41|予防線は紙一重





『 予防線は紙一重 』





 今日は朝からいい事がない。
 まず、下駄箱の扉が壊れた。
 男子の視線が痛い。
 女子の視線が怖い。
 風紀委員に目をつけられそうになる。
 一緒に帰ろうと思っていたツナがいつの間にかいなくなっていた。
 でも、それも、まぁ、些細なことだ。
 一番へこんだのは――
「さて、見舞いに行くかぁ」
 両手に紙袋を提げて、俺は学校を出た。



 歩き慣れた道をたどり、見慣れたマンションに入り、いつものように呼び鈴を鳴らして、待つこと五分。
 スピーカーから何も聞こえないかわりに、鍵の開く音が響いた。
 チェーン越しに銀髪が見える。
 隙間からのぞき込むと、真っ赤な顔があった。
「……ンだ……テメェかよ……」
 かすれた声。
 予想以上に重症らしい。
 心配になって、さらにちゃんと確認しようとするのを遮るように、扉が閉められた。
「え、ちょ、」
 チェーンを外す音。
 再び開けられた扉の向こうに、獄寺の姿はなかった。
 いや、正確には、視線の高さには何も見えなかった。
 まさかと思い、そっと下を向くと――
「ごくでらっ!?」
 座り込むように獄寺が倒れていた。


 ちゃんとベッドに寝かせて。
 体温計を挟ませて。
 薬の有無を確認して。
「うわ、三十九度もあるし」
 冷えピタ貼り替えて。
 食料を見つけたからおかゆを作って。
「獄寺、具合は?」
「……さみぃ……」
 ベッドから差し出される手を握ると、カイロみたいに熱かった。
 それなのにわずかに震えていて、言葉通り、寒そうに見えた。
 抱きしめたら、少しはマシになるだろうか。
 まぁ嫌がるのは明らかだから今はやめとこう。
「食える?」
「……たぶん……」
 獄寺はゆっくりと起き上がり、マスクを顎の下にずらした。
 その間にスプーンに少しだけすくい、十分に冷ましてから、そっと口元に運ぶ。
 怒られるかな、という予想を裏切り、獄寺は素直にスプーンの先を口に含んだ。
「えっ」
「……うまい……」
 しかも感想まで。
 やばい嬉しい。
 例えるなら、今まで懐いてもらえなかった野良猫に擦り寄られた気分だ。
「ま、まだあるからなっ」
 俺は慌てず騒がず驚かせず、できるだけ落ち着いて、残りのおかゆを食べさせた。
 一日何も食べていなかったのか、皿はすぐに空になってしまった。
「次は薬な」
 そばのテーブルに散らかされたシートから錠剤をふたつ取り出し、舌の上に乗せる。
 なんかちょっとエロいかも。
「……みず」
「あ、うん、そうだよなっ」
 グラスの縁に唇を当て、ゆっくり傾ける。
 相手は風邪ひいてるっていうのに、何考えてんだ。
 あぁ、でも、目とか潤んでて少し気弱そうな顔とか、なかなかレアだから――
 ふと、見つめられていたことに気づく。
 え、まさか思考が読まれた?
 かと思うと、ふいと視線を外される。
「どうしたのな?」
「……あの袋、どうしたんだよ」
「あの? ……あぁ」
 向けられた視線の先、部屋の端に置かれたままの紙袋。
「あれは、その……」
 今日ずっとつきまとっているもやもやした感情。
 笑顔でごまかして。
 わざと、直視するのを避けていた。

「……本当はさ、」
 ずっと、引っかかっていた思いを、言葉にする。
「もちろん様子見に来たのがメインだけど、あれを――」
 ベッド脇から離れ、袋を引っ張って戻る。
 中には女子から預かった数え切れないほどの箱。
 獄寺に渡すように頼まれた、チョコレート。
「届けに、来たのもあって」
 このまま置いていくつもりだった。
 なのに、胸を絞める。
 想いが心を苦しくする。
「本音言うと、やっぱ……」
 不意に苦笑がこぼれた。
「渡したくねぇや」
 これを笑って受け取っていた自分に、今更ながら嫌気がさした。
 だって、これは他人の想い。
 獄寺を好きだという、誰かの気持ち。
 自分以外の誰かが、獄寺の心に触れようとしているのかと考えると。
「渡したく、ないのな」
 それが彼女たちを裏切る行為だとしても。
 ふと、頬を包むように、熱い手が触れた。
「……やるよ、全部……」
 濡れた木の葉のような目が見つめてくる。
 それだけで、どきりと、心臓が跳ねた。
「やるって、まさか、獄寺?」
「欲しいんだろ……?」
「それは、いや、でもさ」
 今は風邪ひいてるわけだし。
 風邪ごともらう覚悟はあるけど。
 獄寺がちゃんと理解して発言してるかわからないわけで。
 ここでもらっちゃったら、獄寺は後悔しないだろうか。
「……山本?」
 眉間に皺が寄せられる。
 頬に触れていた手が、引き寄せるようにシャツを握りしめる。
 小さく震えて。
 そこでふと、違和感に気づいた。
 顔の赤みが引いてないか?
 いや、むしろ――
「も、その匂い、ヤバい……」
 消えそうなうめき声。
 獄寺は口を押さえて、うつむいた。
「わ、わぁあっ! ちょ、洗面器!」
 俺は慌ててチョコを袋ごと抱え、風呂場へと走った。



