一番近くにあって
一番遠くにいる
距離を埋めるように
ぬくもりを。
電車で一時間と少し。
人の流れについていくように歩いていった先。
涼しげな潮風。
行き先を告げられていなくとも、いい加減察しがつく。
「水族館ですか」
「たまにはいいだろ」
手を引かれるままにゲートを抜け、長い長いエスカレータをのぼる。
思い出すのは今朝のこと。
元よりどこかへ出掛けるつもりだったのだが、彼に何かしらの計画があったのだろう、何も教えられないままに連れ出された。
水族館という選択には多少驚かされたが、デートとしては定番な場所だ。
「デート、ねぇ」
照れ屋で優柔不断な彼にしては珍しく。
「何か言ったか?」
「いいえ?」
振り向いた彼に笑顔を返す。
そういえば、いつもの彼であれば恥ずかしいだとか文句をつけて、すぐに手を離したがるのに。
ずっと繋いだままの手に視線を落としていると、周りが明るくなった。
濡れた土と、湿気の匂い。
最初のフロアはジャングルのような景観をしていた。
「あ、鳥だ」
「カワウソがいますよ」
「まじで見たい」
人の隙間を見つけて身を滑り込ませる。
「ほんとだ、かわいい」
柵の向こうでは小さな生き物が水に潜ったり這い上がったりとせわしなく動いていて。
見ていて和むというよりも。
「何だか、普段の君っぽいですね」
「え、どこが」
「落ち着きがない」
「うるさいっ、つ、次行くぞっ」
怒ったまま手を引いて。
「ラッコ、ラッコかわいい」
「養殖業にとっては害獣ですけどね」
「おまっ、夢なくすようなこと言うなよっ」
「おや、アシカに子どもがいますね」
「すげー、ちっせー、かわいー」
「どんな動物も子どもの内はかわいいものですね」
「何あれタヌキ?」
「カピバラですよ、少し前に流行ったでしょう」
「え、あれが? なんか、リアルだとビミョー……」
「涼しそうですね」
「あ、餌やってる、すげぇ丸飲み?」
「ペンギンとは、そういうものですよ」
「イルカー!!」
「ちょ、いくらなんでもテンション上がりすぎで」
「いや、だって、でも、うわぁ跳ねた! 今跳ねた!」
なだらかに傾斜する床を歩いている内に。
深く、海を潜るように。
水槽は水かさを増して。
やがて上下に突き抜ける巨大な水槽が現れた。
「すっ……げぇ……っ」
「なかなか、圧倒するものがありますね……」
繋いだ手に力を込めて。
そっと触れたガラスの向こうを、巨大なサメが通り過ぎてゆく。
それだけで、ぞわりと、指先から何かが伝わってきた。
「いろんな魚が、一緒にいるんだな……」
小さな魚は群れを成して。
自分より大きなものに寄り添う魚もいれば。
たった一匹で優雅に泳ぐ魚もいる。
「まさに海そのものですね」
「うん、ほんとに、海の中にいるみたいだ」
空気が満たされているというのに、少し息苦しくて。
不意に。
――コポリ……
耳の奥で、水音が聞こえた気がした。
「――っ骸」
「何ですか?」
いつの間にか、彼は繋いだ手を両手で掴んでいて。
きつく。
かすかに震えて。
「どうしたんですか……?」
「ごめ……俺、どうしよう、ごめん」
今までの楽しげな空気はどこにもない。
彼の変化に気づいた視線を避けるように、
「少し、休みましょうか」
僕は細い肩を抱き寄せながら、暗がりの休憩スペースへと足を向けた。
水槽に囲まれるようにして設置された椅子に、並んで腰掛ける。
彼の顔が青く見えるのは水のせいなのか。
あるいは。
もしかすると、感じ取ってしまったのだろうか。
契約もしていないのに、一瞬だけ、精神がリンクしてしまうせいで。
身を包む冷たさが、伝わってしまったのか。
「……気に病む必要はありませんよ」
彼を抱き寄せて、ライオンのような頭に鼻先を埋める。
「君は、僕を楽しませたくて、連れてきてくれたんでしょう?」
