刺すように暑い日差しを避け、太い幹に背を預けて座る。
葉擦れ。風。木陰の涼しさ。
ただそれだけの、静かな場所。
デイモンは首のリボンを緩めて襟元をくつろげ、持っていた本を広げた。
遠く、日向の中で同年代の子どもらがボール蹴りや鬼ごっこなどして遊んでいるが、それに混ざる気など毛頭ない。
むしろ愚かしいとさえ感じていた。
暑い日にわざわざ汗をかくようなことをして何が楽しいのか。
そんな暇があれば本を読んで知識のひとつやふたつ増やせばいいものを。
これだから馬鹿が多くて仕方ない。
細い指先がページをめくる。
同じようなことを先日家に来た伯父に話したら、随分と気味悪がられた。
可愛げがないなど、余計なお世話だ。
愛想を振りまくなど無駄な行いだし、どうせ気持ち悪がられる。
こんな自分なんか――
突風に帽子のつばを煽られ、慌てて押さえる。
けれど、代わりに本のページを見失ってしまった。
ため息。
本を閉じて葉や枝の隙間から差し込む光を見上げる。
きらきら。
ゆらゆら。
薄い瞼越しにも眩しくて。
みぃ。
その時、どこからか細い鳴き声が聞こえた。
猫だ。
目を開けてきょろきょろと見回してみるが、近くに姿は見受けられない。
木の後ろ側だろうか。
本を置いて立ち上がり、ゆっくりと覗き込んでみる。
けれど、そこには雑草が生えているだけで。
みぃ。みぃ。
子猫が親を呼ぶような声。
もしかして、と空を仰ぐと。
――いた。
高い枝の上で震える子猫。
登ったまま降りられなくなったのだろう。
枝に爪を立てたまま、親猫を呼び続ける。
改めて辺りを見回してみるが、親猫らしき姿は見えない。
今ここで子猫を助けられるのは。
ぎゅ、と口を真横に引き結ぶ。
デイモンは一旦後ろに下がってから、幹を駆け登るようにして一番低い枝に手を伸ばした。
一回目、失敗。手が届かずに落ちてしまう。
二回目、届いたけれど、握力が足らずに落ちてしまう。
三回目にしてようやく、最初の枝に登ることができた。
「あっつ……」
袖で汗を拭い、幹にしがみつきながらさらに登る。
何度か踏み外しそうになりながらも、なんとか子猫のいる枝まで辿り着いた。
枝をまたいで座り、子猫に手を伸ばす。
「おいで……」
ゆっくり。
ゆっくり近づいて。
もう少し。
「大丈夫ですから……」
あと少しで届きそうだと思った瞬間、
「――っ」
子猫は細い尻尾を膨らませ、小さな爪でその指先を引っかいた。
思わず手を引っ込める。
うっすら血が滲む指先を口に含んで、考える。
きっとノラ猫で、人に慣れてないんだ。
どうしよう。
悩んでいると、ひら、と視界に白い影が入り込んだ。
つばの広い大きめの帽子。
これを使えば。
でも――
デイモンは木の下に誰もいないのを確認し、それでもわずかに迷ってから、そっと被っていた帽子を脱いだ。
飾りリボンごとつばを握り、子猫に向かって腕を伸ばす。
「この中に、おいで……」
ゆっくりと。
入りやすいように傾けて。
子猫は帽子に鼻先を近づけると、ゆるりと尻尾を振った後、
「あっ!?」
獲物に襲いかかるように、その帽子に飛びかかってきた。
もちろん細い枝の上に着地できるわけもなく。
「このっ、ばかねこっ!」
慌ててつばを握り直し、デイモンは枝から落ちる子猫へと伸ばした。
手首にかかる重み。
そのまま抱き寄せて。
そっと。
胸から離して確かめると、子猫は帽子の内側を噛んだり引っかいたりしていた。
「んー……やめてくださいよ、もう……」
抱きしめて、ため息。
「よかった……」
じり、じり、と座ったまま枝の上を後ろ向きに移動する。
