空になった湯呑みをくるくると回す。
「……アジ」
ひとつ、ふたつと読める漢字を見つけては口にする。
「サバ……マグロ……」
そこにあるすべてに魚の文字。
だから、ここにあるすべては魚の名前。
魚の名前を示す漢字。
「……サワラ?」
「正解」
ひょいと取り上げられ、代わりに日本茶の香りが鼻腔をかすめる。
「親父が喜んでたぜ」
急須からお茶を注ぐ。
「獄寺は何でも残さず食うから作り甲斐があるってさ」
戻ってきた湯呑みには、薄緑色のお湯がなみなみと満ちていた。
その水面を見つめながら、素っ気なく返す。
「……そうかよ」
ちょうどよい温度になるまで、またくるくると漢字を眺める。
イワシ。サバ。ヒラメ。タイ。
どれも一度は食べたもの。
この家の食卓で、並んだ料理。
一緒に食べたもの。
「俺も」
低いテーブルに肘を載せて上体を傾けながら、山本が笑って言った。
「獄寺が一緒だと、それだけでメシが旨くなる感じがして、すげぇ嬉しくなる」
「……意味わかんねぇよ」
少し移動して、体を横に倒すと、ちょうどいい高さに肩。
暑いぐらいの体温。
「どした?」
猫がそうするように、頭をすりつける。
「マーキング?」
「違ぇ」
否定しながらも離れようとは、しない。
離れたくないとは、言わない。
言わないけれど。
伝わればいいと、願う。
これほどまでに心を落ち着かせてくれるのは――
「獄寺くん、今日は泊まっ」
「うわあぁっ」
「おおおぅっ」
もう少しで触れそうだった唇を離し、突き飛ばし、腕を掴まれ、重なるように倒れてしまう。
「……プロレス、か?」
「こ、これは、」
「あはは、おもしれー」
「……まぁ、怪我しねぇ程度にな」
大きな手がふたつの頭をわっしわっしとかいぐり撫でてすぎる。
少し痛いぐらいに優しく。
自然と嬉しくなる心を隠すように黙り込むと、真下で笑う気配がした。
無言で睨む。
「あぁ、水羊羹があるんだが、獄寺くんは食べられるかい?」
「あ、はい、平気っス」
「よし、ちょっと待ってな」
「俺も行く」
そのまま、ひとりぽつりと残されてしまう。
仕方なく、湯呑みの中の魚をくるくると眺める。
「タラ……ニシン……」
美味しい料理に賑やかな食卓。
囲んで。食事を楽しんで。笑う。
居心地のいい場所。
いつまでもいたいと、願ってしまう。
「……?」
ひとつ、知らない漢字を見つける。
「魚に、喜ぶ……?」
食べたことがあるだろうか。
喜ぶような……
テーブルに伏して考えていると、山本の声が降ってきた。
「どした?」
「……この漢字」
頭だけもたげ、指先で漢字を指し示す。
「何て読むんだ?」
「どれ?」
「この」
「あぁ、それなー」
山本は意味あり気に、あるいは至極楽しそうに笑った。
そして。
ふに、と指先で唇に触れてきた。
「キス、してくれたら教える」
「なっ」
「キス、さっき邪魔されたし」
「ばっ」
「獄寺も好きじゃん、キス」
何だよ。
その顔、態度、なんていうか全部ムカつく。
何がおかしいんだよ。
素直に教えりゃいいだろうが。
何だよ。
何だってんだよ。
――畜生。
「すりゃいいんだろがっ」
強引に頭を捕まえて、位置を確かめて、目を閉じて。
柔らかく、押しつける。
食らいつくように舌を絡め、唾液を、呼吸を交わらせる。
離れても、口の中に熱が残るほど。
「……で?」
「ん?」
「何て、読むんだよ」
「あぁ、キス」
「さっきしただろうが!」
「うん、だから、キス」
にやにやと。
山本は湯呑みの魚を指差した。
「この漢字が、キス」
「――っ」
すぐ手元にあった新聞を取り上げ、瞬時に丸めて一気に、
「親父ギャグかよ!」
叫び声と共に振り下ろした。
すぱこーん、と小気味良い音が響く。
「なんだなんだ、今度は喧嘩か?」
「喧嘩っつーか痴話喧嘩?」
「違う!」
ばこん、と二発目。
「あぁ、漫才ってヤツかい!」
「夫婦漫才なー」
「だから違う!!」
三発目は受け止められてしまった。
「まぁまぁ、水羊羹、食おうぜ?」
「おう、冷たい内に食っちまいな」
「う……」
湯呑みに再び熱いお茶が注がれる。
かなり納得いかないところが多いが。
似たような笑い顔を同時に向けられ、怒る気もそがれてしまった。
「……いただきます」
一口、二口。
溶けるような美味しさに、色々とどうでもよくなる。
言おうとした文句もどこかに消えた。
同じように水羊羹を食べる親子を見て、こっそりと笑う。
それすら山本に目ざとく見つけられる。
「どした?」
「何でもねぇよ」
「そか?」
ここは居心地がいい。
だから。
それだけでいい。