それでも淡い期待はしてしまうもので。
俺は上靴しか入っていないスペースを見つめながら、長いため息を吐き出した。
「まぁ、そうだよなぁ」
だってほら、今日はまだ当日じゃないし。
早々にあきらめて、扉を閉める。
「よっス、ツナ」
「山本、おは――」
ガタガタン。
視線を向けた先で、薄い金属製の扉が落ちた。
続けて、可愛らしくラッピングされた箱の滝。
「……今年もすごいね」
「袋持ってきてよかったぜー」
山本は紙袋を広げると、散らばった箱をひとつひとつ袋に入れていった。
ていうか扉が壊れるほど入れられるとか、羨ましすぎる。
ていうか奥の方にある箱とか潰れてるし。女子怖ぇ。
教室にたどり着くと、さらなる光景が待っていた。
机の上に、中に、あるいは体操着袋の中に押し込まれた箱、箱、箱。
「うわぁ……」
ただし、山本と獄寺くんの机限定。
「あれ? そういや獄寺は?」
「あ、なんか風邪ひいたから休むって。電話あった」
お迎えに上がれないとか右腕失格だとか、朝からかすれた声で何度も謝られてしまった。
「ふーん、じゃあ獄寺のチョコ、届けてやんねぇとなー」
その一言に、周りの女子が一斉に振り向き、あっと言う間に山本を取り囲んだ。
ちなみに俺は波に流されて完全に蚊帳の外である。
「山本くん! これ獄寺くんに渡して!」
「これもお願い!」
「わたしも!」
本当に一瞬の間。
山本の手元には山ほどの箱が積み重なっていた。
まるで夢のような光景だが、当の山本はやや引きつった笑みを浮かべていた。
「……袋、足りっかなぁ」
俺はそんな呟きを聞こえなかったことにした。
ていうか女子怖ぇ。
その後も獄寺くんが休みと知ると、女子はこぞって山本に箱を預けていった。
突き返されたり睨みつけられることなく、安全に、渡せるというのがよかったんだろう。
ゆうに二人分を超えている山が危うく雲雀さんに見つかりかけるというハプニングもありつつ、気づけば放課後になっていた。
最後の頼み。
わずかな期待を胸に下駄箱の扉を開けてみる。
そこには――
「まぁ、そうだよなぁ……」
だってほら、今日はまだ当日じゃないし。
ため息をつきながら、のろのろと運動靴に手を伸ばしていると、周囲がざわつき始めた。
まるで芸能人でも見つけたかのような――
「今帰りですか? ボンゴレ」
視界を遮るように現れたオッドアイに、俺は思わず、手に取った運動靴を落としてしまった。
「よかったら一緒に帰りませんか?」
「は、え、なんで」
ここにいるんだよ。
そう尋ねたつもりだったが、他校の制服を着ている彼は違う答えを返してきた。
「もうすぐバレンタインですよね」
「え、えぇ?」
何言ってんの?
何が言いたいの?
あ、もしかしてまたチョコレート要求しに――
「どうぞ。前に絶賛していた店の、ワンランク上のチョコレートです」
深紅の紙にラッピングされた手の平サイズの箱。
ご丁寧に、金色のハート型をしたシールがリボンと一緒に貼り付けられている。
「他の女子を真似て、その中に入れようかと思ったんですけど、下駄箱にチョコレートって不衛生じゃないですか」
「そ、だけど……」
お前みたいに平然と手渡しするのもどうかと思うぞ。
いや今はそれよりも。
うっかり受け取ってしまったこの箱どうしよう。
「あ、あの、さ」
「もしかして何か用事が? でしたら終わるまで待」
続きを音にすることなく、彼はその場にしゃがみこんだ。
ひゅん、と空気を裂く音。
金属のへこむ音。
そしてよく通る、凛とした声。
「よそ者の匂いがすると思ったら……咬み殺すよ」
「おやおや」
霧が集まるようにして空中に現れる三叉槍。
トンファーと打ち合う金属音。
周りの悲鳴。
俺はそのすべてを見届けながら、そのすべてが理解できず、もういっそ気を失いたいと思いながら、とりあえず靴を履きかえることにした。
上履きを入れて扉を閉め、本日何度目かのため息をつく。
なんていうか、バレンタインってさ、どういうイベントだったっけ。
ぶっちゃけ今日はまだバレンタインじゃないんだけどさ。
悲しさにもう一度ため息を吐き出しかけたとき。
「ボンゴレ」
手首を掴む、冷たい手。
驚いた時には引かれ、走り出していた。
「――ろ、む、骸!」
ちょうど公園の前で手を振り払い、俺はその場にしゃがみ込んだ。
「ちょ、も、むりっ」
一度も立ち止まることなく走り続けたせいで、ひどく息が苦しい。
肺が痛んで深呼吸ができない。
それでも無理やり長い呼吸を繰り返し、なんとか息を整える。
「なん、なんで」
俺も一緒に逃げなきゃなんだよ。
そう聞きたかったのだが、骸はきょとんとした顔で答えた。
「言ったでしょう、もうすぐバレンタインだと」
「そ、じゃなくて」
渇いた喉を潤すためにつばを飲み込んで、言葉を続ける。
「なんで、一緒に帰ろうとか、言ったんだよ」
「……バレンタインだからですよ」
声に不機嫌な色が混じる。
なんで怒ってんだよ。
「その、バレンタインって何なの? なんで?」
今度は驚きの表情。
「まさかボンゴレ、バレンタインデーを知らないんですか?」
「知ってるよ!」
骸は怪訝に、眉間に皺を寄せた。
「質問の意味がわかりません」
「だから、その、」
はたと思い出し、手に持ったままの箱を目の高さまで持ち上げて見せる。
「これ、俺に?」
「はい、差し上げました」
「バレンタインチョコ、だよな?」
「はい」
「バレンタインチョコって、その、好きな人にあげるもの、だよな?」
「えぇ、その通りです」
珍しくどこにも嘘が見当たらない。
嘘つきのクセに、どの言葉も真実だ。
嘘じゃないなら、行き着く結論は。
俺は、それでもまだ疑いながら、最後の質問を口にした。
「……俺のこと、その、す……す、すきって、こと?」
すると、骸は色違いの目を楽しそうに細め、答えた。
「君のことが、大好きだということ、です」
「――っ」
臨界点突破。
ゲームで聞いた難しい言葉が頭に浮かぶ。
いつもと言ってることは同じなのに、まるで違う音に聞こえる。
それはたぶん、冗談とか嘘が、少しも混ざってないから。
だからこんなにも鼓動が早くて。
だからこんなにも顔が熱くて。
ありがとうの言葉さえ、音にできずに。
結局黙り込んでいると、骸は口許に手を当てて、特徴のある笑い声をもらした。
「クフ、可愛い人ですね」
冷たい手が熱い頬に触れる。
ひやりとして、気持ちいい。
「そんなに握りしめては、チョコレートが溶けてしまいますよ?」
「あっ」
慌てて箱をカバンの中に入れる。
「大事に食べてくださいね」
「う、うん」
「じゃあ、帰りましょうか」
今度はちゃんと手を繋いで。
なんで、とかいう質問はもう出てこない。
「うん」
何もかもがそれだけで十分。
「でも、なんで今日なんだ? 別に日曜でもいいじゃん」
「チョコレートを口実に一緒に帰ろうと思いまして」
「どストレートな本音だな」
「あと、日曜の約束をしに。空いてます?」
「……い、一応」
「では、朝に迎えに行きますね」
「わ、わかった」
「クフ、顔真っ赤ですよ」
「うるさいヘンタイ!」