02 | 君のために奏でる波音



『君のために奏でる波音』




 蝉が豪雨のように鳴き争う、夏の暑い日。
 その日、少女が落し物を届けに来た。
「じゃあ、こことここに記入を」
 マニュアル通りに話しながら、ふと少女の表情が気にかかった。
 なんというか、後悔というか、そんな色が浮かんでいたのだ。
「……持ち主が現れなかったら、これ、どうなるんですか?」
「拾った人、この場合は君の物になるか、破棄ですね」
 まぁお金と違って、物品の場合はほとんどが破棄に回されている。最近はリサイクルの風潮高いが。
「何ヶ月ぐらい……?」
「半年は預かるので、その後ですね」
 書類をチェックしてから、僕は再度、落し物を確かめた。
 高そうなケースの中の高そうなフルート一本。
 一点の曇りもないほど磨かれていて、持ち主はそれは大切にしているのだろう。
「はい、ありがとうございました。何かありましたら連絡しますので」
 少女は小さく頷くと、
「お願い、します」
 浮かない表情のまま帰っていった。


 それが最初。


「こんにちは」
 それから少女は時折、交番に顔を出すようになった。
 そしていつも、
「持ち主、来ましたか?」
 同じことを訊いて、
「まだだよ」
 僕も同じ答えを返した。
 最近ではお茶を出すようにもなったけれど。
 僕は冷えた麦茶をグラスに注ぐと、彼女の前に置いた。
「今日は早いね」
「テスト前で、部活が休みだから」
 うわぁ、懐かしい言葉だ。
 勉強より部活な人間にとっては苦でしかない数週間。
 少女もそっちの方らしく、嫌そうな顔をしていた。
「おまわりさんは、何部だったの?」
「中、高と空手部」
「黒帯、とか?」
「一応ね」
 ふふん、とわざとらしく笑ってみせる。
 そうすると、少女もおかしそうに笑った。
 それから少し黙って、陽射しの強い外を見遣った。
 小麦色の肌は、こんな日陰よりも夏の光の中の方が似合っているのに。
「早く、終わんないかなぁ」
「ま、今はとりあえず勉強頑張って」
「うーん」
 少女は一気に麦茶のグラスをあおると、
「ごちそうさま」
 日向へと帰っていった。


 少女はいつも学校帰りに来るようで、制服姿しか見たことがない。
「おみずー」
「麦茶しかないよ」
 クセのある短い髪からは塩素の匂いがして、これもまた夏の風物詩のように思えた。
「ずっと水の中にいて、喉が渇くのかい?」
「プールからここまで水がないから乾いちゃうの」
 いつものグラスに麦茶を注いで、少女の前に置く。
「テストはどうだった?」
「まぁまぁ」
 結果よりも再開した部活の方が気にかかっているのだろう。
「タイムは縮まりそう?」
 渋い顔。でもすぐに咲き綻ぶ。
「本日、自己新出ました」
「おぉ、すごい」
 水泳のことはよく知らないけれど、いや、知らなくても大変なことはわかる。
 好きでもなければ、一生懸命にもなれない。
「……持ち主、来た?」
「ん、いや、まだだよ」
 突然の話題転換に、一瞬何の持ち主かと考えてしまったが、少女との会話で持ち主といえばあのことしかない。
「そっか」
 少女は残りの麦茶を飲み干すと、
「ごちそうさま」
 夏の匂いを残して帰っていった。


