ふわふわと柔らかい。
包み込むような温かさにまどろみつつ目を開けると、閉じたときより随分と視点が低く、世界が横に倒れていた。
いや、倒れているのは自分か。
ソファーで読書していたのは覚えているが、いつの間に寝ていたのだろう。
狭い場所で眠っていたせいで、体が痛い。
身をよじって体の向きを変えようとしたとき、
「わっ、あ、起きたっ?」
間近から聞き慣れた声が降ってきた。
「えっ?」
こちらを覗き込むように向けられた、色素の薄い瞳。
思わず動きが止まる。
そういえば、まるで枕を敷いたように、頭が一段高いのはなぜだろう。
その枕が、まるで人肌のように温かいのはなぜだろう。
なぜ、僕は彼を至近距離から「見上げる」ことができるのか。
思い当たる答えはひとつ。
理解すると同時に思考に混乱が襲い掛かる。
「な、どうして、え、綱吉くんっ?」
「ぅわ、ちょ、危ないっ」
「わっ」
現状やバランスを考えずに起き上がろうとしたせいで、うっかりソファーから手を滑らせてしまう。
しかし、間一髪というか、彼に抱き寄せられたおかげで落ちることはなかった。
「だ、大丈夫?」
「あ、はい、えっと……」
なぜ僕は君の膝枕で寝ていたんですか。
そう問おうとして、彼の顔がすでに真っ赤であることに気づく。
これは、どちらを先に訊いた方がいいのだろう。
いや、質問するよりも前に離してくださいと言った方がいいのだろうか。
さてどうしたものか。
ここはやはり、もったいなくもあるが、先に離してもらおう。
「あの、綱吉くん」
「うわっはいっ!」
面白い返事だ。
思わず笑いそうになりながら、至極冷静を装って微笑んで見せる。
「抱きしめてもらえるのは嬉しいのですが、少々苦しいので離していただけますか?」
「ひぅわぁっ! ごめんっ!」
彼はまるで万歳するように、勢いよく両手を上に挙げた。
離すだけでよかったのだけれど。
「ありがとうございます」
僕はなんとか笑いをこらえつつ、今度は滑り落ちないように、しっかりと手元を確かめてから起き上がった。
適度な距離も取れたことだし、気を落ち着かせるためにも改めて現状を分析する。
ここは黒曜ランドの廃墟、アジトの中だ。
おそらく、僕が眠っている間に彼が訪れたのだろう。
彼のことだ、起きるまで待つつもりで隣に座ったのだろう。
ということは。
僕は片手で頭を押さえて、短く唸った。
つまり眠ったままバランスを崩し、彼の膝元に倒れたわけか。
「……あの」
「あのさっ」
声が重なる。
「すみま」
「ごめっ」
「……」
「……」
何だろう、この途方もなく気まずい空気は。
いや、気まずくなるのも理解できる。
原因が自分にあるのも、十分に理解している。
それにしても、彼がずっと赤面しているのは、なぜなのか。
これでは、こちらまで赤くなってしまいそうだ。
「……あ、のさ、」
「なん、でしょう」
まるで初対面のようなぎこちなさ。
それは向こうも同じのようで、彼は意識的に声を大きくして言った。
「この前はっ、チョコ、ありがとうっ」
「あ、あぁ、おいしかったですか?」
「うん、骸が選ぶだけあって、すげぇうまかったっ」
「それはよかったです」
「うんっ」
会話終了とともに、再び沈黙が訪れる。
どうにも話が弾まない。
常なら一方的に話しかけて困らせるわけだが。
隣から伝わってくる空気が、それを許さないように感じられて。
結果、口を閉じたまま時間が過ぎる。
そういえば、そもそも彼は何をしに来たのだろう。
理由もなくこんな、自宅から遠く離れた場所まで来るとは思えない。
特に今日は何の約束もしていなかったはず。
来てほしいと言わない限り来ようとしない彼が、なぜ。
ふと、右袖が引っ張られた。
呼ばれたのかと思ったが、引かれただけで何もない。
何もないが、代わりに袖からわずかに震えているのが伝わってきた。
これはまさか、風邪でもひいているのだろうか。
顔も赤いし、もしかすると熱があるのかもしれない。
ここには暖房器具など存在しないから、悪化させると大変だ。
「あの」
「あのなっ」
再び声が重なってしまう。
どうして今日はこんなにもタイミングが悪いのか。
