目当てもなく、デパートの地下の食品売り場を見て歩く。
幻覚で己の姿に変えてもよかったが、どうにも居心地が悪くクロームの姿のまま。
つい先日までは赤やピンクといった派手な飾りで「Happy Valentain」などと吹聴していたスペースも一気に色味を落ち着かせ、今は白や桜色に染まっている。
柔らかいデザインで整えられたショーケースに並ぶのは、クッキーやプチケーキ、それにホワイトチョコレート。
思い出すのはちょうど一か月前の出来事。
眠るでも起きるでもなくただ意識を漂わせていた時。
クロームに呼ばれて表に出ると、目の前に標的が安穏と突っ立っていた。
とっさに何かの罠かと身構えたが、クロームの意識が慌てて否と訴える。
ならばなぜ彼のほうから現れたのか。
いつものように嫌味混じりに問うと、彼はしどろもどろに説明を始めた。
曰く。
今日がバレンタインデーであること。
チョコレートを渡しに来たこと。
もちろんクロームでなく、僕自身に。
この時点で思考はかなり困惑していたわけだが。
受け取ったチョコレートを見て、さらに意味がわからなくなる。
高級というわけではないが、日本でも名のあるブランドの。
こちらもしどろもどろになりかけながら礼を述べると。
彼は最後の最後に、真っ赤な顔で、大きな爆弾を置いていった。
「俺、骸のこと、好きなんだ」
脱兎のごとく逃げ去った彼を為す術もなく見送って。
呆気に取られるとはまさにあの状態。
そして。
片手で顔を覆い、深く深く息を吐き出す。
「どうして僕なんか……」
想われる要素など、どこにもなかったはずだ。
整った顔立ちである自覚はあるが、それだけで容易く惚れるだろうか。
その身と地位を奪い取ろうとしている相手に。
哀れな過去を知って同情した、その感情をはき違えているだけでは。
けれどもしそうでなかったなら。
否定と自嘲の繰り返し。
ため息。
「本当に愚かとしか……」
受け取ったチョコレートの包み紙に印刷されていた六種類のメッセージ。
もしあれが本気なら。
胸に宿った感情の対処法すらわからず。
再度ため息をつきかけた時、
「わぷっ」
不覚にも誰かの背中にぶつかってしまった。
「おっと、すまんな」
「いえ、こちらこそ――」
振り向いた相手を見て、言葉が途切れる。
ポロシャツを着た背の高い中年男性。
一見してどこにでもいる父親といった外見だが、その正体は――
「ボンゴレ、門外顧問」
自然と相手を睨みつけてしまう。
それに対し、彼はおどけるように軽く手を挙げて笑った。
「今は休暇中なんだ、気軽に家光とでも呼んでくれ」
「お断りします」
右目に意識を集中させ、クロームの姿を霧で隠すようにして己の姿へと変わる。
「マフィアと慣れ合うつもりはありません」
「相変わらずだな」
「っ骸?」
カラカラと笑う声に重なるように、どこからか驚いた声が聞こえた。
見ると、門外顧問の脇からライオンのような頭がのぞいていた。
「……沢田綱吉」
名を呼んだだけなのに、彼は嬉しそうに表情を綻ばせた。
父親を押しやるようにして僕の前に立つ。
「こ、こんなとこで会うとか、えっと、その、あのっ」
「奇遇、とでも言いたいんですか?」
「そう、それっ」
ため息。
どうして、偶然会っただけなのに、そんなに楽しそうなのか。
今この瞬間にもその身が狙われているとか疑ったりしないのだろうか。
「……なぜこんなところにいるんです。君のテリトリーは並盛でしょう」
「と、父さんが、買い物に付き合えって言うから」
「その「父さん」とやらの姿が見当たりませんが?」
「えぇっ!?」
慌てて辺りを見回すが、僕が述べた通り、門外顧問の姿は忽然と消えてしまっていた。
よく目立つ風体の割に見事なものだ。
彼は呆れた声を徐々に嘆息へと変えた。
「買い物、どうすんだよぉ……」
「何を買いに来たんです?」
場所が場所だけに通行の邪魔になりそうだったので、彼の腕を引いて壁際に寄る。
「母さんへのお返し」
それぞれ壁にもたれかかり、買い物を楽しむ人混みを眺める。
「ホワイトデーの、ですか」
「うん、高いお菓子もらっちゃったから、それなりの買おうって――」
言葉の途中で、彼は慌てて口をつぐんだ。
おそらくは、お返しを催促しているように受け取られたかもしれない、とかそんなことを考えているのだろう。
本当にわかりやすい。
ため息。
彼がそれきり黙ってしまったので、仕方なくこちらから話を振ることにする。
「いただいたチョコレート、おいしかったですよ」
「えっ」
声が嬉しそうに跳ねる。
「うわ、そっか、よかったぁ」
「それとあのメッセージ」
「――っ」
すぐ隣にある肩が震える。
ちら、と横目に見遣ると、耳まで真っ赤にして俯いていた。
ちょっとした鎌掛けのつもりだったのだが。
この反応から察するに、どうやら本当の本当に、本気らしい。
ここまでわかりやすいと、素直を通り越して愚直ですらある。
一体どうしてくれようか。
ため息。
「……ひとつだけ、確認させてください」
「え、え?」
「君は、僕のどこが好きだと言うのですか?」
「それはっ」
熱を吸い取るように頬や額に手の甲を押し当てて。
彼はゆっくりと、言葉を選びながら、発音した。
「正直、わかんないんだ。なんで、とか、どこが、とか言えなくて」