 激しい夕立の真っ只中。
「きゃ―――!!」
 悲鳴と共に、少女が駆け込んできた。
「濡れねずみだね」
「タオルもびしょびしょー」
「ちょっと待ってて。奥にあったはず」
 低い棚を漁ると、ビニールに入った新品タオルが見つかった。
 年頃の女の子には洗ったものより、使ってないものの方がいいだろう。
 僕は袋を破って、中身を少女に被せた。
 犬に対するのと同じ感覚で、わしわしと拭いてやる。
「寒くはない?」
「う、うん」
 少し上擦った声。
 ……つい一瞬前に「年頃の」とか考えといて、何してるんだ。
「ごめん」
 すぐに手を離して、僕は温かいお茶を淹れることにした。
 背中に、小さい声がかかる。
「……ありがとう」
「……どういたしまして」
 僕はいつもとは違うカップにお茶を注いで、少女の前に置いた。
 なんとなく気まずい空気。
 まったくもって意識していなかったけれど、彼女も年頃の女の子なんだよなぁ。
「お家の人に連絡して、迎えに来てもらったら?」
 少女はふるふると首を振った。
「今、喧嘩中、だから、頼りたくない」
 反抗期。
「そっか」
「……仲直りしなさいとか、言わないの?」
「親とか兄弟と喧嘩するのは当たり前だしね、僕もこの前両親と口論になったよ」
 いつまでも結婚しないでって、警官に出会いを求めるのがおかしい。
 交番に来るのは道に迷った人とか拾い物を届けに来た人とか、――この少女ぐらいだ。
「話しても無駄だと思って、まったく口利かない時もあったし」
「そう、そうなの。話しても、わかってくれないの」
「でも、いつかわかってくれるよ」
 少女は驚いたように、軽く目を見開いた。
 僕は年長者として、優しく諭すように話した。
「僕も警官になるの反対されたけど、今じゃ自慢の息子ですって言ってるらしいし」
 本人にはいまだにやめろやめろと言うクセに。
「今は、わからせることができなくても、認めてもらえるようがんばることはできるしね」
 潤んだ瞳が俯いて、静かにお茶をすする。
 短い時間が過ぎて、少女が口を開いた。
「持ち主、来るかな」
「来るよ。きっと」
 最後に少女はお茶を一気に飲み干して、
「ごちそうさま」
 小降りになった夕闇の中を走って帰っていった。


 それからしばらく、少女は来なかった。


 もうすぐ夏本番とも、晩夏ともいえる日。
「海に行こう!」
 巡回のため自転車にまたがった瞬間、後ろに重石が降ってきた。
「海……?」
「海、国道ずっと走った先の、海」
 少女は急かすように、僕の肩を何度も叩いた。
 久しぶりに会って一番に、二人乗りという交通違反ですか。
「なんでまた」
「お願い、つれてって」
 ぎりぎりまで振り向いても、その表情はよく見えない。
 しかし、声にはどこか切羽詰ったような色があり、僕はしかたなく、
「しっかり掴まってるんだよ」
 ペダルの足に力を込めた。
 熱を帯びた風がどんどん通り過ぎる。
 警官とセーラー服の二人乗りは結構な視線を集めたけれど、どうしてか気にはならなかった。
 アスファルトの国道を走って、その先にある長い長いトンネルを抜けると――
「うみ―――!!」
 深い青が見えた途端に少女は自転車から飛び降りて、砂浜を駆け下りていった。
 僕も自転車の鍵を引き抜いて、砂浜へと降り立つ。
 久しぶりの感触。
「って、おい!」
 見ると少女は、制服のまま海に飛び込んでいた。
 数少ない他の客も驚いたように少女と、そして僕を交互に見ている。
 恥ずかしいというか何というか。
「あーあ」
 そんなに楽しそうに、嬉しそうに泳いでいたら、とめることもできないじゃないか。
 僕は溜め息一つ、浜辺に腰を落ち着かせた。
 少女はまるでイルカのように、潜っては浮き上がり、そしてまた潜っていった。
 水音。波音。呼吸音まで聞こえそうな。