僕は悟られないようにため息をつき、先を譲ることにした。
「……すみません、先にどうぞ」
「あ、うん、ごめん、あのっ」
視線が天井や床をさまよう。
いざ視線が合うと、口が開いたまま停止する。
再び視線がさまよい始める。
「えっと、あぅ、うぅ……」
それを何度か繰り返した末。
「あのなっ」
とうとう意を決したのか、彼は唐突に立ち上がった。
その手には小さな袋。
おそらく反対側の手に隠し持っていたのだろう。
「これ、あの、マシュマロ!」
「はぁ」
「ちゃんと、デパートの地下で、買ってきた!」
「はぁ」
「チョコ入りで、おいしいって!」
「はぁ」
これは、もらえるということだろうか。
僕の疑問を悟ったのだろう、彼は慌てて小さな袋を僕の胸に押しつけた。
「おおおおお返し!」
「何の?」
「ば、バレンタイン、のっ」
「…………あ、」
言われて初めて、今日が何の日か思い出す。
時計もカレンダーもない空間では、つい日付を忘れてしまいがちだが。
そうか、今日は――
「ホワイトデー、でしたね」
「そ、そうだよ!」
「クフ、返事だけで良かったですのに」
「へ?」
小さな袋を受け取りつつ、いまだ震える手を引いて、胸に抱き寄せる。
「ひっ、わっ、何すっ」
「バレンタインの時、言いましたよね」
「な、何を」
腕の中にすっぽり収まる小さな体。
相変わらず、折れてしまいそうなほど細い。
耳元に口を寄せ、一か月前のセリフをもう一度囁く。
「君のことが、大好き、だと」
「ひぇっ」
「まだ返事をいただいてないんですよね」
「へ、へんじっ?」
「一応告白したつもりだったんですけど」
「こ、こくはくっ」
「えぇ。だから、せめてイエスかノーかだけでも、返事していただけます?」
「へ、へんじっ」
囁きかけた耳を両手で押さえて。
泣きそうな目、垂れ下った眉、首まで真っ赤に染めて。
一生懸命、震える唇で、音を紡ごうとする。
その姿の可愛らしさといったら。
「クハっ」
とうとう我慢できずに、笑い出してしまう。
堰切ったあとは早く。
「クフフ、クハ、クハハハっ」
「ちょ、おま、なんで笑っ」
「クハハハハっ」
「わ、わ、笑うなぁっ!」
振り下ろされた手を捕まえ、ぎゅうと抱きしめる。
愛しい。
胸一杯に満ちる感情を、衝動を押さえつけて。
ただ、優しく抱きしめて、囁く。
「綱吉くん、大好きです」
「うっ」
「教えてください。僕のこと、好きですか?」
「はぅっ」
僕の腕の中で震えながら。
僕のシャツを強く握りしめて。
それから、僕の肩口に熱い額を押しつけて。
消え入りそうな声で。
「――す、き……」
少しだけ、抱きしめる腕に力を込めて。
ただ浮かぶ言葉を口にする。
「嬉しいです」
慣れないほど純粋な感情に、少し戸惑いながら。
それは彼も同じようで。
伸ばした両手であやすように、僕の背を叩いた。
言葉はない。
けれど、伝わるものがある。
熱。鼓動。
好きという気持ち。
触れ合った場所から感じる、充足感。
時間を忘れるほど長く、もしかすると一瞬かもしれない時間の後、僕は腕を解いた。
彼はびくりと肩を震わせてから、おそるおそるといった感じで上体を離した。
まだ赤い顔をしているが、先ほどに比べればマシである。
プレゼントを渡すだけで、あるいは言葉だけで赤くなるようでは、先が思いやられるけれど。
今はまだ、これだけで十分。
「……ありがとうございます」
十分だから。
僕はキスしたいのを我慢して、立ち上がった。
「せっかくお菓子をいただいたことですし、お茶でも淹れましょうか」
「あ、俺も手伝うよっ」
パタパタと足音がついてくる。
「お湯使いますけど、火傷しませんか?」
「そこまでドジじゃないし!」
並んで歩きながら。
なんとなく、どちらからでもなく、手を繋ぐ。
それに気づいて、お互いに驚いたように顔を見合って。
ほぼ同時に口元が歪んで――
「あは、」
「クハハ」
ゆっくりでいい。
同じ歩幅で、同じペースで。
一緒に歩けるなら、それでいい。
でも、欲を言えば。
「早く食べたいですね」
「うん?」
「クフフ」
いつか訪れる時を待ちわびながら。
今は手を離さないようにだけ。