今日は朝からいい事がない。
まず、下駄箱の扉が壊れた。
男子の視線が痛い。
女子の視線が怖い。
風紀委員に目をつけられそうになる。
一緒に帰ろうと思っていたツナがいつの間にかいなくなっていた。
でも、それも、まぁ、些細なことだ。
一番へこんだのは――
「さて、見舞いに行くかぁ」
両手に紙袋を提げて、俺は学校を出た。
歩き慣れた道をたどり、見慣れたマンションに入り、いつものように呼び鈴を鳴らして、待つこと五分。
スピーカーから何も聞こえないかわりに、鍵の開く音が響いた。
チェーン越しに銀髪が見える。
隙間からのぞき込むと、真っ赤な顔があった。
「……ンだ……テメェかよ……」
かすれた声。
予想以上に重症らしい。
心配になって、さらにちゃんと確認しようとするのを遮るように、扉が閉められた。
「え、ちょ、」
チェーンを外す音。
再び開けられた扉の向こうに、獄寺の姿はなかった。
いや、正確には、視線の高さには何も見えなかった。
まさかと思い、そっと下を向くと――
「ごくでらっ!?」
座り込むように獄寺が倒れていた。
ちゃんとベッドに寝かせて。
体温計を挟ませて。
薬の有無を確認して。
「うわ、三十九度もあるし」
冷えピタ貼り替えて。
食料を見つけたからおかゆを作って。
「獄寺、具合は?」
「……さみぃ……」
ベッドから差し出される手を握ると、カイロみたいに熱かった。
それなのにわずかに震えていて、言葉通り、寒そうに見えた。
抱きしめたら、少しはマシになるだろうか。
まぁ嫌がるのは明らかだから今はやめとこう。
「食える?」
「……たぶん……」
獄寺はゆっくりと起き上がり、マスクを顎の下にずらした。
その間にスプーンに少しだけすくい、十分に冷ましてから、そっと口元に運ぶ。
怒られるかな、という予想を裏切り、獄寺は素直にスプーンの先を口に含んだ。
「えっ」
「……うまい……」
しかも感想まで。
やばい嬉しい。
例えるなら、今まで懐いてもらえなかった野良猫に擦り寄られた気分だ。
「ま、まだあるからなっ」
俺は慌てず騒がず驚かせず、できるだけ落ち着いて、残りのおかゆを食べさせた。
一日何も食べていなかったのか、皿はすぐに空になってしまった。
「次は薬な」
そばのテーブルに散らかされたシートから錠剤をふたつ取り出し、舌の上に乗せる。
なんかちょっとエロいかも。
「……みず」
「あ、うん、そうだよなっ」
グラスの縁に唇を当て、ゆっくり傾ける。
相手は風邪ひいてるっていうのに、何考えてんだ。
あぁ、でも、目とか潤んでて少し気弱そうな顔とか、なかなかレアだから――
ふと、見つめられていたことに気づく。
え、まさか思考が読まれた?
かと思うと、ふいと視線を外される。
「どうしたのな?」
「……あの袋、どうしたんだよ」
「あの? ……あぁ」
向けられた視線の先、部屋の端に置かれたままの紙袋。
「あれは、その……」
今日ずっとつきまとっているもやもやした感情。
笑顔でごまかして。
わざと、直視するのを避けていた。
「……本当はさ、」
ずっと、引っかかっていた思いを、言葉にする。
「もちろん様子見に来たのがメインだけど、あれを――」
ベッド脇から離れ、袋を引っ張って戻る。
中には女子から預かった数え切れないほどの箱。
獄寺に渡すように頼まれた、チョコレート。
「届けに、来たのもあって」
このまま置いていくつもりだった。
なのに、胸を絞める。
想いが心を苦しくする。
「本音言うと、やっぱ……」
不意に苦笑がこぼれた。
「渡したくねぇや」
これを笑って受け取っていた自分に、今更ながら嫌気がさした。
だって、これは他人の想い。
獄寺を好きだという、誰かの気持ち。
自分以外の誰かが、獄寺の心に触れようとしているのかと考えると。
「渡したく、ないのな」
それが彼女たちを裏切る行為だとしても。
ふと、頬を包むように、熱い手が触れた。
「……やるよ、全部……」
濡れた木の葉のような目が見つめてくる。
それだけで、どきりと、心臓が跳ねた。
「やるって、まさか、獄寺?」
「欲しいんだろ……?」
「それは、いや、でもさ」
今は風邪ひいてるわけだし。
風邪ごともらう覚悟はあるけど。
獄寺がちゃんと理解して発言してるかわからないわけで。
ここでもらっちゃったら、獄寺は後悔しないだろうか。
「……山本?」
眉間に皺が寄せられる。
頬に触れていた手が、引き寄せるようにシャツを握りしめる。
小さく震えて。
そこでふと、違和感に気づいた。
顔の赤みが引いてないか?
