テレビが垂れ流し続ける情報は、いつだって世界の愚かさを知らしめる。
壊れてしまえばいいのにと振り下ろした手は、いつだって彼に受け止められてしまう。
薄い扉の向こう、階段を上がってくる足音。
声も気配も殺して待っていると、玄関の鍵を開ける音に若干の違和感があった。
やはり彼からは隠れられないか。
息だけで笑い、ソファーに背を預ける。
肌に刺さる緊張感をまとってリビングに入ってきた家主は、悠然と居座る骸の姿を見た途端、
「やっぱりお前かよぉー」
持っていた荷物を次々と床に落としながら、その場に座り込んだ。
綺麗にラッピングされた袋や箱が転がっていく様子を眺めつつ、にっこりと笑って迎えてやる。
「おかえりなさい、綱吉」
「ただいまー、つか勝手に入ってんなよぉ」
「いいじゃないですか、君と僕の仲でしょう?」
長く恋人以上の付き合いをしているのだから、今さらプライベートもない。
しかし綱吉は少し視線を巡らせ、首を傾げて問うた。
「確か教えてなかったよな、この部屋は」
「クフフ、僕に知らないことはありませんよ」
そう笑って、指先に引っかけた合鍵を見せてやると、心底からあきらめた表情を拝むことができた。
昔々、大昔の話。骸は世界のすべてを憎んでいた。
絶望を生み出すものすべてを壊して、壊し尽くして、新しく作り直そうとしていた。
そうすることが己の望みであると信じて。
無心に真っ直ぐ突き進んでいた先に現れた、ひとりの少年。
温室でぬくぬくと育ってきた彼は、将来の夢も具体的な理想も持っていないくせに、一丁前に自分を止めようとしてきた。
いくつもの出会いと経験を重ねて。
「それだと、お前まで、壊れちゃうよ」
選んだ方法が骸自身をも破滅へと導くことを知って、彼はこらえきれなかった涙を次々とこぼした。
なんて綺麗な涙なんだろう。
重油のような黒い泥沼を、少しずつでも浄化しようとする雫。
それでも、その清らかさに触れてなお沈鬱と濁る心に、嫌気が差した。
浮かべた笑みは、きっと薄情なものになっただろう。
今さら何も止められはしない。
確かに君との出会いで自分は変容し始めていただろう。
けれど、根底から救うことは不可能だ。
だからなのか。
顔を上げた綱吉は、その瞳に強い光を宿していた。
「それにしても随分と赤い顔して、酔っ払いですか?」
「だってリボーンがさぁ、俺の酒は飲めないのかって、すーげぇ飲ませてくんの」
「水、飲みます?」
「横になりたいー」
そこが床であることも気にせず、綱吉は傾ぐままに天井を仰いで倒れた。
上質そうなスーツであるのにもったいないことを。
「汚れますよ」
「起こしてー、だっこー」
「おやおや」
酔っていることを差し引いても珍しいほど幼児退行しているようだ。
面白いのでムービーに収めて明日にでも見せてやろうと考え、ポケットからケータイを取り出して構える。
「あ、こら撮んなよ」
「これが組織のリーダーとは嘆かわしい」
「今はプライベートだから、パパラッチやめろよー」
顔の前で腕をぶんぶんと振っては、疲れて床の上をもだもだと動く。
外で見せるような泰然とした雰囲気などどこにもなく、おもちゃをねだる駄々っ子にしか見えない。
酒に酔っているというのに色気のいの字もないし。
「いまいちそそられないアングルですね」
あからさまなため息と共にケータイを仕舞うと、綱吉は何が気に食わなかったのか、
「とびきりセクシーショットくれてやろうか!」
手の平で床を叩いて、わずかに据わった目で睨みつけてきた。
「おや、乗り気ですか?」
「誘惑してやんよ!」
「クフ、では」
「うっ、きもりらるひ――」
「残念な人ですね本当に!」
口に手を当ててうずくまる綱吉に、骸は慌てて駆け寄った。
汚い世界を変えるために、骸はまず、最初の絶望を生み出したマフィアという組織の根絶を願った。
無理やり授けられた力ではあったものの、六道眼は便利な道具であった。
敵に憑依し内部から崩壊を誘い、圧倒的武力によって壊滅へと導く。
絶望の種を残らず壊してしまえば、少なくともそこから新たな種は産まれないと信じて、とにかく壊し続けた。
マフィアを壊し尽くせば、悪と癒着し腐っていた組織にも手を伸ばした。
己の快楽を優先し、犠牲ばかりを生み出す研究などいらないと、組織が抱え込む研究所も残さず壊した。
その先に清浄な世界が残れば充分だ。
他には何もいらない。
最後に壊すのが、醜く汚れた自分自身であっても。
「それじゃ、ダメだよ」
瓦礫の山に君臨していた骸の前に、綱吉は何度でも現れてみせた。
彼がボンゴレという強大な力を手に入れた瞬間に、歩む道が分かれてしまったけれど、それは彼が意図したことでもあった。
綱吉は骸とはまったく違う方法で、世界の変革を試みようとしていたのだった。
