梅雨入りした故郷は穏やかな雨に降られていて。
久しぶりに帰ってきた実家はどこも変わってなくて。
「なんだかんだとこのソファーが一番落ち着くんだよなぁ」
「ちょっとツっ君、食べてすぐ寝ると牛になっちゃうわよ?」
「起きてる起きてる」
そう言いつつも、クッションを抱えて横になる。
この肘掛けの高さとか体に合いすぎて、イタリアの執務室に持って帰りたいぐらい。
「もー、そういうとこばっかお父さんに似ちゃって」
言葉では怒りつつも、声音は笑っていて。
この空気が。
何も変わっていないことが嬉しくて。
聞こえてくる雨音を子守唄に。
「風邪ひいちゃうわよ?」
「うん……」
「まったく、いつまで経っても子どもなんだから」
押入れの匂いと、柔らかなブランケットのぬくもり。
優しく頭を撫でる手と。
まどろみ。
ゆらり、ゆらり、揺れて。
抱きしめられているような。
「――ん……?」
薄く開けた視界に、白いシャツと黒いネクタイ。
どこかで嗅いだことのある、香水の匂い。
半覚醒のまま上を向くと、端正な顔があった。
長い睫毛に、通った鼻梁。
色違いの瞳がこちらを向き、あぁ、と短く声が聞こえる。
「起こしてしまいましたか」
「――なっ」
一瞬にして目が覚めた。
「おまっ、なんでいるんだよっ!?」
「ちょ、暴れないでくださっ――」
浮遊感と。
衝撃。
驚いて閉じていた目を開けると、骸がそれでも俺を抱きかかえたまま、眉間に深く皺を刻んでいた。
落とさないように、倒れないようにと踏ん張った結果、壁に背中を打ちつけたのだろう。
「ご、ごめ、だ、大丈夫か?」
「えぇ……」
「ツナーぁ? 六道くーん? すごい音したけど大丈夫なのー?」
遠く、階段の下から声が聞こえた。
母さんの声。
結構な音が響いたので、心配しているのだろう。
俺は慌てて返事した。
「へいきー! 何でもないからー!」
「本当にー?」
「本当にー!」
その階段を挟んだやりとりの懐かしさに、ここがどこだったかを思い出す。
ちらと向けた視界の端には、見慣れた自室の扉。
ソファーで寝入ってしまった俺を、ベッドに運ぼうとしてくれたのだろう。
けれど、どうして。
実家に戻ることは教えていなかったはずなのに。
約束は、明日のはずなのに。
母さんが階段をのぼってこないのを音で確認してから、強く抱きしめる腕を軽く叩く。
「降ろせよ、自分で歩けるから」
「……嫌です」
「はぁ?」
「降ろしたらまた君が逃げそうで」
「に、逃げるって、そんなこと、」
するわけないだろ、という言葉が喉でつっかえる。
逃げないという保証ができなかった。
事実、もしここが逃げるのに充分なほど広い場所であれば、骸の姿を認識した瞬間に走り出していただろう。
こんな距離。
たえられなくて。
「……最近、ずっとそうですね」
俺を抱えたまま、器用にノブをひねって扉を開ける。
家具の配置も何も変わらない。
長い時間を過ごしていたのに、まるでずっと時間が止まったままにも見える、自室の空気。
その中に踏み込んで。
「超直感って便利ですよね、僕に気づかれずに逃げ出せる」
「そ、それは、」
「やっと水牢から出られて、君と共に歩めると、期待していたのに……」
骸は俺を降ろすこともなく、抱えたままベッドの縁に座った。
鼻先を髪に埋めるようにして、ぎゅう、ときつく抱きしめられる。
「愛する人に避けられ続けることの苦しさが、わかりますか……?」
確かな体温。
苦しいぐらいの感触。
存在の実感。
胸が、身が、震えて。
「ごめん……」
なんとか謝罪の言葉を音に変えると、
「許しません」
きっぱりすっぱりと否定されてしまった。
「なっ」
「僕はいたく傷つきました。繊細な心がとても傷つきました」
「繊細ってどの口が」
「よって君を再調教して差し上げます」
「再ちょ、きょって、はぁ!?」
とんでもない単語に頭のヒューズが一瞬飛びかける。
「待て待て待て、さっきまでのシリアスどこ行ったし」
「鈍感な君には泣き落としよりも実力行使のほうが賢明と判断しました」
「何を行使する気だ」
「片時も僕から離れられない身体に一晩で仕上げて差し上げます」
「ぎゃああああ! 離せこのド変態ぃぃ!!」
「色気のない悲鳴ですね」
