74 | 君が一日ずつ僕を忘れていく物語





『 君が一日ずつ僕を忘れていく物語 』








 晴天の霹靂。
 この言葉を使う日がまさか来ようとは。
 長年、彼の家庭教師を務めている少年の話を一言一句逃さず聞きながらも、視線はずっと彼に釘付けられていた。
 今日は急ぎの仕事がないのか、誰かと電話で話していた。時折こちらの視線に気がついて、首を傾げて笑う。
 とても病気だとは思えない。とてもじゃないが信じられない。


 突然呼び出されて一方的に聞かされた話は、あまりに荒唐無稽すぎた。


 記憶の喪失。
 強く頭を打ちつけたわけでも、呪いを受けたわけでもなく、ただ徐々に記憶だけが欠落していくのだという。
「最初は奈々の名前が思い出せない程度だった、ちょっとした物忘れ程度のことだった」
 両親のことも、家庭教師のことも、相棒である動物のことも。
 少しずつ、忘れていく。
「病院にブチ込んで徹底的に検査しても、どこにも異常が見つからねェ」
 合法的な医療を駆使しても、Dr.シャマルのツテを使っても原因は掴めない。
 脳細胞は正常、精神状態も安定。
 あらゆる方面へと協力を要請してもなお、現時点で解決策は何も見つからない。
「八方塞がりとは、まさにこのことだな」
 それなのに記憶だけが彼の中から消えていく。
 まるで砂時計のように。


「……聞いたこともない話です」
 理解できない事象に痛む頭を押さえ、ようやく家庭教師へと視線を動かす。
 彼は帽子の下に読めない表情を隠したまま、沈鬱に呟いた。
「お前でもわからねェか……」
 敵にも期待したくなるほどの、藁にもすがりたい心地なのだろう。
 情けない姿だがしかし、理解できなくもない。
「ユニとかいう少女には聞いてみたんですか? あるいは白蘭の能力を使ってみたり」
「全部やってる、それでもだ」
 解決の糸口も何も、真っ暗闇ということか。
 もう一度聞いた話を頭の中で反芻し、蓄えた知識を底から漁って類似例を探す。
 以前に死ぬ気弾の副作用で希少な病を発症したと聞いたが、特殊弾の副作用に関する事例は基本的にもっと馬鹿らしい。
 こんな、安っぽいメロドラマのようなものではない。
 どうして記憶が消えていくのか。
 どうして彼なのか。
 どうして、今なのか。
「何の話してんの?」
 座っているソファーが軋み、隣を見遣ると綱吉が座って顔を覗き込んできていた。
 しばらく視線を合わせて、思い出したように指を差してくる。
「骸だ、変な分け目」
「……失礼ですね」
「あと片目が赤い、うん、骸だ」
「君にとって僕はそういう認識ですか」
「久し振り」
 笑みを浮かべる表情は穏やかなもの。
 精神的に追い詰められた者は忘却により自己を保とうとするが、それらしい違和感はない。
 過去に視た、マフィアの道へと進んだ彼ならあり得たことだろう。しかし、目の前にいるのはマフィアを選ばなかった彼だ。ボンゴレという重い鎖は一度切れ、彼を束縛するほどの長さもない。
 だらしない頬を軽く摘まんでやる。
「まったく面倒な男ですね」
「あはは、ほんと困ったことになってるよね」
「他人事ですか」
「そう、どうにも他人事で」
 眉尻を下げて、苦く笑う。
「忘れていく怖さも一緒に、忘れちゃってるみたいで」
 それでも怖がりで臆病な性格は変わりないらしく、頬を摘まむ指に重ねられた手は小刻みに震えていた。
 心の中では何も消したくないと泣き続けているのだろう。
「僕のことはまだ、覚えていますか?」
 しっかりと顔を見るまで確信を得てない様子だった。
 人は声から忘れていくという、どこか眉唾物の話があったが、もはや声だけでは人を判別できないのだろうか。
 綱吉は泣きそうに笑って、抱きついてきた。
「ちょっ」
「覚えてる。六道骸、変な髪型、かっこいい、俺の恋人」
「こ、アルコバレーノの前でっ」
「アルコバレーノ?」
 押し遣られるまま身を離し、きょとんと首を傾げる。
「何それ? 人の名前?」
「いえ、リボーンという」
「リボーン? リボンじゃなくて?」
 ぞく、とした。
 声の響きも表情もまったくどこもふざけていない。
 本当に、心底から理解できていないのだ。
 ちらと視線を振ると、向かいのソファーに座っていたはずの家庭教師は音もなく去っていた。
 これに接するのは彼ほど精神の強い者でも、相当辛いものがあるのかもしれない。
 抵抗する力が抜けてしまうと、綱吉は再び両腕を背中へと回して抱きしめてきた。
「骸、骸はいい匂いがするね、甘い匂いがする」
「ただの香水ですよ」
「うん、骸の声は落ち着く、このぬくもりも好きだ」
「そうですか」
「うん、だから、だからっ」
 胸に顔を埋めているせいでくぐもった声が、震える。
「俺、忘れたくないよ……」
 思わず噛んだ唇から鉄の味が広がる。
 不条理。
 その単語だけが頭に浮かび、慰める言葉が見つからない。
 綱吉を抱きしめると、いつも以上に小さく感じられて、鼻の奥が痛くなる。
 何ができるのか。どうすればいいのか。



