29 | 花運び風









『 花運び風 』







 遠い遠い昔、誰かの話。



 庭の景色は今年最後の彩りを見せ、涼しくなってきた風にその花々を揺らしている。
 少しの肌寒さと、手元の湯呑みのぬくもり。
「もー、じーちゃんまた縁側行って、風邪ひくよ?」
 空の布団を整えた少年が近寄ってきて、丸くなった背中にどてらを掛けてくる。
「すまんな、外が見たくて」
「ふすま開けてたから、寝てても見えるだろ?」
「そうだなぁ」
「ほら、せめて座布団敷いて、ほら」
 ぐいぐいと押しつけてくるのに観念して、その上に腰を移動させる。
 彼はさらに首に手拭いを巻きつけて、湯呑みにお茶を足してから、やっと隣に腰を落ち着かせて問うた。
「寒くない?」
「あぁ、ありがとう」
 自分よりも母親によく似た毛色の頭をゆっくり撫でてやる。
 照れて嫌そうに笑う顔は、父親のほうに似て見える。
 子が子を産むほどに自分の面影など消えていくのだろうが、先へ続くものを成せたことは嬉しくある。
 何も残せなかった過去に報いることができれば、と願う。
「ね、あの話聞かせてよ、じーちゃんが異国にいたときの」
「またか?」
「だっておもしろいんだもん」
「本当に好きだなぁ」
 寄り添ってくれる孫のぬくもりに微睡みつつ、ぽつり、思い出話をこぼしていく。



 ここより遥か遠くの地。
 その場所で過ごしたかけがえのない日々の記憶。
 喜劇もあれば、活劇もあり、そして悲劇のときもあった。
 まるで他人事のように、振り返ることもある。
 名は違えど、その舞台に立っているのは間違いなく自分自身であるのに。
 最後の判断がどこか、自分らしくないと思えているからだろうか。
 後悔はしていないはずなのに。
 あの瞳が、今も忘れられないから。



「――それで、この国に移り住んで、お前の母さんが産まれて、それからお前も産まれた」
 抱き寄せて額に口付けようとすると、嫌そうに腕で押し離されてしまった。
 ここで生まれ育った彼には、挨拶の風習すら受け入れがたいらしい。
「なんで全部、置いてきちゃったの?」
「持っていっては、いけない気がしたんだよ」
 あの頃とは比べ物にならないほど痩せ細った手を見下ろして。
「奪うことはできなかった」
 愛した組織も、作り上げた地位も。
 せっかく得たものを簡単に手放してしまえる自分を、彼は軽蔑したことだろう。
 それでも、彼が欲しているのなら、捧げたいと思った。
 たったひとつの、名前すらも。
「……思い出話のついでにひとつ、老いぼれの願いも聞いてもらおうか」
「お願い?」
「何、難しいことはない、俺が死んでからの話だ」
「……いやなこと言うなよ」
「はは、お前は本当に優しい子だ」
 寂しげに肩を落とした彼を抱き寄せ、頭を撫でて、ゆっくりと告げる。
「俺が死んだら、亡骸は灰になるまで焼いてくれ」
「どうして?」
「粉々の灰になったら、海に、飛ばしてほしい」
「え、ヤだよ、会えなくなるじゃん、やだぁ」
「泣くな泣くな」
 首に巻いてもらっていた手拭いを抜いて、ぽろぽろと雫を落とし出した顔に当ててやる。
 どうにも泣き虫で頼りない孫のことは、気がかりであるけれど。
 この話を先延ばしになどできないことは、自分が一番わかっている。
 残された時間は、もうわずかばかり。
「……なんで?」
「うん?」
「なんで飛ばしちゃうの?」
 真っ直ぐに見つめてくる、潤んだ栗色の瞳。
 純粋な問いかけへの答えとは。
「それは、なぁ」
 頬を撫でた風は、視線を移した先、広く高い空へと吹いていって。
 どこか遥か遠くへと、何かを運んでいく。
 その流れに乗れたならば。
「海を越えて、いつかは、あいつの墓に花ぐらい、咲かせてやれる気がしてな」
 果てしない話だと思う。
 風が届くまで何年かかるかも知れず、墓があるのかも知れず。
 それでも、できるような気がした。
 いつか、すべてを終えた彼に、手向けの花を。
「あいつ、って?」
「それは秘密だ」
 にっこり笑って口の前に人差し指を立てる。
「えぇー、気になる!」
「はは、これはさすがに言えないな」
「いじわる!」
 やっと泣き止んだ少年に笑っていた表情を、ふと厳しいものに変えて。
「遺言というほどでもないが、頼めるか?」
「……うん」
 少年は涙を拭った手を握りしめ、差し出された拳に軽くぶつけた。
 その瞬間、ふわりと、淡い炎が触れた箇所に灯った。
 少なからず驚き、また嬉しい気持ちにもなる。
 消えていくものもある中で、こうして繋がり残されていくものもあるのだと。
 遠くで誰かを呼ぶ声。
「あ、母さんが呼んでる、ちょっと行ってくるね」
「あぁ、ちゃんと手伝うんだぞ」
「わかってるよ」
 立ち上がって駆けていく背を見送って、庭へと目を遣る。
 住んでいた屋敷の庭とは違う景色や空気。
 うとうとと、また微睡んで。
 手放した名がもう一度呼ばれる日を夢に見ながら。
「じーちゃん、晩ご飯もうすぐだって」
 空は夕焼け色に染まっていて。
「じーちゃん?」