水族館という場所が、水牢を連想させると気づかずに。
その甘さを、無神経さを恥じて。
彼は泣きそうな顔をさらに俯かせた。
「ごめん……」
「泣かないでください、綱吉くん」
「べ、別に泣いてなんか……」
言いながらも震えている背中を、優しく叩く。
「ねぇ、綱吉くん、綱吉くんは今日ずっと、手を繋いでくれてますよね」
「う、うん……?」
「だから僕はここにいられるんです」
「どういう……?」
「水の冷たさなど忘れてしまうほど、君の手があたたかいから」
そっと身を離して、繋いだままの手の甲に口付ける。
熱が広がるように。
視線を上げると、幼い顔が真っ赤に染まって、別の意味で震えだしていた。
「――クハッ」
その可愛さについ笑い出してしまう。
「綱吉くん、可愛い」
「かっ、こっ、ばかっ、ばかむく――」
僕はもう一度、しっかりと彼を抱きしめた。
石鹸と、ひなたと、お菓子の匂い。
胸から伝わってくる振動は、とても心地よいリズムで。
息苦しさなんて少しも感じない。
「ねぇ、綱吉くん」
こっそり額にキスを落として、驚いたクチに指先を当てて黙らせる。
赤い顔はやっぱり可愛くて、小さく笑いながら、僕は告げた。
「綱吉くんがいるから、今日が、この水族館にいることが、僕はすごく楽しい」
「骸……」
「だから悲しい顔しないで、もっと、はしゃぎましょう?」
「そ、そう、だよな。うん、うん!」
彼は力強く頷くと、素早く立ち上がった。
「行こう、まだ半分残ってる」
「えぇ、喜んで」
繋いだ手を引いて。
「すごいですね、あのマンタ」
「すっげ回ってる! 宙返り!」
「水中でも宙返りというんですかね」
「ぅおおおおこっち来たああああ」
「サメというよりもクジラですよね」
「おおおおあっち行ったああああ」
「カメもいるんですね」
「下に沈んでる、あれって寝てんのかな」
「寝て……る、んでしょうか……?」
「骸ここ見てここ、エイが重なりまくってる」
「うわ、大丈夫なんですかこれ」
「あ、一匹逃げ――ちょ、下にちっさいサメいたし!」
「綱吉くん、ほら見てください、カニの上に魚が」
「うっわ、すげぇ、どうやって乗ってんのかな」
「よく捕食されませんよね」
フロアを降りていくほどに。
徐々に、深く、暗く。
そして最後のフロアは幻想的な光に包まれていて。
黒い壁、黒い水槽、その中を光るクラゲが漂う。
ゆっくりと。
闇と光のコントラストをまとって。
「すげぇ、クラゲに感動するとか初めてだ……」
「うまくライトの明りを反射させてるんですね」
ガラス越しに見上げた水面は不安定な鏡となって。
昇っていくような、落ちていくような。
クラゲは虚像に触れる前に、細長い触手を揺らしてまた沈んでゆく。
ふわり、ふわり。
「水中っていうより、宇宙の中にいるみたい」
「クフフ、詩人ですね」
「べ、別に、そういうつもりじゃないしっ」
「いいと思いますよ。海も宇宙も似たようなものですから」
「えー? 似てる、かなぁ」
最初に自分から言っておきながら、首を傾げる仕草が可愛くて。
笑いながら、思ったことを口にしてみる。
「どちらも暗くて、息ができなくて、広くて、どこか懐かしい、遠い世界でしょう」
行ったこともないのに、帰りたいと思ってしまう。
手を伸ばしても届かず、目に見えるのも片鱗でしかないのに。
繋いだ手に力を込められて、引かれるように視線を向けると、彼は拗ねたように口を尖らせていた。
「……骸のほうがよっぽど、詩人だと思う」
「そうですか?」
「なんか、腕とか背中がかゆくなる感じ」
「失礼ですね」
今度は僕が口を尖らせると、彼は楽しそうに破顔した。
「あはは」
笑い合いながら次の水槽へと移動して。
頼りない光が途切れると。
目がくらむほど明るい場所へと。
僕を導いて。
「っあー! 楽しかったー!」
海沿いの遊歩道へと降り、並んでフェンスへともたれかかる。