そうして背中が幹に当たったところで――間抜けにもその時点で――気づいてしまった。
「このままじゃ、降りられない……」
ここまで両手で登ってきた。
けれど今、片手は帽子の中の子猫を抱いている。
残された腕一本で降りることなんて。
「どう、しよう……」
今になって高さに足がすくむ。
飛び降りるなんて到底無理な高さ。
あれほど他人を馬鹿にしていた癖に。
いざという時には何もできない愚かさに、じわりと視界が滲む。
高さから目をそらすと、帽子の中の子猫が不思議そうに見上げてきた。
せめて子猫だけでも降ろすことができれば。
「降りれなくなったのか?」
近くから声。
慌てて袖で目元を拭って見下ろす。
そこには、見慣れない、金髪の少年が立っていた。
木漏れ日を受けてきらきら輝く色。
「おい、どうなんだ。降りられるのか?」
思わず目を奪われていた自分に気づき、デイモンは慌てて首を振った。
「そうか」
少年はあごに手を当てて考える仕草をした。
「あ、あのっ……」
「ん?」
「……猫、子猫がっ」
「猫がいるのか?」
「それで、そのっ」
この辺りで一度も見かけたことのない、知らない人。
彼がどんな人かはわからない。
もしかしたら、あきらめてどこかへ行ってしまうかも。
でも、せめて、子猫だけでも助けなければ。
「その、帽子の中か?」
こくりと頷く。
少年は少し考え、それから両手を伸ばして言った。
「投げろ」
「はっ!?」
「帽子ごとな。受け止めてやるから」
「で、でも」
「大丈夫だ。絶対に落とさない」
真っ直ぐで、揺れることのないオレンジ色の瞳。
強い視線。
それでも心の中で迷ってしまう。
だって。
もしちゃんと受け止められなかったら。
落としてしまったら。
子猫は――
「俺を信じろ」
最悪な想像を打ち消す、凛とした声。
デイモンは驚いたように少年を見た。
作り笑いも嘘もなく、ただ見上げてくる目を。
ぎゅ、と帽子ごと子猫を抱きしめる。
それから、首のリボンをほどいて、子猫を包むように帽子の中に押し込んだ。
少し身を乗り出すようにして、両手でつばを持ち。
「絶対ですよっ?」
「あぁ、絶対だ」
眼下で少年が微笑んだのを見て。
手を、離した。
真白い帽子は風に煽られることもなく、すとん、と真っ直ぐに少年の手の上に落ちた。
リボンを広げ、中を確かめる。
「うん、無事だ」
そう言って少年は子猫の首根っこを掴んで持ち上げた。
「ちょっ、もっと優しく持ちなさい!」
「猫はこう持つものだろう?」
「そうだとしてもっ!」
不思議そうな顔で首を傾げる。
子猫はシャーシャー言いながら持ち上げる手を引っかこうとしていた。
暴れる子猫を一瞥し、尋ねる。
「お前の猫か?」
「い、いいえ」
「逃がしてもいいんだな?」
「あ、はいっ」
「わかった」
少年は躊躇いなく子猫を地面に放り投げた。
「ちょっ!?」
あまりの行動に目を見張る。
その間にも子猫は器用に着地し、どこかへと走り去ってしまった。
「も、もっと、丁寧に扱いなさい!」
「小さくともたくましい生き物だぞ」
「子猫なんですよ!?」
「わめいてないで、次はお前だ」
少年はもう一度、両手を伸ばしてきた。
「え?」
まさか受け止めるつもりなのか。
子猫よりも遥かに重い自分を。
「ば……ばかですかっ」
「むっ」
「あ、あなたみたいな痩せっぽちに、できるわけないでしょうっ」
「なんだと?」
「それに、あ、あとは自分で降りられます!」
そう言って顔をそむけ、近くの枝を掴んで立ち上がる。
けれど、デイモンはすぐに座り込んでしまった。