よいしょ、と一度抱え上げてから、ベッドへと仰向けに押し倒される。
長い睫毛に縁取られた、色違いの瞳が近づいて。
かすかに笑う吐息が唇にかかって。
あと少しで触れる。
その瞬間に。
「ぎーぶ! ぎぶあーっぷ!!」
「ぐふぅっ」
俺は右手の拳を、骸のみぞおちに埋めていた。
真横に骸が崩れ落ちてゆくのを認識しながら、ベッドの上を這って壁際まで逃げる。
「やっぱ無理! ごめん無理! 死ぬ! これ以上は俺絶対死ぬ!」
「い、意味が、わかり、ませ……っ」
「心臓やばいんだって! マジで! すっげバクバクして! 破裂しそう!」
「な、何なんですか、破裂って、するわけないでしょう……っ」
「するって! も、一緒にいるだけで、嬉しくて、爆発する!」
「……嬉しくて?」
「そうだよ! も、骸が、そこにいるんだと思うと、も、わけわかんなくて!」
すべてが解決して戻ってきたら、クロームと骸が同じ空間に存在していた。
あのとき、一瞬、片方が有幻覚なんだと思った。
そう、現実逃避してしまうほど、とにかく信じられなかった。
骸がそこにいて、実物で、幻覚じゃなくて、本物で、俺を真っ直ぐ見つめる姿が。
だって。
「いつもと変わらないはずなのに、いつもと全然違うくて」
「何言ってるんですか」
「おおおれだって意味わかんないよ! そんぐらい混乱してんだよ!」
優しく抱きしめてくる感触も。
嬉しそうに響いてくる声音も。
十年間ずっと、クロームや夢を通して与えられてきたものだった。
とっくに、この身に浸透したものだと思っていたのに。
骸と触れ合った瞬間。
「に、に、逃げるしか、ないだろ、じゃないと、俺、おれっ」
たぶん真っ赤な顔を両手で覆って。
たぶん首まで真っ赤だから意味なくて。
いい大人がさ、こんなこと、情けないのはわかってるよ。
それでも、本当にどうしようもないんだ。
どうしようもないぐらいに――
「骸のこと以外何も考えられなくなるんだよ!!」
頭の中が熱くてこめかみが痛くて鼻がツンとして唇が震えて。
全部こらえると、情けないことに、喉から嗚咽がこぼれ出て。
きつく目を閉じると、目尻から涙が落ちた。
絶対あきれられた。
二十歳超えてるくせに、不本意でもボスのくせに、男のくせに。
恋人のくせに。
「……綱吉くん」
鼓膜に触れた声に、びくりと肩が震える。
小さく、ベッドが軋んで。
髪をつままれる気配。
手の平を押しつけるように優しく撫でて。
「……クフフっ」
おそるおそる瞼を持ち上げた、狭い世界の中で笑う。
少しだけ目許を朱に染めて。
誰よりきれいな。
見惚れるほどかっこいい。
だけど俺だけに向けられる。
いつだって愛おしいと訴えてくる、色違いの瞳。
「君は、本当に愚かですねぇ」
そっと手首を掴んで顔から離して。
手の甲に、それから手の平にも口付けて。
骸は、嬉しそうに微笑んで、告げた。
「いいじゃないですか、僕も君のことしか考えていませんから」
「―――っ」
頭の中の血液が、沸騰して、爆発した。
言語中枢なんか簡単に壊れて。
ただ、手を引かれるままに抱きついて。
きつく閉じ込めて。
このまま一緒になれればいいのに。
そう思えるぐらい。
胸いっぱいに「愛してる」を抱きしめて。
どれくらい経っただろう。
部屋の明かりもつけず、ベッドの上で抱き合ったまま。
ただぬくもりだけを実感していると、突然、ポケットに突っ込んでいたケータイが鳴り出した。
驚きのあまり手間取りながらケータイを取り出して、急いで音を止める。
「呼び出しですか?」
「いや、違う、アラーム、セットしてたんだった」
ついでに時間を確かめる。
「アラーム? 何か用事が?」
「うん、大事な用事」
「……離したほうがいいですか?」
「え、なんで?」
背中に回したままの手に長い髪が触れたので、そっと指に絡める。
「用事があるのでしょう?」
「うん、まぁ、元々は電話するつもりだったから」
「どちらに?」
「骸に」
言いながらケータイの画面を見せてやる。
そこには簡潔に『骸に電話』というメモが表示されていた。
「僕に? どうして」
「もう五分前だろ、あ、四分前」
「時間? 時間に関係が?」
「あ、お前また忘れてるな、その言い方だと」
「何かありましたっけ、明日ですよね?」