 静かに、風は吹いて――



















 遠い遠い未来、誰かの話。



 整然と並ぶ白い石たちと、その間にちらほらと咲き始めている鮮やかな花々。
 まだ少し肌寒いが、時折吹く突風はあたたかさを運んでくれた。
「綱吉、そんなところにいたんですか、風邪ひきますよ」
 教会に置いたままだったスーツの上着を肩にかけられる。
「ありがとー、骸」
 しかし袖を通さないまま、綱吉は近寄ってきた骸に擦り寄って暖を取ることにした。
「ちょ、気持ち悪いですね」
「ひどいな」
「寒くないですか?」
「うん」
 両手がちょっと離せない代わりに、首筋に鼻先を埋めて深呼吸する。
 シトラス系のさっぱりした匂い。
 香水というより、髪留めに染み込ませたオイルだろうか。
 骸は嫌そうな顔を足元へ向け、そしてそこに刻まれた名前に気がついた。
「あぁ、ここに埋めたんですか」
「そうだよ」
「君も酔狂な男ですね、まったく訳がわからない」
「あはは」
 広い庭にある石にはすべて、人の名前が刻まれている。
 そして石の下には、その名前の持ち主が眠っている。
 今日やっと整えられた真新しい石の下にも、刻まれた名前を持っていた人が埋められた。



 何年か前の話、自分がまだ中学生だった頃の出来事。
 受け取った日々の記憶は、最後がとても悲しい物語だった。
 砂のように朽ちた彼をどうしても憎むことができず。
 墓もなく死んでいった彼が哀れに思えて。
 残された記録と、血の直感と。
 それと、偶然にも意外なところに残されていた残滓とを繋ぎ合わせて。
 やっと見つけ出した遺骸は朽ちて骨だけになっていたけれど。
 丁寧に集めて。運んで。
 こうして、彼の愛した女性の隣に埋葬することができた。



「ほんと骸が協力してくれるってなったときは驚いたよ」
「失礼ですね」
 彼が埋まる場所を特定するのに一番役立った情報。
 それは、彼に憑依された骸の記憶の中に混ざり込んでいた。
 本人は眼球にどうとか言っていたけれど、そういうのはよくわからない。
「君に恩を売るチャンスと思っただけです」
「ツンデレ」
「乗っ取りますよ?」
 どこから出したのか、三叉槍の切っ先を向けられて小さく悲鳴をこぼす。
「やめろって、まじで、こわい」
 いざとなったら右手のスコップを投げてから殴りかかるしかない。
 そう思って構えかけたところで、骸は呆気なく得物を霧散させた。
「ところで、」
 拍子抜けする綱吉に、特に興味もなさそうな声音で問うてくる。
「その園芸用スコップと植物は何ですか」
「あぁ、これ? 植えようと思って」
「なぜ」
「うーん、なんでだろ」
 心底から不思議そうに呟いて小首を傾げる。
 この花は元々、彼が埋まっていた場所に、まるで目印とするように咲いていた花だった。
 掘り起こす時にビニールポットへと避難させたものの、同じ場所に植え直すのは何か違う気がした。
 じっと花を見つめて、考えて、至った結論は。
「ここに、植えてやらなきゃいけない気がして」
「いつもの直感ですか」
「なのかなぁ、たぶん、そんなのだと思う」
 漠然とした中にも、これが正しいのだということはわかる。
「骸、上着持っといて」
「この僕を顎で使うとはいい度胸ですね」
「いや、だって、手がふさがってるから!」
 必死にアピールすることで骸も黙り、肩に掛けていた上着を取って軽く畳んで腕に掛けた。
 その場にしゃがみこんで、均したばかりの土に園芸用スコップで小さな穴を掘り始める。
 ある程度の深さになったところで、花を傷つけないよう丁寧にビニールポットから出して、穴の中に置く。
 それから、穴の周りによけていた土を手で集めて、穴を埋めていって。
 やってることはそれだけなのに。
「……あれ、あれれ?」
 動かす手の上に、ぽろぽろと、涙が降り注ぎ始めた。
「なんでだろ、うわ、すごい」
 まるで誰かの気持ちを代弁するように、感情の波に襲われる。
 色々と混ざっているようで判然としないけれど。
 自分でどうにもならないなら、と溢れるままに涙を落とす。
 墓石へ、土へ、花の中へ。
 やがて。
「どうぞ」
「ん、気が利く、ありがとう」
 骸から差し出されたペットボトルの蓋を開け、何口か煽ってから、残りを花とその周りに撒いておく。
 次に来るときには、もっと、花が増えているように願って。
 綱吉は立ち上がって大きく伸びをすると。
 手を合わせ、目を閉じた。
 何を思えばいいのかは、今でもわからない。
 彼の行いが間違っていたというのは簡単だが、だからといって何が良かったのかはまだ答えられない。
 いつか、報告できるだろうか。
 不確定な話だけれど。
 目を開け、並んだ墓石と花に頭を下げる。
「よし、行くか!」
 汚れた手で上着を受け取って、庭の外へと歩き出す。
 日本とは違う景色と空気だけれど、こうして見上げる空は同じ色。
 高くて、広くて、果てしない。
「今日ほんといい天気だなー!」
「そうですね」
「戻ったら昼寝しよ!」
「仕事しろ」
「えーっ」
 吹き抜ける風に混ざって、誰かの声が聞こえた気がして。
 振り向いたけれど、花が静かに揺れるだけ。
「どうしました?」
「ううん、何でもない。ていうかさー、」





 ――やがて、届く。