いや、むしろ――
「も、その匂い、ヤバい……」
消えそうなうめき声。
獄寺は口を押さえて、うつむいた。
「わ、わぁあっ! ちょ、洗面器!」
俺は慌ててチョコを袋ごと抱え、風呂場へと走った。
結局、大惨事になることはなく。
洗面器は用もなく床に転がることとなった。
「気分は?」
「……まだ、マシ……」
手の甲を首元に当てて熱を診る。
まだ平熱とは言えないが、来たときよりは大分下がっただろうか。
これなら明日には落ち着くだろう。
薬が効いてきたのか、獄寺は眠そうにマスクの下で欠伸をこぼした。
「じゃあ、そろそろ帰るな」
「……ん」
「あ、チョコどうする?」
ひとまず台所に退避させているが。
「……やるっつったろ」
「え?」
「さっき、全部やるって、言ったろ……」
記憶を手繰り寄せ、獄寺との会話を思い出す。
チョコをもらうようなくだりがどこに。
やるって言った? 全部?
「……あ」
潤んだ瞳を思い出す。
「あ、あれって、そういう意味だったのな!?」
「……他に、何があるんだよ」
「いや、てっきり獄寺くれんのかと」
「ばっゲホっゴホっ」
怒声の代わりに咳が続く。
「あぁもう、大丈夫なのな?」
落ち着かせるように、布団の上から胸の辺りを叩いてやる。
「テメェが、変なこと、言うからっ」
「だってあの流れだったら、ほら、俺がヤキモチ妬かないように、獄寺くれんのかなぁって」
「誰がっ」
「喉痛めてんだから、無理に声出すなって」
咳が止まるまで待って、ストローを差したペットボトルを差し出す。
「でも、そっか、あれチョコのことだったのかぁ」
渡したくないって、別に欲しいって意味じゃなかったんだけどなぁ。
俺も獄寺と同じくらいもらってるし。
……本当は、俺も、もらうべきじゃなかったんだよなぁ。
今の俺じゃ、誰の想いにも応えられないわけだし。
「……何、変な顔してんだよ」
「ん? んー、あれだ、不誠実だなぁと思って」
「何が」
「俺の行動がさ、ちょっと、自己嫌悪っつーか」
ベッドの端に座り、天井を仰ぐ。
「もう獄寺以外、好きになれないのに、チョコだけ受け取るなんてさ」
中にはチョコと一緒に告白してくれる女子もいた。
きっと箱の中には手紙が入っているものもあるのだろう。
本気の気持ち。
懸命な勇気。
人を好きになる怖さとか色んなものが、中には入っているのだろう。
それがわかっていて。
それを無駄にするとわかっていて。
「……バカじゃねぇの」
「そうかもだけど――」
言葉は続かない。
胸ぐらを掴まれ、一瞬、上下左右の感覚がなくなる。
引き寄せられたのだと、あとから知る。
薄い紙を隔てて、熱い、柔らかい、知った感触。
呼吸。
「俺は、俺が一番なら、他は、知ったこっちゃねぇ」
かすれた声。
赤い顔。
「そんなことで、悩むんじゃねぇよ、お前は俺だけ見てれば――」
くらりと銀色の頭が揺れる。
かと思うと、力なく俺の肩に頭を乗せた。
「……今の、聞かなかったことにしろ」
「え!? 無理!」
「即答すんっゲホっゴホっ」
「あーもぉ無理すんなって」
手を伸ばして背を撫でる。
触れた場所から伝わる、いつもより高い体温。
これが風邪のせいだけじゃないとしたら。
「笑うなっ」
「え、えー?」
誤魔化しつつも、確かに頬は緩みっぱなしで。
俺は殴られるのを覚悟しつつ、獄寺を抱きしめた。
それぐらいしないと、あふれる感情は止められなくて。
「うん、そうだよな、うん」
熱に麻痺した言葉でも。
それは間違いなく、初めて聞けた、本音の端っこ。
「チョコなんかより、獄寺のキスのが、一番嬉しいのな」
開きかけた口を、お返しのキスで塞ぐ。
あんまり咳がひどいと、そばにいるこっちが不安になるし。
喉を痛めたら、高い声が聞けなくなる。
マスク越しではそれ以上のことはできず、俺はすぐに獄寺を離した。
このまま風邪うつされてもいいけど、それは獄寺自身が許せないことだろうし。
こんな紙一枚で防げるのかも知らないけど。
「獄寺、顔真っ赤っかだけど、大丈夫?」
「風邪ひいてんだよ!」
「うん、そうだったのな」
「だぁら、う、うつる前に、帰れボケ!」
「うん、ちゃんと寝て、休むんだぞ?」
「わ、わかってんだよ、黙れアホ!」
「うん」
掛け布団を整え、冷えピタの上におまじないのキスを落として。
「じゃあ、また明日な」
「……おう」
ぶっきらぼうな返答に苦笑をこぼしつつ。
わずかに移った熱を感じつつ。
思うのは――
チョコより甘いなら、こういうのもありかなぁ。
とか、そういうどうでもいいこと。