「そう、明日。すげぇ大事なこと、あと三分で思い出せよ」
「そんな無茶な、明日、明日ですか……」
小さく唸りながら人を抱き寄せ、頭に顎を乗せてくる。
こいつ本当に忘れてるな。
律儀に毎年言ってやってるのに。
自身に対して無頓着というか興味をもっていないというか。
ため息と共に目を閉じて、その胸に耳を当てる。
「……今日、休みもらってまで家に帰ってきたのはさ」
穏やかな心音。
この下には心臓があると、震えて、知らせる。
実感。
「立場とか仕事とか、色んなものから離れて、素直に、言えるかなって思ったからなんだ」
基地や屋敷にいると、互いに面倒臭いしがらみが邪魔をして、どうしても行動が縛られる。
だから。
たぶん一番、お互い何も考えずに幼稚な時間を過ごしていた、ここでなら。
「気付いてると思うけど、俺、まだ、骸が戻ってきてから、言えてないことがあって」
「……綱吉くん」
「すげぇ、恥ずかしくて、その、ずっと、逃げてて、ごめん」
今まで言えていたこと。
照れ臭かったけど、何度も口にしてきた言葉。
それが突然言えなくなったのは。
唐突に、喉でつっかえたのは。
「俺さ、幻覚じゃない骸に直接会ってさ、改めて、ううん、もっとずっと――」
もうひとつ、保険でかけていたアラーム音が短く鳴った。
日付が変わったことを知らせる。
俺はケータイを握りしめたまま、少し背伸びして、軽く、その唇に触れた。
「ほんと、惚れ直すって、こういうことなんだろうな」
離れながら真っ直ぐに視線を合わせて。
「骸、俺な、骸のこと、ほんと、どうしようもないぐらい――」
照れ隠しに笑う。
「愛してる」
色違いの目が見開かれて。
それから、嬉しそうに細める仕草も、全部が愛おしい。
緩む表情を隠すように、俺は骸の胸に顔を埋めた。
「……誕生日、おめでとう……」
たくさんの想いを込めて。
誰よりも早く。
今日という日を言祝ぐ。
「……そういうこと、ですか」
やっと合点がいったという風に、骸は息を吐き出した。
後ろ髪を撫でながら、クスクスと笑う声。
よく耳に馴染んで。
「不器用な君らしいといえば、らしいですね」
「うるさい」
「なかなか言ってくれないので、犯してでも繋ぎ止めようかとか色々考えてたんですけど」
「発想が怖い!」
「その必要はないようですね」
今度は骸のほうから、そっと触れて。
「……ありがとうございます」
目を伏せて、額を合わせて。
お互い『オトナ』になってから、なかなか感じることのなかった何か。
まるで学生時代に戻ったかのような。
初めて、恋心を打ち明けるような気分で。
胸の奥がくすぐったい、そんな気恥ずかしさに。
「――くっ」
「はっ」
どちらからともなく笑い出して。
指を絡めて手を繋いで、一緒にシーツの中へと倒れ込む。
「おめでとう、骸、俺と出会ってくれて、ありがとう」
「僕も、感謝してます、君が、同じ時間にいてくれて」
「大好き」
「愛してます」
「愛してる」
「誰よりも」
「骸を」
「綱吉くんを」
キス。
それからまた、照れたように笑って。
少しカタチが変わっただけなのに。
世界がまったく新しくなってしまったような。
好きなのはずっと同じなのに。
一層。
増して。
君を恋しく想う。
それは――
穏やかな雨はまだ降り続いていて。
半分だけカーテンを引いた窓も、窓から見える景色も変わってなくて。
「あー、まだ心臓ばくばくしてる」
「いい加減慣れなさい」
「だって骸ほんとかっこいいんだもん」
横になったまま、猫のように身を寄せる。
自分のためにあるんじゃないかと思うぐらい、その腕の中はちょうどいい狭さで。
「相変わらず語彙が幼稚というか何というか」
あきれた笑い声は柔らかくて。
このぬくもりが。
変わらず与え続けられることが嬉しくて。
聞こえてくる雨音は静かに。
「今日はもう眠りますか?」
「えー……」
「それとも?」
石鹸の匂いと、柔らかなシーツの感触。
いたずらっぽく笑って。
まどろみはまだ遠いと、高鳴る胸を重ねて。
誘いを受け入れるように、俺はそっと――目を閉じた。
――それはきっと。
繋いだ手が、確かな熱と感触をもっていて。
時間の、空間の、存在の共有を実感させるから。
だから。
いつだって。
何度だって。
ずっと君を愛してる。