一度受け取ったボンゴレという組織の頂点で改革を果たし、マフィアでなくすと共に新たな説得力を得た組織として、世界中に影響力を広げていった。
骸が、その圧倒的な強さで掌握していた世界は、いつしか綱吉のカリスマ性にこそふれ伏し始めていた。
冷たい水を飲み干し、綱吉はコップを返しつつ骸の首に手を伸ばした。
「だっこー」
「嫌ですよ重い」
微熱というには熱すぎる手を払って、空のコップをシンクへと置きに行く。
この隠れ家に移ってまだ日が浅いのだろう、シンクは水曇りもなく綺麗なものだった。
彼が世界の争いを仲裁して回るほどに、彼の敵は世界中に増えていった。それらの悪意から身を守るため、いつ頃からか彼は世界各所に隠れ家を置き、どこにいるとも掴めない頻度で移動するようになっていた。
居所が掴めないという点ではお互い様なので、その時々での情報戦に引っかかれば、こうして不意打ちなど仕掛けてやる。
その面倒さを実は楽しんでいたりするのは、綱吉には秘密だ。
「それより、こんなに酔っ払って、潜んでいたのが僕でなかったらどうするんです?」
「骸ってすぐわかったから大丈夫だもん」
「だもんって……三十路超えた男の発言にしてはサムいですね」
「え、かわいくない?」
床の冷たさが気持ちいいのか、大型犬のように寝そべったまま綱吉はどんぐり色の目を丸くした。
西洋人の血が混ざっているはずなのに、この童顔は死ぬまで治らないのか。
「獄寺くんとかクロームは褒めてくれたのに」
「彼らの君に対する感性はズレているんです」
昔からだが、彼らは綱吉に憧憬を抱きすぎている。
実際はこんなにも――
「骸はかわいくないって思ってる?」
酔いで潤んだ瞳で見上げてくる。
「可愛いから、困るんですよ……」
「やったー」
嬉しそうに転がる綱吉の横に膝をついて、骸は何ともしがたいため息を吐き出した。
恋も愛も必要ないと考えていたのに、どうしてこんなにも簡単に丸め込められてしまったのか。今でもこの気持ちが納得できない。
世界を壊す望みは消えていない。
けれど、同じ心の内で、彼と共にいる未来を望んでしまう。
理解できないこの感情は、いつか、雪のように解ける日がくるのだろうか。
「だっこー」
「はいはい」
自力で動いてもらうことは困難と判断し、伸ばされた腕ごと綱吉の身体を拾い上げる。
お姫様だっこにも抵抗することなく、綱吉は首に抱きついてきた。
「運転手さんソファーまでお願いしまーす」
「う、酒臭いので喋らないでください」
「ちゅーもなし?」
「触れるだけですよ? 舌入れたら噛み切りますからね」
「んー、ふふ」
笑う唇に、そっと触れて。
世界を二分するかのごとく衝突を続けながらも。
おかしなことに。
不思議なことに。
互いの心の内には、模索の余地があった。
相容れない位置に立っているはずなのに、手を伸ばせば届く気がしていた。
マフィアを殲滅し、すべてを壊すことで世界の転生を促す他に。
マフィアを解体し、争いをなくすことで世界の復活を望む他に。
――どちらも欠けることなく、均衡を保てる関係を。
もう一歩。
あと一歩で、見つかる気がして。
「夕食は済ませたんですか?」
抱きしめたままソファーに戻り、ぬいぐるみを相手するようにこめかみに口付ける。
硬質な髪は鼻先をくすぐり、日なたの匂いを感じさせた。
「ラーメン食べたい肉厚チャーシュー!」
「この国にあるわけないでしょう」
「あるよ、フィレンツェのほうに。山本が見つけてきてさぁ」
「また遠い所に……」
こと食に対する日本人の行動力は本当に理解不能だ。
綱吉も山本武も海外に滞在するほどに、味噌やら醤油やらと喚き出す。
郷に入っては郷に従えという格言はどこに消えたのか。
「今から行くとしても、車で半日はかかりますよ」
「すぐ食べたい」
「無理ですね」
「こんな時のために、シンクの下には貴重な物資が詰められている」
「はぁ?」
膝の上に座る綱吉を見下ろすと、神妙な顔で頷いてみせた。
「あとはお湯沸かすだけ」
「――なるほど」
納得すると共に、またもや長いため息が出る。
日本から持ってきたインスタントのカップ麺がストックされているということか。
用意周到というかズボラというか、評価に迷うところではあるが。
「作れってことですか」
「愛情たっぷりで!」
「たかがインスタントで」
「よろしく!」
「ったく、君は今日が何の日か忘れたんですか……」
額に口付けて一度きつく抱きしめてから、綱吉をソファーに降ろしてひとりキッチンへ向かう。
その腕をしっかりと捕まえて。
綱吉は幸せそうに微笑んだ。
「忘れそうだから言ってよ、今日ずっと楽しみにしてたんだ」
「――っ君って人は!」
思わず綱吉の額を指で弾く。
それから、骸は呆れた笑みで言祝いだ。
「Buon Compleanno、綱吉」
こらえきれず溢れる何か。
何度だって君には敵わない。