
 久々に黒曜ランドに姿を現した彼は、げんなりとそう言った。
「ぶっちゃけここ廃墟だし、倒壊寸前だろ」
 壁はあちこち壊れて、床にはコンクリート片が転がっている。
 むき出しの鉄筋は赤く錆びて、折れたものもある。
「お前、マフィア嫌いだし、世話になるの嫌かもだけどさ、ここだと何かと不便だし、大変だろ?」
 どこもかしこも崩れて、暑さも寒さも防げない。
 うだる熱気、凍える冷気、すべてが肌を刺し感覚を明瞭にする。
 それは、本当は、不快ではなくて。
「だからさ、ちゃんと四人分用意してあるし、あっちに移ろうよ」
 善意の塊。
 別に断り続ける意地もない。
 衣食住が保障されるのならば、申し分ない提案だ。
 かたくなに拒否することもない。
 けれど。
 ただ、あるとすれば。
 布の破れたソファーから彼を見上げ、浮かんだ言葉を音に紡ぐ。
「部屋、が」
 一度だけ見に行った。
 壁も天井も窓も床も調度品もすべて、傷ひとつない場所。
 埃もヒビも錆びもすべて、何ひとつない部屋。
 彼は用意したものはあまりにも――
「綺麗、すぎて」
「は?」
「……思い出すんですよ」
 滅菌された白い部屋。
 恐怖。絶望。狂気。悲鳴。
 飛散した赤い血液。
「研究所の、あの何もない部屋を思い出して、壊したくなるんです」
 すでに人も物も壊したというのに。
 もはや記憶の中にしか存在しない場所。
 どうしても壊せないもの。
 広げた両手に重なるヴィジョン。
「骸……」
 普通の暮らしを求めても、普通でない過去が邪魔をする。
 いっそ初めから壊れていれば。
 壊す必要のない場所だから。
 この場所を心地よいと感じる。
 求めてはいけない。
 壊して、しまうから。
「じゃあ壊していいよ」
「え?」
 彼は汚れた床に膝をついて、僕の手を取った。
「部屋、住みやすいように変えればいいから」
「何を、言うんです?」
「ここみたいにするのはさすがに困るけど、でも、骸が何か壊しても、俺は、その、」
 視線が宙をさ迷い、足りない言葉を探す。
 それでも見つからなかったのか、彼は苦笑した。
「うまく言えないし、伝わらないかもだけど」
 拙くも懸命に、
「ほら、物が壊れるのは当然だし、でも、骸の居場所は、そう、居場所は物じゃなくて」
 僕の手を心臓の上へと導き、
「ここに、あるものだから」
 穏やかに微笑む。
 指先に小さな鼓動。
 手の平に体温。
「だから、壊れないっていうか、ちゃんと、なくならないからさ」
 一瞬、呼吸が引きつった。
 驚愕。安堵。不安。納得。
 感情が混ざりすぎて理解不能に陥ってしまう。
「……けれど、僕は……人が簡単に壊れることを、知っています」
「確かに弱いものだけど、大丈夫。俺、これでも打たれ強いんだから」
「でも」
「骸」
 口をつく言い訳を遮って、ソファーが軋む。
 彼はソファーに膝をついて、僕の頭を胸に抱いていた。
「大丈夫」
 鼓膜に直接響く音。
 ここに。
 心の中に。
「……君の中に、いてもいいんですか?」
「いいに決まってるだろ」
 強く、速く。
「いてくれなきゃ、困る」
 熱く。
「…………そう、ですか」
 喉に詰まる感情ごと彼にしがみつく。
 傷も汚れもない。
 甘くて眩しくて、綺麗で。
 君が壊れないと言うのなら。
 壊されないと言ってくれるなら。
「それなら――」


 ここに。
 心の中に。
 彼の音を聞くために。


「君のそばに、いてあげます」






× × ×

最後に骸が何を思ってどんな表情をしたかは想像にお任せします。

場所っていうと物理的なものと精神的なものがあるような気がして。
精神的なものの方が、やっぱり大事なんだと思います。