23 | phantom












 疼く。
 疼いて仕方ない。
 そこにはもう何もないはずなのに。
 ひどく。
 ひどく痛い。







『  phantom  』








 明るさに導かれて、意識が浮上する。
 やけに重たい瞼を持ち上げると、見たことのない天井が映った。
 ここはどこだろう。
 四肢がひどく痛む気がする。
 記憶の混濁。
 痛む頭を押さえようと持ち上げた腕は、隙間なく包帯に巻かれていて。
 どうして。
 どうして―――



 鋭利な痛み。
 脊椎の疼き。
 繰り返す明滅。

 最期の、映像。



「―――っ」
 込み上げる吐き気に横を向いた途端、喉を焼く痛みがこぼれ落ちた。
 固いベッドの上でうずくまり、しばらく嘔吐し続けたけれど。
 何も、ない。
 受け止めたはずの手は乾いたまま。
 出てくるはずの涙もない。
 代わりに。
 乾いた笑いがあふれた。


 大切なもの。
 大事なもの。
 こんな命よりもずっと。
 ずっと重いものを失って。
 今更ここに。
 何があるのか。



 ベッドに座り込んだまま。
 ただ壁を見つめていると、控えめなノックと共にGと医者らしき男が入ってきた。
 何か言いたげな視線を無視し、また壁へと目を向ける。
 その間に医者はベッド脇の椅子に腰を降ろし、怪我の様子を確かめ始めた。
 触れられる度に膿んだ疼きに苛まれたが、逐一反応を返す気も起きない。
 痛みを訴えたところで、すぐに治ることもなく。
 医者ができることはただ、悪化しないよう対策を練ることだけだ。
 これ以上苦しまないように。
 心中を占めるあきらめが伝わったのか。
 医者はため息と共に立ち上がり、Gに頭を下げて出ていった。
 扉の閉まる音。
 いや、開く音か。
 見遣った先できらめくのは、金色の髪。
 彼はこの姿を見ると、安堵したように表情を緩めた。
 包帯まみれだけれど確かに生きている、己を確認して。
「……安心、するのですね」
「それは」
「私が生き残り、エレナが死んだから」
 驚きに琥珀が見開かれる。
「何を言っている」
「死んだのがエレナのほうでよかったと、思ったのでしょう」
「おい、デイモン」
「助かったのが私でよかったと、思ったのでしょう」
「違う」
「貴重な指輪が壊れることも、守護者が欠けることもなかったと」
「違う!」
「ならば、なぜ安堵した!」
 声を出すほどに喉が裂けるような錯覚。
「エレナが! エレナが、死んだのに!!」



 咄嗟にGが間に立ったおかげで、掴み合いにはならなかったけれど。
 知らず浮いていた腰を落とし、両手で顔を覆う。
 息が苦しい。
 まるで空気がないようだ。
 ここはひどく息苦しい。
「……まさか、後を追うとは言わんよな」
 椅子の軋む音。
 彼はGを間に挟んだまま、そこに座っていた。
 視線の高さが入れ替わる。
 今度は不安げに揺れる瞳を見下ろしていると、
「ふ、ふふっ」
 こらえようのない笑いが込み上げた。
「ヌハハハハっ!」
「なぜ笑う」
「追ってどうなるというのです、エレナが喜ぶと?」
「そうは、考えないのか」
「んー、思いつきもしませんでしたね」
 くすくすと笑いながら。
「エレナがどういう女性であるか、私はちゃんと知っている」


 どんなに言葉を並べても彼女を語るには足りないほどに。
 聡明で、勇敢で、優しく、あたたかく、すべてを包み込む光。
 彼女だけが生きることを教えてくれた。
 彼女だけが夢を見せてくれた。
 まさに、導きの光だった。


「エレナは決して、私が死ぬことを望まない」
「……そうか」
 彼は頷くと、懐から取り出したものをベッドの上に置いた。
 綺麗に磨かれた金の懐中時計。
「壊れていたのでな、急ぎ修理させた」
 手に取って蓋を開く。
 そこには、つい先日撮らせた写真が張り付けられていて。
 握りしめると少しあたたかく感じられた。
 まるでここに彼女がいるような。
「……そう、エレナはここにいる」
 永遠に同じ姿で。
 時間を刻み続ける。
 なくなってなどいない。
 だからこそ。
「エレナが望んだ世界を……私は、実現しなければいけない」
 弱き者が苦しまずに済む世界。
 皆が幸せになれる世界を。
「そうか、あぁ、きっとそれが一番喜ぶ」
 彼は再度安堵した息を吐き出しかけて、慌ててそれを飲み込んだ。
 その様子がおかしくて、つい笑ってしまう。
 とてもマフィアのボスとは思えない。
 手で口許を隠して笑い続けていると、彼も、すまなさそうではあるが、表情を緩めた。



