夢を見る。
夢を見る。
地下に潜む摩訶不思議。
落ちれば最後。
お日様とはお別れ。
ようこそ × × × 。
ここは君だけの世界――
陽気で退屈な昼下がり。
誰もが読書に勤しんで、日向を駆けることもしない。
わたしは姉さまの本を覗き込んで、すぐに視線を庭に戻した。
読めない漢字ばかり。頭が腐ってしまいそう。
何か面白いことはないかしら。
鞠つきも花摘みもいつもと同じ。
何か違うことを。
退屈なんて忘れてしまう何か――
「大変じゃあ、遅れてしまう!」
草陰を過ぎる、真っ赤な瞳の真っ白なうさぎ。
若葉生い茂る季節にありえない色。
人の言葉を話すうさぎ。
それよりも、もっと気になるのは、その姿。
うさぎは立派な紋付の裃を着ていたのだ。
袂から金色の懐中時計を取り出して時間を確かめ、再び走り出す。
「あぁ、遅れてしまう、大変じゃあ!」
服を着たうさぎ?
まだ短い時間しか生きてないけれど、そんなの、初めて見た。
おかしいこと、この上ない。
わたしは知らず、庭に降りて駆け出していた。
退屈とは違う、非日常を追いかけて。
庭を抜けて、垣根をくぐると、そこは林の中。
いた。
浅葱色の後姿を見つけたと思うと、うさぎは大木の根本に消えてしまった。
巣穴だろうか。
それほど大きくもないが、通れなくもない。
わたしは迷うことなく、穴の中に入ることにした。
暗い。
何も見えない。
終わりがあるのかもわからない。
「戻ろう、かしら……」
もう少しだけ、と腕を動かしたとき――
「きゃ――」
両手が空気を掴んだ。
浮遊感。
地面がなくなったのだ。
ということは、落ちているのだろうか。
「ど、どうしよう」
わたしは周りを見回してみた。
襖や障子、違い棚の床の間。
見慣れた風景が、すべて下から上へと流れ、見えなくなっていった。
「やっぱり、落ちてる……!」
どうしよう。
どこまで落ちるのかわからないけど、きっと怪我じゃすまない。
木から落ちたことが一度だけあるけれど、あのときよりもずっと痛いはず。
下を見ても、あるのは底なしの暗闇。
「地面の下にあるのは――」
姉さまが読んでいた漢字だらけの本に書いてあった。
「死者の国」
岩で塞いだ、地下の世界。
そこには死んだ者しかいない。
青白い顔の住人を思い浮かべ、わたしは恐ろしさに身をすくませた。
「それとも、地獄、かしら」
地獄には罰を与える鬼がいるという。
いつかに見た地獄絵は、それはそれは恐ろしかった。
あんな痛い思いをするのだろうか。
そう思うと、泣きそうになってきた。
「どうしよう。嘘をついたから、舌を抜かれてしまうのだわ」
流れた涙は上へ。
わたしだけが下へ落ちてゆく。
もっとちゃんと謝ればよかった。
「ううん、もしかしたら、戻れるかもしれない」
そのときに、ちゃんと謝れば、許してもらえるかもしれない。
そうだ。悩んでいても、どうしようもない。
わたしは何か、楽しいことを考えることにした。
「そういえば、たまにご飯をあげたかしら」
短いしっぽの三毛猫。
鼠を捕まえるのが得意だけど、少しやんちゃの過ぎる猫。
障子を破って怒られてなければいいけど。
父さまの大事なお皿を割ってしまったときは――
「きゃ、あ!」
小枝の折れる音。枯葉の散る音。
落ちる、音。
ぱらぱらと葉っぱが降ってくる。
それを見ながら、わたしは底に着いたことを知った。
結構な音がしたと思ったけれど、怪我も何もないようだ。
「ここは……?」
見上げた先にあるのは遠い暗闇のみ。
登ろうとしても、きっと無理だろう。
井戸よりもずっとずっと深い場所なのだから。
あきらめてあごを引くと、白い漆喰の壁に挟まれた空間があった。
手の平には板張りの床。
廊下だろうか。
「あっ」
ずっと先に、さっきの白うさぎが走っていく姿が見えた。
どうしようとか考える前に、駆け出す。
庭で聞いた声と同じ声。
「困った、大変じゃあ、どんどん遅くなってしまっておるわぁ!」
もう少しで追いつく。
そう思って角を曲がると――
「……いない」
どこにも白うさぎの姿はなかった。
四方を襖に囲まれた、広い広い部屋。
どこかに入ったのかしら。
一番近くの一枚に手をかけてみるが、微塵も開こうとはしなかった。
誰かが向こう側に棒でも挿しているのだろうか。
「一体、どこにいったの?」
見失っては追いかけることもできない。
しかたなく、開かない襖にそって歩き続けていると、豪奢な燭台を見つけた。
その上には蝋燭でなく、小さな金色の鍵。
「鍵のかかった扉が? でも、そんなのどこにもないし」
見渡す限り、松や梅を描いた襖ばかり。
襖に鍵をかけるなど聞いたこともないが、どこかに開く襖でもあるのだろうか。
ひとつひとつ丁寧に確かめながら、一周してみるが、
「どれも開かないじゃない!」
出られない。
どこへも行けない。
まるで閉じ込められたよう。
「――い、嫌だ、どこか、どこかにっ」
そのとき、すらりと襖が滑った。
「開いた、けど……?」
すぐに細長い格子の戸に塞がれていた。
涼しい風、花の匂い、緑豊かな庭園。