途中で買ってきたペットボトルを開けて一口飲み、そのまま彼に手渡す。
「思ったよりも広かったですね」
「う、うん、え、これ、え?」
「いらなかったですか?」
「い、いる、けど、これ、その」
「あぁ、すみません、回し飲みとか不衛生でしたね」
「違っ、そういう、意味じゃ、なくて……」
見る間に顔を俯かせて、どこかそわそわとして。
ペットボトルを手の中で軽くへこませながら。
まさかとは思いつつも、僕はその顔を覗き込んで問うてみた。
「……間接キスとか、思ってます?」
「そっ!?」
彼は驚いたように顔を跳ね上げた。
その困った表情と頬の赤さに。
「クハハっ、綱吉くん可愛いっ」
「ばっ」
「間接キスまでカウントしてくれるんですね」
そっと腕を引いて、真っ赤な頬に口付ける。
「ばっか、誰か見てたらっ」
「クフフ、まだ日本の文化に慣れてない帰国子女だって言い張ります」
「なんか微妙に通じそうな嘘だな!」
「おや、海外から移り住んだという点では本当ですよ?」
「こっ、このっ、ヘリクツ!」
膝でこちらを軽く蹴ってから、彼はそっぽ向いてペットボトルを傾けた。
間を置いて、ため息の気配。
何か、考えているのか。
もう一口だけ含むと、彼は少し難しい顔で黙り込んだ。
話しかけようかと思ったけれど、結局やめてしまう。
静寂の中に響く波音。
独特の匂いを乗せた潮風。
彼は海面を見下したまま。
僕は建物を見上げたまま。
ペットボトルを開けるために一度離した手を、再び繋ぎ合わせて。
反対方向を向いているせいで握手のような形になったけれど。
体温を共有して。
強く。
「……あのさ、」
握りしめて。
「時間、かかると思う……すぐには、無理かもしれない、けど、」
突然何の話だろうかと頭の片隅で考えたけれど、本当はすぐに思い当っていた。
「必ず、外に出すよ。絶対に、取り返す」
真剣な声音。
自信も見栄もなく、けれど確固たる信念をもって。
不本意でも己の手で投獄したこの身を。
本気で、己の手で取り戻すと宣言する。
あの冷たい水の牢獄から。
「クフフ……君の手を借りずとも、いずれ自分で出てやりますよ」
「それでも!」
向けられた瞳はきれいなオレンジ色で。
夕陽にはまだ早いというのに、そこだけ爛々と輝いて。
「俺が動くことで、骸が早く自由になるんなら、俺はためらわないよ」
澱みも汚れも何もないまっさらな色。
底意地の悪さから、つい問うてしまう。
「手段を選ばないと?」
「それは……」
真っ直ぐに視線はそらさないまま、彼は間抜けに笑みをこぼした。
「場合によっては、かな」
「場合によっては、ですか」
「誰かを傷つけたり、不幸にしたりする、そういうやり方は絶対にしない」
「クフフ、相変わらず甘ったれた平和主義の理想家ですね」
本当に胸やけするほどに甘い甘い思考回路。
自分では絶対に受け入れられない希望的観測。
「でも、俺は、後悔しないやり方で、絶対、お前を助けるよ」
僕たちが決して相容れることのできない部分。
これまでもこれからも、きっと一度だって、互いに認めることはできない。
対極の別人である以上絶対に重ならない部分。
だからこそ、
「……楽しみにしてます」
僕らはこうして手を離さずにいるのだろう。
少しだけでも重なり合うところを探して。
せめて体温だけでも近いものであってほしくて。
たぶん同じ気持ちを胸に。
「さて、そろそろ行こっか」
彼が持ったままのペットボトルを差し出してきたので、そのまま片手でフタを閉めて、カバンの中に入れてもらう。
「次はどこに連れて行ってくれるんですか?」
「着いてからのお楽しみ!」
そして、髪をなぶる潮風を追い風にして。
片手ずつ繋いで走り出す。
一緒の時間を過ごして。
一緒の記憶を作って。
明日も。
明後日も。
君と共にありたいと、願えるように。