 ひとしきり笑って、ゆっくり深呼吸すると、胸が軽くなった気がした。
 彼女がいると思えば息苦しさもない。
「ただ……思うのです……」
 首にかかったままの魔レンズに気がつき、手慰みに触れる。
「私の弱さが、彼女を死なせた原因のひとつなのだと」
「そんなことは」
「私がもっと強ければ、彼女を守り切れたのに」
「デイモン……」
「だからこそ、私はもっと強くならなくては、もっと強さを手に入れなければいけない」
 透明なはずのレンズはどこか紺色がかって見えて。
 ベッドのシーツが歪んで映る。
「力こそが、世界を作る」
「……デイモン?」
 怪訝な声音。あるいは視線。
 それを受け止めて、一切の澱みもなく告げた。

「だからこそ、貴方にはご退場いただきます、primo」

「primo……だと?」
「貴方は確かに強いが、それは戦いの場においてだけの話」
 すべてを制するためには。
 もっと大きな、世界を統一するほどの、巨大な力が必要だ。
 しかし彼に、その器はなかった。
 小さな町ひとつ治めただけで強さを手放すような男など必要ない。
「貴方の縁者に同じ、炎をともせる男がいましたね、彼を後任に仕立てましょう」
「お、おい、一体何を」
「理解力の乏しい人ですね。もう一度はっきり言いましょうか?」
 小首を傾げて見せると、彼は黙って頷いた。
 本当に、愚かな男だ。
 その愚かさに敬意を表して、やはり一切言葉を濁すことなく、言い放つ。
「私たちのボンゴレに、もはや貴方は必要ない存在なのですよ」
 だからこそ、primo――初代と、呼んだのだ。
 ボンゴレファミリーを次の代へ渡すために。
「……おい、黙ってきいてりゃ」
「待て、G」
 片手でGを制し、彼はゆっくりと立ち上がった。
 再び視線の高さが逆転する。
 見下ろされることは嫌いだが、これも最後となる。
「……お前はやはり、戦力を求めるのか」
「弱き者を守るために必要なものです」
「戦いばかりを続けて何になる」
「頂点へと登りつめるのです、ボンゴレを最強のマフィアに」
「……それで、皆を守れると本当に」
「守れなかった人が何を言うのですか」
 表情に留めていた笑みはもうどこにもなく。
 いつの間にか、彼をきつく睨みつけていた。
「貴方の弱さもまた、エレナを死なせた原因のひとつだ」
 戦力を縮小させた結果、招かれた悲劇だった。
 警備さえ厳重であれば失うことはなかった。
「その罪を、私は絶対に、許さない」
「デイモン……」
 琥珀が揺らめくが、そこに宿る感情は読めない。
 後悔なのか、それとも憐みか。
 どうでもいい。



 しばらく睨み合いを続けた果てに。
 彼は細く長く、息を吐き出した。
「わかった、それがお前たちの望みだというのなら」
「お、おい」
「頃合いだと思っていた所だ。もはやボンゴレは俺の手に余る」
「ヌフフ、よくわかっているではありませんか」
「俺はボンゴレを出る。あとは好きにするがいい」
「言われずとも」
「だが、」
 声に引かれて顔を上げると、わずかに炎をともした姿があった。
「俺も、俺の好きにさせてもらう」


 予感。


 あまりにも曖昧な寒気であったが。
 遠い、遠い未来に、何かを予感した。
 確証も何もない。
 ただ、ぞくりと、不安が宿る。
 それを乾いた呼吸と共に嚥下し、余裕を装って微笑む。
「……えぇ、どうぞ、ご自由に」
 最後に真っ直ぐ視線を交わしたのち。
 彼は別れの言葉もなく部屋を出て行った。




 すっかり静かになった部屋の中。
 あまりにあっけない。
 交渉がこじれることも覚悟していたのだけれど。
 やはりそれだけの男だったということか。
 ため息ひとつ。
「……なぜ、私は落胆しているのでしょうね」
 握りしめたままだった懐中時計を開く。
 そこに閉じ込めた、幸せな時間。
 あたたかい。
 動き続ける秒針を眺めながら、エレナとの時間を思い出す。
 更けても、明けても、何度も語り合った。
 同じ理想を抱いて。
 そう、自分だけが彼女と同じものを持っている。
 自分だけが彼女の理想を実現できる。


「エレナのために、私は生き続けなければいけない」


 この時計が止まってしまうまで。
 もう二度と、同じ過ちは繰り返さないと誓うから。
 どうか。




 だからどうか―――























× × ×

そしてまた出会う。

彼と同じ色をした、少年と。