「わぁっ」
格子の先には見たこともない景色が広がっていた。
けれど、格子の隙間は狭くて、外に出られそうにない。
これでは本当に、座敷牢に閉じ込められてしまったようだ。
「違う、違う、違う」
呟きながら視線を下に落とす。
床と格子が触れる場所に、四角い小さな木戸がはめ込まれていた。
小さな錠前と、反対側には蝶番。
「まさか、ここの鍵?」
試しに差し込んで――回った。
カチリ、と軽い音を鳴らせて、錠が外れる。
木戸は指先で軽く押しただけで簡単に開いてしまった。
開いたけれど。
「こんなの、通れるわけないわ」
腕は通っても、体が通らない。
「鼠ぐらい小さければ、もしかしたら通れるかもしれないけど」
実際には、わたしは鼠のように小さくないし、猫や犬よりもずっと大きい。
「せっかく出られると思ったのに……」
うつむくと、ぽたりと小さな雫が落ちた。
それはひとつでは終わらず、続けていくつもの雫が水溜りを作り始めた。
袖を濡らして、畳を濡らして、それでも雫はあふれてくる。
外に出られない。
上にも登れない。
どこへも行けない。
「嫌だぁ」
泣いたってどうにもならないことを、わたしは知っているのに。
どれほど泣いていたかわからないけれど、ふと、遠くから近づく足音に気がついた。
慌てて涙を拭う。
これでも武士の娘、人前で泣くことは許されない。
しっかり背筋を伸ばして周りを見回すが、襖に囲まれた部屋には誰の姿もない。
違う、この足音は、草を踏む音だ。
はっと格子にしがみついた瞬間、白いうさぎが目の前を通り過ぎた。
「おぉ、急がねば、おぉ、あの御方を待たせるわけには!」
長い袴を不器用にさばきながら、えっほえっほと走っていく。
「――ま、待って!」
「ひっ」
うさぎはしゃっくりのように飛び上がって、それから一目散に逃げ去ってしまった。
「ちょっと、どうして、待ってよ!」
叫んだって、もう影すら見えない。
「待って、置いてかないでよぅ」
小さな扉から手を伸ばしても、小さな扇子を拾っただけ。
あのうさぎが落としたものだ。
こんなもの拾っても、どうにもならない。
止まったはずの雫がまたぽたぽたと落ち始めた。
さきほど作った水溜りからあふれて、小さな川になって外へと流れる。
こんなにこんなに泣いてるのに、どうして誰も助けてくれないの。
帰りたい。
帰りたいだけなのに。
ぎゅっと扇子を握りしめると、何かがおかしい、そんな感じがした。
自分の手を見てみるが、変わったところはない。
いや、扇子が大きくなっている。
違う、部屋全体が大きくなっている。
いや違う、大きくなっているのではない。
「わたし、小さくなってる!」
理由や原因を考える間にも、体はどんどん小さくなり、周りの物は巨大化していく。
ふと、すっかり大きくなった扇子が目に入った。
これを持っているからだ。
わたしは慌てて扇子を放り投げた。
すると、体は縮むのを止め、目の前にはちょうどいい大きさになった木戸があった。
「外に出られる!」
体が小さくなったことは確かに一大事だけど、そのおかげで外に出られる。
はやる気持ちと一緒に足を踏み出すと同時に――
「きゃあ!」
水音も大きく、深い川の中へと滑り落ちてしまった。
口に入り込む水は塩辛い。
これでは川ではなくて海だ。
だから泣いてはいけないというのに。
なす術もなく流れに身を任せていると、忙しい水音が聞こえてきた。
誰かが泳いでくる。
大きな影。あれは鯨か何かだろうか。
やっと目で見えたと思うと、わたしは声を上げた。
「やだ、ねずみ!」
こんな巨大な鼠なんて初めて見る。
そうか、今、わたし、小さくなっているから。
この鼠も海に落ちてしまったのかしら。
「……あの、この海の、出口を知っていますか?」
けれど鼠は何も聞こえなかったかのように、一心に泳ぎ続けていた。
「あの、ちょっと、聞いてるの?」
我関せずといった体(てい)。
言葉が通じないのだろうか。
鼠の言葉なんて、そんなの知るわけがない。
「たまなら猫だから、少しはわかるかしら」
「ねこ!?」
長いしっぽが勢いよく水面を叩いた。
「言葉がわかるの?」
それなら話もできる。
わたしは急いで言葉を繋いだ。
「あのね、たまというのはね、わたしの飼ってる猫で、とても頭がいいのよ。いつもたくさん鼠を――」
「猫の話などたくさんだ! 猫など、凶悪で、非道で、たまったもんじゃねぇ!」
「あっ」
目の前にいるのは鼠なのだった。
猫の話題なんて、怒るのは当然だ。
「ご、ごめんなさい。もう、猫の話はしないから」
「本当か?」
「本当よ、約束するわ」
「……だったら、ふん、岸まで連れてってやるよ」
鼠はそう言って、わたしの前にしっぽを差し出した。
掴まれ、ということだろうか。
おそるおそるしっぽを握り締めると、鼠は短く鼻を鳴らした。
「それから、ふん、なぜ俺が奴らを嫌うのかをしっかりと聞かせてやる」
引かれるままに進んでいくと、やがて海はほととぎす、雄鶏、鴨や鷹、他にも見たことのない動物でいっぱいになっていた。