 ――糸口はどこに。



 まるで極彩色に染められていたキャンバスを、修正液で塗り潰していくように。
 彼は少しずつ、少しずつ、記憶を欠如させていった。
 二十四時間、四六時中、一時だって離れずにいても。
 ふとした拍子に、消えていく。


「骸ってそんなに髪長かったっけ」
 君が褒めてくれてからずっと伸ばしているんですよ。


「変な服、趣味悪かったっけ?」
 うるさいですね、前から同じような服ですよ。


「いい匂い、新しい香水?」
 君が初めてプレゼントしてくれた香水と同じものを、今もずっとつけているんです。


「……あれ?」
 見上げるように瞳をまっすぐに見つめて。
「どうして、片目だけ赤いんだ?」
 不思議そうに尋ねてくる。
 家庭教師と同じように逃げられればいいのに。
 両頬を優しく包んで、微笑む。
「君を、見つけるためですよ」
「そっか」
 キスをして、跳ねるように駆けていく。


 まだ恋人と想われている。
 でも、明日はどうだろう。
 何度でも恋に堕ちる。
 そんな安っぽい映画のような奇跡は起きるだろうか。
 らしくもない希望を抱いて、先を行く彼のあとを歩く。
 残された時間が幸せであれば。
 たとえ明日、忘れられたとしても――





「――えっと、ごめん誰だっけ?」




 数歩先で振り向いた綱吉は、困ったように笑って、告げた。








 衝動的な行動だった。
 けれど、すべて記憶に刻んでいる。
 一瞬だって視線をそらさずに、すべて見届けたのだから。
 腕の中で広がっていく色の、その鮮やかささえも。
「……あぁ、思い出した……むくろ、だぁ……」
 ぬめる手が頬を撫でる。
「そっかぁ、ごめんな……こわいおもい、させて……」
 唇は赤みを失っていくのに、隙間から溢れるのは綺麗な赤。
 謝るべきは自分のほうなのに。
 泣き虫なのは彼のほうなのに。
「でも、もう、こわくないだろ?」
 忘れないで。
 何を忘れてもいい。
 でも、忘れないで。
 言葉の代わりに雫だけが落ちる。
「むくろ……おれ、むくろのこと……おもいだせたよ……」
 声に泡が混ざる。
「むくろのこと……ぜんぶ、もって――」
 目を細めて、綱吉は笑う。



「先に、逝くね」



 そうしてすべてを失った。




















 ―――そんな、夢の話。





「むーくーろ、骸さーん、いい加減離れろよー」
 やっともらえた休日に溜め込んでいたゲームを消化している真っ最中だというのに、空気を読まない同居人は背後から抱え込んで離してくれそうにない。
 どうも朝起きてからずっと、この調子である。
「変な夢でも見たのかよー、妄想力豊かだからそうなるんだよっ、おっ、いった!」
 勝利のBGMに肩の力を抜いて、次のイベントへと進める。
 普段ならもっと構えと苛めてくるのに、どうにも今日は大人しすぎて気持ち悪い。
「……もー」
 綱吉は一度コントローラーを床に置くと、身を捩って骸をぎゅっと抱きしめ、それから奇抜な頭を両手でもみくちゃに掻き回した。
 そのせいで左手の指輪に長い髪の毛が絡まってしまう。
「うわ、ごめん、痛かった?」
 肩に頭を落としてきたのもそのままに、髪を切らないよう丁寧にほどいていく。
「それにしても伸びたよなー」
 長い一束を捕まえて、猫の尻尾のようにぺしぺしと背中を叩いてやる。
 確か前に、髪の色とかを褒めて、それから伸ばし始めたんだったか。
 本人は否定していたけど、あのタイミングで伸ばすとか、可愛いにも程がある。
「ていうかさー、この前せっかく服選んでやったんだからそっち着ろよなー」
 向かい合ったせいで目についた本日のファッションに、思わずため息がこぼれる。
 別にセンスが悪いというわけじゃないし骸に似合ってると思うけれど、しかし一般的でもない。
 たぶん漫画のキャラクターとか、せめてファッション雑誌の一ページなら受け流せただろう。
「むーくー、うおっ」
 やっと反応したと思ったら、人の頭を抱え込むようにきつく抱きしめてきた。
 強制的に胸板に顔を押しつける形となり、息苦しさから慌てて横を向く。
 そうすると、骸の身体についた香水の匂いが鼻腔に届いた。
 懐かしい。
 香水なんて何もわからなかった頃に、色々嗅ぎまくって決めたプレゼントの匂いだ。
 あのボトルはもうなくなったはずなのに、いまだに骸からはあれと同じ匂いがする。
 嬉しくて緩む顔をこすりつけてから、
「もーっ、いい加減にしーなーさーいっ」
 掴んだ肩を押し離し、膝立ちになって骸を見下ろす体勢になる。
「ほーら、顔上げろよ、むーくーろっ」
 両頬を包んで強引に持ち上げて。
 鬱陶しい前髪が耳のほうへと流れると、左右色違いのガラス玉が眼孔にはまっていた。
 様々な赤のグラデーションの中に、ぼんやりと浮かび上がる六の文字。
 恐ろしい力を潜めているのに、こうして見つめる限りはすごく綺麗だなという感想しか出てこない。
 ゆっくりと身を屈めて、触れるだけのキスを落とす。
「何、泣きそうな顔してんだよ」
 ちゅ、ちゅ、と頬や鼻先、眉間や額にもキスしてやる。
「……僕が誰だか、わかります?」
「骸だろ、六道骸、いまだ中二病が治ってない変人の骸さん」
「他には」
「え、怒らないの? んーっと、あとは、サンバとか言われちゃう残念なイケメンの骸さん」
「他は?」
「ちょ、どうしたんだよ、他って、えぇー? 骸は骸だろぉ?」
「もっと、」
「あ! あとあれだ、あれ、その、ほらあれだよ」
 子犬のように見上げてくる視線から逃げて、恥ずかしくて、ぽつりと小さく呟く。
「俺の、その、旦那様っていう……」
「綱吉くん!」
「うぎゃあ!」
 前言撤回、子犬なんて可愛いもんじゃなかった。
 突然押し倒してきた躾のなってない大型犬は、何がどう嬉しかったのか服から出ている肌という肌にキス攻撃を仕掛けてきた。
「こら、骸! 何なんだよ一体もお!」
「綱吉くん愛してます!」
「急に来るなよ!」
「綱吉くん! 綱吉くん!」
「落ち着け! ウザい! 骸ウザい!!」
「受け止めて僕の愛を!」
「ぎゃあああっ」


