38 | 空は、晴れて







 廃墟の片隅で、か細く鳴く。
 手に取ったのは、ただの気まぐれだった。



『 空は、晴れて 』





 ソファーに座り、手慰みに眺める。
 まだ目も開かない仔猫は、触るたびにか細く鳴いた。
 結論からして、この仔猫はじきに衰弱し、死に至る。
「……」
 今まで他人を乗っ取り、得てきた膨大な量の知識。
 その中の、猫に関するものを探してみる。
 片手に収まるほど小さな猫。
 同族に捨てられたか、人間に捨てられたか。
 どちらにせよ――
「独り、ですね」
 偶然か、探し出した知識には獣医のものが含まれていた。
 気まぐれ。
 あるいは暇潰し。
 仔猫を持ったまま立ち上がると、ミルクを買いに行くことにした。


 みぃ、みぃ、と鳴く。
 濡らしたタオルで顔を拭いてやると、震えながらも瞼が持ち上がった。
 朱色の右。水色の左。
「おや……」
 珍しいオッドアイ。
 しかし、やはりと言うべきか、朱色の目は何も映していないようだった。
 水色の目だけが、しきりに指先を追いかける。
 親猫はこれがわかっていて、仔猫を見捨てたのだろうか。
 自然界が淘汰する、弱く、小さな存在。
 そっと頭を撫でてやると、仔猫は、みぃ、と鳴いた。


 みぃ、みぃ、と乞う。
 綿に含ませたミルクはすぐに乾いてしまう。
「本当に食いしん坊ですね」
 少しずつ、少しずつ。
 ミルクは仔猫の中に吸い込まれ、やがて生きる力へと変わる。
 生きるための力となる。
 小さな腹が膨らむと、仔猫は小さな色違いの目を細めた。
 うとうとと頭を揺らす。
 手の平でそっと包むと、仔猫は、みぃ、と鳴いて目を閉じた。


 ぴぃ、ぴぃ、と鳴く。
「寝る子、とはよく言ったものですね」
 膝に乗せたクッションの上で眠る。
 鼻でも詰まっているのかと思ったが、そうでもないらしい。
 ただ眺めながら、時折その背を撫でてやる。
「猫も夢を見るんでしょうか……」
 片方の瞳だけにしか映らない世界。
 猫の夢に入ったことはないが、願わくは、広く果てしなく、穏やかな世界であることを――
「……僕らしくない」
 呟きはそっと消えて。
 仔猫は変わらず、ぴぃ、と不思議な寝息をたてていた。


 みぃ、みぃ、と遊ぶ。
 外で摘んできた草に、仔猫は転びつつもじゃれつく。
 捕まえては小さな口で噛みつく。
「あまり噛むと千切れますよ」
 言えど仔猫が聞くわけもなく。
 その内に草はボロボロになってしまう。
「仕方ないですね……」
 片手で仔猫を拾い上げる。
 新しい草は外にしか生えていない。
 前に彼が猫じゃらしと呼んでいた草。
 ……確か、明日には帰ってくるのだったか。
 手の中の仔猫に視線を落とす。
「きっと、可愛いとか言って、喜ぶんでしょうね」
 けれど仔猫は興味なさげに、みぃ、とだけ鳴いた。




 仔猫はあたたかい。
 仔猫は柔らかい。
 食欲旺盛で。
 頭を撫でてやると目を細めて。
 首を撫でてやると喉を鳴らして。
 好奇心旺盛で。
 仔猫はよく眠る。
 仔猫はあたたかい。



 とても、あたたかい――




 足音はゆっくりと目の前まで来て、静かになった。
 顔を上げずともわかる。
 日向の匂いを運んでくれるのは、彼しかいない。
 けれど、視線を上げることができない。
 ずっと手の中に落ちて、引き上げることができない。
「……こねこ、どうしたの?」
 いつもと変わらない声音。
「先日、拾ったんです。隅にいたのを、見つけて」
 気まぐれだった。
 彼がいない間の暇潰し。
 それが。
「よくミルクをこぼして、転んで、遊ぶのが好きで、おかしな寝息で……」
 今は聞こえない。
 あんなに鳴いていたのに。
 あんなにいつも、鳴いていたのに。
「今朝から、動かなくて……ずっと、冷たいままなんです」
 柔らかい。
 けれど、あたたかくはない。
 拾ったときよりも冷たく、冷たく。


「……っ、ぅ……」
 こぼれた嗚咽に、やっと視線だけ上げられることを知る。
 彼は声を抑えて泣いていた。
「……なぜ、君が泣くんですか」
「なん、で、お前は、泣か、ないんだよ」
「……なぜ、でしょうね」
 この悲しみが理解なのか感情なのか、判断できないせいかもしれない。
 確かに悲しいと思っているのに、それがアタマなのかココロなのかが、わからない。
 どうすれば涙が流れるのか。
 この悲しみは、どうすれば外へ出て行くのか。
 不意に。
 頬に、雫。
 日向の匂い。
 ぬくもりが優しく包む。
 彼の胸に頬を寄せると、わずかに喉が震えた。
 涙は出ないが、締めつけるように苦しくなった。
「……名前を、考えていたんです」
「うん」
「瞳が、朱と水色の色違いで、ガラス玉のようで、だから、」
 小さな小さな世界。
 透き通った天蓋。



“Cielo”



 音にすると、あまりに儚い。
 何度繰り返そうと、もう見ることも叶わない。
 静かに、仔猫はただ静かに眠る。
 包む手の平が僅かに震えるのは、まだ、どこかで、みぃ、と鳴くことを願っているからだろうか。
 けれど、それは願いであって、やはり、叶わないものだから。
「墓を作るの、手伝って、もらえますか?」
「うん……」
 せめて、もう震えることのないように。
 きれいなタオルに包んで。
 あたたかいミルクと、花の香りを。
 一度も呼ぶことはできなかったけれど。
 この儚い名前が君を “ そこ ” へ導きますように。




「addio」




 晴れ渡る空に、願う。







× × ×

綱吉が家族旅行だか学校行事だかでいない間の話。
仔猫は全体的に白くて、背中に少し茶色い毛が混じってるイメージ。
骸さんの情操教育ということで。

・補足・
「cielo」=空、あるいは、天国。
「addio」=(二度と会えない別れの際に使う。)さようなら。神のご加護がありますように。