 結局、大惨事になることはなく。
 洗面器は用もなく床に転がることとなった。
「気分は?」
「……まだ、マシ……」
 手の甲を首元に当てて熱を診る。
 まだ平熱とは言えないが、来たときよりは大分下がっただろうか。
 これなら明日には落ち着くだろう。
 薬が効いてきたのか、獄寺は眠そうにマスクの下で欠伸をこぼした。
「じゃあ、そろそろ帰るな」
「……ん」
「あ、チョコどうする?」
 ひとまず台所に退避させているが。
「……やるっつったろ」
「え?」
「さっき、全部やるって、言ったろ……」
 記憶を手繰り寄せ、獄寺との会話を思い出す。
 チョコをもらうようなくだりがどこに。
 やるって言った? 全部?
「……あ」
 潤んだ瞳を思い出す。
「あ、あれって、そういう意味だったのな!?」
「……他に、何があるんだよ」
「いや、てっきり獄寺くれんのかと」
「ばっゲホっゴホっ」
 怒声の代わりに咳が続く。
「あぁもう、大丈夫なのな?」
 落ち着かせるように、布団の上から胸の辺りを叩いてやる。
「テメェが、変なこと、言うからっ」
「だってあの流れだったら、ほら、俺がヤキモチ妬かないように、獄寺くれんのかなぁって」
「誰がっ」
「喉痛めてんだから、無理に声出すなって」
 咳が止まるまで待って、ストローを差したペットボトルを差し出す。
「でも、そっか、あれチョコのことだったのかぁ」
 渡したくないって、別に欲しいって意味じゃなかったんだけどなぁ。
 俺も獄寺と同じくらいもらってるし。
 ……本当は、俺も、もらうべきじゃなかったんだよなぁ。
 今の俺じゃ、誰の想いにも応えられないわけだし。
「……何、変な顔してんだよ」
「ん? んー、あれだ、不誠実だなぁと思って」
「何が」
「俺の行動がさ、ちょっと、自己嫌悪っつーか」
 ベッドの端に座り、天井を仰ぐ。
「もう獄寺以外、好きになれないのに、チョコだけ受け取るなんてさ」
 中にはチョコと一緒に告白してくれる女子もいた。
 きっと箱の中には手紙が入っているものもあるのだろう。
 本気の気持ち。
 懸命な勇気。
 人を好きになる怖さとか色んなものが、中には入っているのだろう。
 それがわかっていて。
 それを無駄にするとわかっていて。
「……バカじゃねぇの」
「そうかもだけど――」
 言葉は続かない。
 胸ぐらを掴まれ、一瞬、上下左右の感覚がなくなる。
 引き寄せられたのだと、あとから知る。
 薄い紙を隔てて、熱い、柔らかい、知った感触。
 呼吸。
「俺は、俺が一番なら、他は、知ったこっちゃねぇ」
 かすれた声。
 赤い顔。
「そんなことで、悩むんじゃねぇよ、お前は俺だけ見てれば――」
 くらりと銀色の頭が揺れる。
 かと思うと、力なく俺の肩に頭を乗せた。
「……今の、聞かなかったことにしろ」
「え!? 無理!」
「即答すんっゲホっゴホっ」
「あーもぉ無理すんなって」
 手を伸ばして背を撫でる。
 触れた場所から伝わる、いつもより高い体温。
 これが風邪のせいだけじゃないとしたら。
「笑うなっ」
「え、えー?」
 誤魔化しつつも、確かに頬は緩みっぱなしで。
 俺は殴られるのを覚悟しつつ、獄寺を抱きしめた。
 それぐらいしないと、あふれる感情は止められなくて。
「うん、そうだよな、うん」
 熱に麻痺した言葉でも。
 それは間違いなく、初めて聞けた、本音の端っこ。
「チョコなんかより、獄寺のキスのが、一番嬉しいのな」
 開きかけた口を、お返しのキスで塞ぐ。
 あんまり咳がひどいと、そばにいるこっちが不安になるし。
 喉を痛めたら、高い声が聞けなくなる。
 マスク越しではそれ以上のことはできず、俺はすぐに獄寺を離した。
 このまま風邪うつされてもいいけど、それは獄寺自身が許せないことだろうし。
 こんな紙一枚で防げるのかも知らないけど。
「獄寺、顔真っ赤っかだけど、大丈夫?」
「風邪ひいてんだよ!」
「うん、そうだったのな」
「だぁら、う、うつる前に、帰れボケ!」
「うん、ちゃんと寝て、休むんだぞ?」
「わ、わかってんだよ、黙れアホ!」
「うん」
 掛け布団を整え、冷えピタの上におまじないのキスを落として。
「じゃあ、また明日な」
「……おう」
 ぶっきらぼうな返答に苦笑をこぼしつつ。
 わずかに移った熱を感じつつ。
 思うのは――


 チョコより甘いなら、こういうのもありかなぁ。


 とか、そういうどうでもいいこと。






× × ×

オチなし!orz

マスクネタはいつも提供ありがとうございます閣下より頂戴いたしました。
いいよね物越しのキスって!

あと、大量のチョコは風邪が治ったあとに
フォンデュにしてみんなでおいしくいただきました。