どうして。
足が震えて動かない。
「大丈夫か」
なさけない。
格好悪い。
恥ずかしい。
こんなことならやめておけばよかった。
大体こんなこと、柄じゃなかったのに。
「おい」
鼻の奥が痛んで。
目の奥が熱くて。
「おい、聞いてるか、おい」
「な、何ですかっ、もおっ」
少年はやはり両手を伸ばしたまま、言った。
「だまって飛び降りろ」
「無理ですよっ」
絶対できない。
絶対に怪我をする。
この高さから落ちれば。
絶対に無事じゃ済まない。
「決めつけるな」
見上げる瞳はまったく臆することなく。
伸ばされた両手を引くこともなく。
「俺は受け止められる自信があるぞ」
きっぱりと。
少年は言い切った。
「……じ、自信があったって」
「大事なことだ。自信があれば、覚悟ができる」
「覚悟?」
「あぁ、覚悟があれば、不可能なんていくらでもくつがえせる」
その表情は確かな自信に満ちていて。
その瞳は確かな覚悟を宿らせていて。
それでも。
だって。
知らない子だ。
同じ年頃の、小柄な子どもだ。
それなのに信用できるわけ。
ないはずなのに。
風に金色の髪を遊ばせて、少年は微笑んだ。
「死ぬ気で受け止めてやる」
唇を噛み、胸の前で両手を握りしめる。
本当に馬鹿馬鹿しい。
「……落としたら、ぶちますからね」
そう呟いて。
ぎゅ、と目をつぶると。
デイモンは少年に向かって。
身を。
落とした。
胸がぶつかる痛みと。
一瞬の呼吸と。
優しく背中を叩いて、
「よく飛んだな、えらいぞ」
笑う気配。
おそるおそる目を開ける。
視界には輝く金髪と。
しがみつく自分の腕と。
日に焼けた細い首。
「なんだお前、俺より小さいじゃないか」
ゆっくりと地面に足がついて。
少年はデイモンの腕を外そうともせず、少し屈んで目の高さを合わせてから、問うた。
「ケガしてないか?」
木漏れ日を受けてきらきらと光る。
金色の長いまつ毛。
まるで童話の王子様みたいだ。
羨ましいぐらいきれいで。
ずっと見ていたいぐらい。
彼は首を傾げると、短く笑い声をこぼした。
「その顔、まるでキスを待つお姫さまみたいだな」
一拍の間。
それから。
一気に、顔が日焼けしたように熱くなった。
「やっ」
慌てて手を離して胸の前で握りしめる。
誰かに見とれるなんて、ありえない。
それに、キスなんて。
キスなんて。
恥ずかしさに目を固くつぶっていると、つん、と髪を引っ張られた。
「珍しい色の髪だな、初めて見た」
はっと目を開けて、預けたままの帽子に手を伸ばす。
けれど、意地悪するように、背中に回して隠されてしまった。
「やっ、帽子、帽子返してください!」
「猫の毛まみれだぞ?」
「早く返して!」
「そう慌てるな」
少年はデイモンの頭を撫でると、帽子の中からまずリボンを取って、何度かはたいてからその首に巻いてやった。
「かわいいリボンだな」
きれいにちょうちょの形に整えて。
帽子も軽くはたいてから、そっと頭に乗せてやる。
少し傾けて、飾りリボンがきれいに頭の横へ流れるように調整する。
それから、少年は嬉しそうに微笑んだ。
「よく似合ってる」
デイモンはさらに顔が熱くなるのを感じながら、地面へと視線を落とした。
せっかく整えてもらった帽子のつばを掴んで、顔も隠してしまう。
「どうした?」
「……似合うわけ、ないじゃないですか」
「そうか?」
「こんな、変な、髪なのに……」
自分以外の誰も持っていない、不自然なほど蒼い髪。
バラと同じで、存在し得ない色。
いつも気味が悪いと怖がられてしまう。
帽子で隠したって。