 しばらくすると、濡れた足跡を残して、少女が戻ってきた。
「すっきりした?」
「うん、もう、いいの」
 少女はいつかのタオルを取り出して頭に被ると、僕の隣に座った。
 そして、
「……聞いてるフリだけで、いいから」
 そう前置きしてから、話し始めた。
「あたし、将来は水泳選手になりたいと思ってるの。でも、家族はそれに反対で。ちょっと泳ぐのが速いからって、何考えてるんだって、お父さんが怒鳴って、お母さんも、怒って」
 本当は怒らせたくない。怒りたくない。
「あたしのね、家族はね、みんな同じ職業でね、だからあたしにも同じ仕事に就いてほしいって考えてて、でもあたしは水泳の方が好きで、だから、」
 そのことをわかってほしいのに、どうしてわかってくれないの。
「だから、大学も水泳で、水泳のできる学校に行きたいって。でも、駄目だって、いつも、何度言っても、同じ、反対しかしてくれなくて、でも、でもね」
 タオル越しの視線を感じたけれど、気付かないフリして波間を見つめ続ける。
「諦めずに、何度も、何度も、説得したの。何度も、ずっと、言い続けたの。あたしは水泳が好きですって。そしたらね、最近、お父さんがね、本当にちょっとだけど、話を聞いてくれるように、なったの……」
 最後は涙で掠れて、小さい、か細い声だった。
 その、震える肩を抱くのは、線を越えてしまうことだろうか。
「……そっか」
 僕は砂の上に手を置いたまま、何でもないように呟いた。
 遠く近く、波がきらきら輝く。
 少女はタオルの中で泣いて、泣いて、泣き止むと、勢いよく立ち上がった。
「つき合わせてごめんなさい、あと、ありがとう」
 夕日の逆光の中で笑う少女は、夏の太陽のように眩しかった。
 でも、目を逸らすにはもったいなさすぎて。
 僕も口元だけで笑みながら、ゆっくりと立ち上がった。
 そして、
「じゃあ、もう落し物には気付いたんだね、水無原奏(みなはら・かなで)さん」
 初めて少女の名前を口にした。
「え、どう、して」
「書類に書いた名前。それと、ケースにイニシャル、K・Mって刻まれてあったよ」
「――っ!!」
 簡単な推理だ。とても簡単な推理だった。
 でもこの一ヶ月、ずっと話していればすぐにでも気付けることだった。
「フルート、とても大切にしていたんだよね。きれいに磨かれてあった」
「……」
「本当は水泳と同じくらい、好きなんだよね?」
 く、と下唇を噛んで、少女は小さく頷いた。
「両方好きでも、片方の道に進んでも、捨てなくてもいいんだよ」
 人生の選択肢は二つだけではないのだから。
「だから、いつでもいいから、取りにおいで」
 また泣きそうな少女をあやすように、僕はその頭を優しく叩いた。
 これぐらいなら、大丈夫だろう?
「さて、そろそろ帰ろうか」
「うん」
 赤い光が海に触れてしまう前に、僕たちは自転車を帰路に乗せた。


 国道をゆっくり走りながら、背中の少女が言った。
「あたし、お巡りさんの名前、知ってるのよ」
「え、どうして?」
「最初の、書類に書いてた。風間紫さん」
 僕は勝ち誇ったように笑った。
「残念。ユカリじゃなくて、ムラサキだよ」
「え、でも、ユカリって読むんじゃないの?」
「普通はね。でも僕の場合はそのまま、ムラサキくんです」
「えー、それって反則」
「文句は祖父に言ってください」
 くすくすと、かわいい笑い声が降り注ぐ。
 それから少し黙って、ぽとりとこぼした。
「……風間さん」
「はい?」
「……あの、ね」
 少女の手に、ぎゅっと力が込められる。
「もう少しの間、この気持ちが何なのかわかるまで、会いに行っても、いいかな?」
「それは……ちょっと、」
「ご、ごめん、迷惑だよね、やっぱり」
「いや、そうじゃくて」
 触れそうな背中が熱いのは、夏のせいだけじゃなくて。
 知らない店のガラスに、一瞬だけ映った二人の顔が赤かったのも、夕日のせいだけじゃなくて。
 この早鐘のリズムも、道が悪いせいだけじゃない。
「少しの間とか、わかるまでとかじゃ、淋しすぎるから、」
 僕は数年ぶりに感じる甘酸っぱさを噛みしめながら、苦笑気味に続けた。
「どうせならずっと、来てほしいな」
 いつか君の気付くものが、恋であるのなら――
 突然。
 もう海からずっと離れてしまったのに、水音が聞こえた気がした。
 きっと、彼女から海の匂いがしたからだ。
 背中に抱きつく、少女から。
「……今度、フルート、聴かせてくれないかな」
「うん……」
 触れ合った背中から伝わる鼓動はまるで波音のようで。
 僕の音も伝わってるだろうか。


 これからも君のために奏でるであろう、波音が。