「……そんな曖昧な気持ちで」
「だから、知りたいって思ってる。チョコ、好きだって知ったときも、すげぇ嬉しかった」
あまりにも拙い言葉に真意が見えない。
怪訝に眉をひそめると、彼は困ったように笑った。
「それでな、もっと、ずっと、一緒にいて、骸のこと、いっぱい知りたいって、気持ちがいっぱいで、すげぇ、いっぱいなんだ」
「……意味がわかりません」
「ご、ごめん、俺アタマ悪いから、うまく言えなくて」
今度は苦く笑う。
「でも、この気持ちは、好きっていうやつだと、思うから」
「確信はないわけですね」
「うん、でも、すぐに確信するよ」
その言葉の強さに思わず彼へと視線を振って、後悔する。
色素の薄い、胡桃のように丸い瞳。
それが真っ直ぐにこちらを見ていた。
「骸がもっと、いっぱい、教えてくれたら」
瞳孔に宿る淡い炎。
確かな熱と信念をもって輝く色。
「……そう易々と教えるわけがないでしょう」
ため息。
「さすが霧の守護者に選んだだけのことはあるな」
影と共に低い声が落ちてくる。
「父さん! どこ行ってたんだよ!」
「青春する若者たちに差し入れを買ってきた」
そう言って、門外顧問は両手に持っていたソフトクリームを差し出してきた。
「チョコとバニラ、どっちがいい」
「え、えっと……」
「チョコレートのほうをいただきます」
「えっ」
さっさと受け取り、すでに暖房で溶け始めているソフトクリームを口に運ぶ。
冷たくて甘い。
さすがデパートの売り物だけあって、駄菓子屋の安いアイスとは違う。
食べ進めながら彼に視線を戻すと、意外そうな顔でこちらを見ていた。
なんて間抜けな。
ため息。
「……溶けますよ」
「あっ、うんっ」
彼もバニラのほうを受け取って、コーンの縁で落ちかかる雫を舐め取った。
そのまま溶けた所から先に食べていき、ソフトクリームの山が幾分か小さくなったところで、彼はぽつりと呟いた。
「……骸は、こういうの嫌がるかと思ってた」
「こういう?」
「ほどこしは受けないー、とか、毒が入ってるー、とか、言うのかなぁって」
「馬鹿ですか」
「なっ」
「もらえるものは遠慮なくもらう主義なんです。それに、」
門外顧問の視線に気づき、皮肉に笑ってみせる。
「あなたたちを信用している訳ではありませんが、少なくとも毒を盛るなどという馬鹿な真似はしない人種だと思っています」
彼はその答えに満足したのか、馴れ馴れしく僕の肩を叩いてきた。
嫌悪も露わに払い落す。
そうして門外顧問と軽い睨み合いをしていると、横から小さな笑い声が聞こえてきた。
嬉しそうに。
彼はソフトクリームで汚れた口許を弛めていた。
なんて間抜けな顔だ。
ため息。
「面倒くさいので今ここではっきり言っておきますけど」
ソフトクリームに視線を落として。
「僕はいまだ人を好きになったことがありません」
「えっ」
「必要ありませんでしたから」
人を見て考えるのは利用価値があるかないか。
必要がある限り大事にもするが、邪魔になるものはすべて壊してきた。
そうして生きてきた中で。
「君は、僕の理想に必要な、ただの標的でしかない」
「そ、そう……だよな……」
明らかに気落ちした声音。
ため息。
本当に、今日一日で何回ついたのかわからないぐらいに。
ため息混じりに。
「けれど、何でしょうね、この前からずっと、期待しているんです」
「期待……?」
愚かなことに損得も考えず、真っ直ぐに向けられた純粋な感情。
それを受けて、この心に宿ったのは。
「もしかすると、僕は、君に想われて嬉しいのかもしれない」
「えぇっ!?」
グシャ、と何かが潰される音。
彼は思い切りよくソフトクリームのコーンを握り潰していた。
「うわ、わっ」
割れた部分から溶けたクリームが床へと落ちていく。
ため息。
門外顧問が慌てて拭く物を探しに行くのを見送りながら、僕はポケットから取り出したティッシュを彼に渡した。
「ごめ、ありがとうっ」
本当に手のかかる子どもだ。
常なら苛立ちを覚えても仕方ないはずなのに。
なぜか。
自然と浮かべていたのは、笑みだった。
「……僕も君と同じで、もっと知りたいと思っているんです」
「えっ、えっ」
「きっとこれは、恋愛感情の一歩手前なんでしょうね」
「それって、えっ」
込み上げる何かを隠して。
その口許に残るクリームを舐め取ってから、その耳元に囁いた。
「これからよろしくお願いします、ということです」
「――っ」
潰れたコーンが床に落ちて。
クリームでべとべとの手を震わせて。
期待や不安や、照れとか何か色々混ざりすぎて情けない顔を真っ赤に染めて。
見上げてくるものだから。
「クハハっ」
たまらず笑い出してしまった。
「なんて顔してるんですか、クフフっ」
「わ、笑うなよっ」
「もう、その手、洗いに行ったほうが早そうですね」
「え、うわっ」
笑いながら手を引いて歩き出す。
「洗ったら後で、そうですね、君の欲しいお菓子を買ってあげます」
「え、なんでっ」
「おや、いらないんですか」
振り向いて、問う。
「僕からの、お返し」
そうするとまた表情を複雑に歪めて。
あまりにも間抜けで。
可笑しくて。
いつかは特別になる気持ちを込めて。
僕はため息の代わりに、小さく笑みをこぼした。