「……きれいな髪だと思うぞ」
さっきより低く屈んで。
真っ直ぐに視線を合わせて、少年は言った。
「俺は好きだ。その髪が、今まで見てきた中で一番好きだ」
影の中にあっても輝く金色。
「……すき?」
「あぁ、だから帽子もよく似合ってる」
少年は優しくデイモンの手から帽子を取り、もう一度被せ直した。
指先で髪も整えて。
「うん、かわいいぞ」
暑さに浮かされたのか。
体中が。
沸騰したみたいに、熱い。
ぐ、とこらえたのもむなしく。
蒼色に縁取られた瞳から、ぽろぽろと雫がこぼれ落ちた。
「ど、どうした? どこか痛むのか?」
首を振る。
それでも雫は雨のように地面を濡らして。
だって初めて言われたから。
この髪を褒められたのは初めてだったから。
お気に入りの帽子、似合うって。
少年は困ったように、デイモンの両手を取った。
「この指、猫に引っかかれたのか?」
「やっ」
「血は止まってるみたいだが……」
「へ、平気、ですっ」
払うように手を振るが、少しも離す気配はなく。
むしろ強引に引っ張って歩き出した。
「手当てしてやるから俺の家に来い」
「やだっ、離して!」
「もちろんやましいことはないぞ? 紳士として当然の行いだ」
「え、えっ?」
「お前、将来きっと美人になるぞ、だからあんまり無茶するな」
「な、何言って」
嫌な予感。
もしかして。
「それと、せっかくかわいいんだから」
「ま、待ちなさい、あなたっ」
少年は苦笑して。
決定打を――それは一番言ってはならない言葉で――口にした。
「もっと女の子らしい格好したほうがいいぞ?」
「――っ!!」
高い高い音が、真っ青な夏空に響き渡った。
*****
「お嬢さん、どうか俺に冷たいレモネードの一杯でも奢らせてくれないか」
繊細なレースの日傘が揺れて、振り向いた顔が優美に微笑む。
「んー……」
デイモンは微笑んだまま怒気を含ませた声で答えた。
「わかって言っているなら答えは間違いなく「No」ですね」
「なんだ、つれないな」
ネクタイを緩めたシャツを手ではためかせながら、日傘の影に入り込む。
「今日も暑いな」
「そう思っているならひっつかないでください」
腰を抱こうとする手を払って、石畳を蹴るように歩き出す。
「そういう態度も案外そそられるものだな」
まったく挫けた様子もなく、横について歩く。
デイモンはそれを横目に見ながら、少しだけ日傘を傾けた。
それに気づいてクスクスと笑う。
「お前のそういうところ、好きだぞ」
「……黙ってなさい」
「ありがたいが、日焼けすると大変なのだろう?」
彼は笑いながら手を重ねて、日傘をデイモンのほうへと押し戻した。
ひとり日向を歩く。
なびく金髪がきらきらと輝いて。
本当に、羨ましいぐらい綺麗。
「何だ?」
視線に気づいて、首を傾げる。
「何でも」
目をそむけるように視線を前へ戻す。
「つれないな」
クスクスと笑う声。
暑い。
石畳を反射する熱が。
焦げそうなほど。
ただ黙って歩いていると、つん、と髪を引っ張られた。
「何ですか」
「いや、想像以上の美女に育ったな、と思って」
オレンジ色が笑う。
「しかし、そんな可愛い顔して歩いていたら突然襲われても文句言えないぞ?」
そしてそのまま、ちゅ、とわざとらしく音を立てて頬にキスをした。
「なっ」
慌てて頬を押さえるが、熱は広がる一方で。
暑くて。
熱くて。
眩暈に倒れそうになりながら。
デイモンはいつかと同じ台詞を叫んだ。
「私はっ、男ですっ、このっ――」
いつかと同じ、真っ青な夏空に。
高い高い音を響かせて。
「馬鹿ジョット!!」