 ――鉄拳制裁。


 やっと大人しくなったものの、それでも解放してくれない骸にあきらめて背を預け、再びコントローラーへと手を伸ばす。
 一時停止を解除して、次の街へとプレイヤーを進めていく。
「ねぇ綱吉くん」
「何だよ」
「今日の晩ご飯どうしましょう?」
「え、何、もうそんな時間?」
 慌てて腕時計を確かめ、続けてケータイでも時間も確認する。
「やっば、着替えて仕度しないと」
「どこか行くんですか?」
「行くよ、もちろん骸も一緒だからな」
「どこへ?」
 心底から何も察していない声音。
 こいつは何年経ってもこうだから。
 綱吉は再び身をよじって骸を見遣ると、長い尻尾を掴んで引いた。
「レストランだよ、お前が一度食べてみたいって言ってたショコラティエのいる」
「どうして?」
「……今日、何の日か忘れた?」
 怪訝そうな顔で小首を傾げる。
 それから、何か思い当たるものがあったのだろう、色違いの双眸を丸く見開いた。
「わかったら、ほら、離せよ。さすがにこれじゃドレスコードに引っかかる」
 そう言った綱吉の恰好は、襟の伸びたTシャツに色褪せたハーフパンツだった。
「では僕もおめかししましょうかね」
「カッコいいのでお願いします」
「じゃあ綱吉くんは、そうですね、少しは年齢通りに見える恰好で」
「うるせぇ! どうせ童顔だチキショウ!」
「クフフ」
 底意地の悪い、独特の笑い声を響かせて。
 ――やっと笑ってくれた。
 内心で安堵の息を吐いて、綱吉はようやく骸の腕から脱出して立ち上がった。
「さっさと用意して出掛けるぞ」
「仰せの通りに」
「あ、車出すの骸な」
「はいはい」
「あと、」
 背伸びをして、触れてから。
 驚く旦那様に囁いてやる。
「大好き」
 もう一度触れて、綱吉は骸が正気に戻る前に着替えのある寝室へとダッシュで逃げた。
 一拍遅れて、追いかけてくる足音。
 それよりも早く、なんとか早く寝室に逃げ込み、大急ぎで扉を閉めてしまう。
「ちょ、綱吉くん!」
「あとで! あとで聞くから! ごめんあとで!」
「それ何ていう生殺しプレイですか!」
「プレイ言うな!」
 いい歳して真っ赤になった顔を両手で覆って、ひー、と喉から声をこぼす。
 何回も言い続けて今さら言い慣れた台詞であるはずなのに、こうして改めて告げるのは、――どうしてこう、恥ずかしいものなのか。
 それはきっと。



 きっとね。


 今日という日が、君と出会えた最高の記念日だから。


 ――だから、仕方ないと思うんだ。






「綱吉くん!」
「何だよ!」
「僕も愛してます!」
「大声で言うなバカー!!」






× × ×

この日君に出会えた奇跡!
シリアスで書き始めたけれど、やっぱり途中で耐え切れなくなった!
むくつなはハッピーが一番だよね!