珍しく鼻歌を歌いながら。
足取り軽く、靴音高く。
ステッキを振り回さん陽気さで歩く後姿を見つけて。
ジョットは急ぎ金を払うと、小走りにそれを追いかけた。
向かい風を受けて香る。
どこか知っている、生花の匂い。
「デイモン」
手袋を捕まえて振り向かせると、
「おや、ジョット、奇遇ですね」
いつにない上機嫌な微笑みを向けられた。
一瞬見惚れてしまいそうになるのを堪えて、その理由を探る。
「どこかへ、出掛けるのか?」
鼻腔に触れる甘い香り。
それは、デイモンの胸元を彩る花から香っていると知れた。
花屋にはなかった、淡い色の小さな薔薇。
それらは幾輪かまとめて紺色のレースリボンで束ねられ、胸ポケットに挿し込まれていた。
「いいえ、特に目的もない、散歩です」
「その割には、楽しそうだな」
「んー、そうですか?」
ヌフフ、と独特の笑みをこぼす。
「……一緒してもかまわんか?」
「えぇ、ご自由に?」
引き留めたときのまま繋いでいる手にも気づかず、デイモンは再び歩き始めた。
よほど浮かれているらしい。
こういう抜けたところを可愛いと思いつつ、さて、今度は花の出所を考えてみる。
見たことのある薔薇、知っている匂い。
何かの記憶と結びついているのだが。
あれは、いつのこと。
――この蕾が全部咲いたら、ジャムにしても余りそうね。
朗らかな女性の声。
それを起点に映像が蘇る。
広い園庭の中、東屋を囲むように植えられた薔薇の低木。
緑をまだらに染めるのは、赤く色付いた小さな蕾たち。
あれらが綻ぶと、淡い色に変わるのだと言っていた。
そう、ちょうど、デイモンの胸に咲く薔薇のように。
上機嫌の理由はこれか。
すべてを悟り、ジョットは小さく笑った。
「どうしました?」
「いや、いい香りだと思ってな」
「えっ?」
「エレナ嬢の薔薇だろう?」
途端に、嬉しそうに頬を染めて。
「えぇ、そうです、これはエレナが、大切に育てた薔薇を、わたしにと摘んでくれたのです」
語る声音は乙女のようで。
渡されたときのことを思い出しているのか、夢見心地の瞳を薔薇に落として。
「とても似合っていると、言ってくれたのです」
己では決して引き出せない表情を見せてくれるものだから。
いや、あまりにも幼い感情だ。
相応に大人である自分には制御可能なものである。
しかし、やはり。
「……デイモン」
歩みを止めると、必然的に手を引かれたデイモンも足を止めた。
それでやっと手を繋いでいることに気がついたのだろう、慌てた様子で手を振り払われてしまう。
「な、何ですか?」
この態度の落差は一体どういうものなのか。
横を向いてため息を吐く。
「ジョット? 用があるなら、」
「少し、目を閉じていてくれないか」
「んー? なぜ?」
「理由はすぐわかる、少しの間だけでいい」
「い、いやですよ、何をするつもりですか」
「何もしない、いや、そう言うと語弊があるが、そういったことはしない」
「本当に?」
デイモンは警戒心も露わに、胸の前でステッキを握りしめた。
いざとなったらあれで殴るつもりだとでも言うのだろうか。
そういった抵抗も可愛らしいとは思うけれど。
「本当だ、約束する」
真っ直ぐに目を射て答えると、デイモンは渋々ながらも、警戒を緩めた。
「んー、別に目を閉じずとも、」
「いや、閉じてくれ、ほんの少しだけだから」
「……変なことはしないでくださいよ」
「あぁ、絶対だ」
直前までジッとこちらを見つめてから、ゆっくりと深青の瞳が隠される。
その素直さに笑いそうになるのを隠して。
気付かれないよう、そっと、丁寧に抜き取って。
代わりに短く手折った茎を。
僅かに震える睫毛を愛おしく思いつつ。
紺色のレースが邪魔にならないよう位置を整えて。
仕上げに軽く頬に触れてから、すぐに一歩分だけ後ろに飛びのいた。
直後、目前をステッキの柄が通り過ぎる。
「な、なに、何も! しないと!」
「キスぐらい許せ」
「ぐらいって何ですか!」
「あまり暴れると落ちるぞ」
「落ちるって何――」
髪に何か挿されたことには気付いていたのだろう、デイモンは慌てて耳許へと手を伸ばした。
ふわりとした花弁の感触。
あるいは、視界に端にちらつく紺色のレースリボン。
そして、胸元に咲き誇る別の淡い薔薇。
簡単にわかることだ。
花を、差し替えたのだと。
「ち、ちょっと、取ってください!」
「どうして?」
「せ、せっかくエレナがっ」
「あまり触れると花が潰れるぞ?」
「あっ、それはダメですっ」
「大人しく髪に挿しておけ」
「でもっ、な、なぜこのようなことをっ」
「それは、」
捕まえた腕を引いて。
その懐に滑り込んで。
左胸に手を押し当てて。
唇が触れるほど、間近に寄せて、告げる。
「ここが、俺だけの場所だからだ」
「―――っ!?」
ふ、と吐息だけ吹きかけ、一歩、二歩と後ろ歩きに離れる。
適度な距離を置いて改めて見つめる。
やはり長い付き合いだけあって、エレナの見立ては素晴らしい。
自分や彼女の髪色では褪せてしまう色も、デイモンの蒼色の元では鮮やかに咲き誇る。
まるで、そこに咲くことが最初から決められていたかのように。
凛と清楚に、花弁と香りを広げて。
けれど、ふたりに比べればまだまだ短い付き合いだとしても。
「とてもよく、似合っている」
想いの花は胸に留められたはず。
その証拠に。
デイモンは真っ赤な顔のまま、複雑そうに表情を歪めた。
結局、髪の花も胸の花も取ることができずにいる、その両手に。
「残りも受け取ってもらえると嬉しいんだが」
ジョットは一輪欠けた花束を差し出した。
花屋で小一時間ほど悩んだ末に作ってもらったもの。
たった一日の、今日という日のために。
たったひとりのことだけを頭に描いて。
デイモンはしばらく鮮やかな花々を見つめた後に、
「……貴方らしくもない」
ぽつりと小さく呟き、花束を抱き寄せた。
「らしくないか?」
「えぇ、花なんて気障なこと」
「キザか」
「そうですよ」
「ふむ……ならば、キザついでに、今から暇か?」
「ヌフフ、ナンパですか」
「あぁ、ナンパだ」
「まぁ、特に目的もない散歩でしたからねぇ」
「たまにはカフェでお茶などしていかないか?」
「お茶ですか……」
まだ少し赤い顔を向かい風に冷まして。
甘い薔薇の香りを胸に抱いて。
薔薇よりも鮮やかに、微笑んで。
「まぁ、今日ぐらいは」
いいですよ、と照れた様子で答えるものだから。
込み上げる独占欲をなんとか押し留めて。
けれど溢れる喜びから、マントの下で小さく拳を握りしめ。
「じゃあ、行くか」
「はい」
ジョットはマントを翻して歩き出した。
すぐ隣に、ぎこちなく石畳を蹴る音。
もしかすると自分の靴音かもしれないけれど。
慣れない甘さに戸惑ってはいるものの。
足取りは軽く。
陽気に鼻歌など奏でながら。
今日はきっといい一日になるだろう。