昼前に目が覚めて階下に下りると誰もおらず、チラシの裏に書置きが残されていた。
曰く、チビたちを連れて駅前まで買い物に行ってくるので、お昼ご飯は昨日のカレーを温めて食べるように、とのこと。
「置いてけぼりかよ……」
「そのようですね」
「ひっ」
背筋を走る悪寒に、思わず振り向きざまに裏拳をお見舞いしてしまう。
しかし、背後に立つ彼は難なく拳を受け止めた。
「ひどい挨拶ですね」
「おま、骸! 何しに来た! ていうか不法しんにゅうだ!」
「侵入ぐらい漢字習ったでしょう……」
骸は呆れた顔をしつつ、引き寄せた拳に口づけた。
「なっ、何す、」
「僕なりの挨拶です」
最後に、まるでおとぎ話のように手の甲に唇を押しつ――
ザリ、と擦る感触。
「ぅ、わぁぁあぁあ!」
俺は思い切り、手を頭上に上げた。
うなじが逆立ったような、うすら寒い感覚。
おそるおそる手を下ろして見ると、わずかに濡れて、光っていた。
確信する。
コイツ、いま、人の手を、
「舐めやがった! ばっちい!」
「ばっちいって何ですか!」
「汚いってことだよ!」
「意味を聞いてるんじゃありません!」
「うわぁぁあぁあっ!」
「ちょ、泣きながらすごい速さで拭き取るとか傷つくんですけど!」
「うわぁぁあぁあっ!」
「綱吉くん!?」
というやり取りが、実は十分くらい前のことで。
俺はきれいに洗った手で、お皿にご飯をよそった。
「こうしてると新婚みたいですね」
「あはは黙れ」
温めた鍋のフタを取り、入れっぱなしのオタマで白いご飯の上にカレーをかける。
なんとも簡単な料理だ。
「ほら」
テーブルの上に二人分のお皿を並べる。
「僕の分も?」
「どうせ食べてないんだろ」
「そうですけど……」
ちら、とカレーを見て、骸にしては珍しく、困った顔をした。
「何か苦手なの入ってたか?」
特にこれといって変わった野菜が入ってるわけじゃないし。
好き嫌いがありそうなのは、ニンジンくらいだろうか。
でも、前にクリームシチューを出したときは普通に食べてたし。
シチューとカレーに違いがあるとすれば。
「あ、もしかして」
俺は骸の好みを思い出しながら、問うた。
「辛いの、ダメだったりする?」
答えは無言。
けれど、その表情が正直に語っていた。
骸は少しだけ頬を赤くして、眉間に皺を寄せた。
「甘党なのは知ってたけど、そっか、辛いのダメなんだー」
「……馬鹿にしてませんか」
「いやぁ? 誰だって苦手なもんぐらいあるって」
とか言いながら、つい頬が緩んでしまう。
だって、コイツにも苦手とかあるってわかると、それだけ、なんていうか、親近感がわくっていうか、すごく嬉しく、なる。
ていうか、こんなわかりやすい骸とか、初めてかもしれない。
なんていうか……かわいい、かも。
「あ、じゃあ、ランボたち用に甘口のも別に作ってあるから、それにしてやるよ」
俺は笑みを隠しながら、横に置いたままだった小鍋を火にかけた。
その間に、すでにかけてしまったルーを俺の皿に流し入れる。
甘口カレーは思ったよりすぐに温まって、俺は慌てて火を止めた。
熱くしすぎたかな、まぁ大丈夫だろ。
「はい」
「ありがとう、ございます」
「いただきまーす」
「いただきます」
スプーンで一口食べてから、飲み物を用意していないことに気づく。
確か冷蔵庫にりんごジュースがあったよな。
そう思って立ち上がった瞬間、だんっ、とテーブルが叩かれた。
「ひっ」
跳ね上がる心臓を手で押さえつつ見遣ると、骸がテーブルに拳を押しつけ、黙り込んでいた。
「え、何? 辛かった?」
ふるりと首を振る。
「えっと、おいしくない?」
ふるふる。
ていうか、左手が何か探してる。
ティッシュ? それならすぐ近くに置いてある。
何? 何を探して――
ふと、思い当たる。
俺は冷蔵庫から出した冷たいりんごジュースをコップに注ぎ、それを骸の手元に置いてみた。
すると骸はすぐにコップを手に取り、中身を口に含んだ。
やっぱり。
「ぶっ、猫舌かよ」
「で、デリケートな、だけですっ」
「辛いのと熱いのダメってよっぽどだな、ぶふっ」
「馬鹿にしてるでしょう」
「いやぁ? 猫舌とか、あるある」
とか言いながらも、つい吹き出してしまう。
いつもは怖いとか気持ち悪いとか感じるのに、今日はなんていうか。
「にしても、骸が、ぶふっ」
「いい加減に怒りますよ」
「だってお前、ぶふっ」
「綱吉くん」
強引にあごを掴まれる。
視線が合った。
合ったまま、舌先にりんごの味を感じる。
「ん、んぅう!」
もがいても離れない。
ざらついた、柔らかいものが、口の中を撫でて回る。
生理的に溢れる唾液で、息苦しい。
違う。
気持ちよすぎて、苦しい。
「や、めっ」
唇が少し離れた隙に腕を突っぱねると、案外簡単に解放された。
乱れた息を整えつつ、無意識に口許に触れると濡れていて、慌てて袖口で拭う。
それだけでさっきの感触がフラッシュバックして。
体が熱くなって。
麻痺したかのように、クラクラして。
「も、お前、意味わかんねぇっ」
「おや、案外単純なものですよ」
「どこがっ」
クフフ、と笑う声。
骸は三日月にゆがめた唇から、舌先をちらと見せ、妖艶に微笑んだ。
「刺激物は、綱吉くんだけで十分ってことです」
「なっ――」
「それにしても」
色違いの目が楽しそうに細められる。
「綱吉くんの場合、舌も性感帯なんですかね」
「ばっ」
言葉の前に反射的に手が出ていた。
「いっ」
「なん、何、言っ」
「舌噛んだじゃないですか!」
「知るかお前なんか咬み殺されてしまえ!」
「なぜここであの鳥頭が出てくるんですか! まさか綱吉くん!?」
「違ぇよ! メンドくさい勘違いすんな!」
「じゃあ照れ隠ししてしまうほど僕が大好きってことですか!?」
「そうだよ! そう……ん……?」
互いに何も言わない静寂。
その間に、何を言い切ってしまったかを考え。
やっと理解した瞬間。
「ぅわぁぁあぁあ!」
「嬉しいです綱吉くん!」
「ちが、ばか、ぅわぁぁあぁあ!」
千切れんばかりに首を振って否定するが、時すでに遅く。
「僕も綱吉くんが大好きです!」
とか叫びながら、俺にしか見せない、本当に嬉しそうな顔で抱きしめられたら。
特別な感情を直接ぶつけられたら。
悪い流れだと知りつつも。
「……わ、わかってるよ、それぐらい……」
つい、受け入れてしまう。
大好きと言われて嬉しいのは、自分も同じだから。
手を伸ばして背中を軽く叩いてやると、耳元に笑い声がかすめた。
ぞくり、と何かが走る。
けれど、あとに残るのは熱ばかり。
ため息でも外に逃がせない、高熱。
俺はそろそろ冷めていそうなカレーを見下ろし、心の中でそっと呟いた。
お前の方が十分、刺激物だよ。