1.
乾いた紙の感触が心地よい初夏の暗闇。本来なら持つ用に空けられた穴から入り込む風が暖かい。
遠くで先生の泣き声が聞こえる。
「小野萩くぅん、出てきてくださぁいっ」
相変わらず情けない声だと思いつつ、小野萩未来(オノハギ・ミライ)は半泣きの教師を見遣った。
段ボール箱の、中から。
「小野萩くぅん」
両手が段ボール箱にかかるが、折り返したフタの上に未来が座っているため、当然持ち上がらない。
「先生」
「はいっ」
「どうか僕のことは気にせず、授業を始めてください」
ひくっと引きつった呼吸音。
段ボール箱に小刻みな震えが伝わってくる。
次の瞬間、教師にあるまじき泣き声が彼方へとフェードアウトしていってしまった。
彼に幸多からんことを。
「おい未来ー」
すぐ隣で声がする。ズリズリと回転して、穴から斜め上方に扇隆保(オウギ・タカヤス)を確認する。
彼とは中学からの付き合いだが、
「なんちゃん泣かすなよーこのクラス全員落第させる気かぁ?」
高校に進学してからは、あまり味方になってくれない。
ついでに「なんちゃん」というのは、先ほど出ていった南原大空(ミナミハラ・ダイスケ)教諭の愛称だ。女子などは「だいちゃん」と呼んでいるらしい。
「そんなつもりは毛頭ないのだけど、先生がイレギュラーに弱すぎるんですよ」
「イレギュラーの自覚があるのはありがたいが、いや、お前を責めるつもりもないんだけど……」
机に身を乗り出して、なんとか視線の高さを合わせて、隆保は問うた。
「なんで一番前にいんだよ」
正確に位置説明すると、教卓からはやや離れた窓際、教壇の端っこの所に未来(イン段ボール箱)は座していた。つまり、本来なら隆保が冠するべき「最前列席」の称号を奪取しているのだ。
未来は考えるまでもなく正直に答えた。
「なぜなら後ろでは黒板が見えにくいからです。あと先生の話も聞こえないからです」
この段ボール箱という空間は、精神面環境は最高に素晴らしいが、外部との交信がかなり成りがたいという欠点があった。
「けれど、様々な個性に対応していかねばならないのが、教師たるものの務めかと」
「未来……お前ってひどい奴だよな」
「何を今更」
その日も結局、南原先生は教室に戻ってこなかった。
昼休み。
未来は隆保と共にAV教室に移動した。理由は至極明解、静かに食事ができるから。
というのも、隆保はバスケ部に所属するも他の部からの勧誘激しく、未来は未来で世話焼きの女子たちがこぞって構おうとするためだ。
窓からの風に髪をなびかせながら、未来は短い手足を大きく伸ばした。
「ここは快適ですね」
満足そうに、弁当を広げる。
「そうだな」
はぁ、と溜め息をこぼしつつ、隆保は買ってきたパンに噛みついた。
「隆くんが最近冷たいように感じるのですが、気のせいでしょうか?」
今日はご飯が五目飯だった。嬉しくいただく。
「高校は義務じゃねぇから。つかお前のせいで、この前の中間、ウチのクラスだけ散々だったじゃねぇか」
「それは南原先生が担当する世界史のことですね」
嫌いなガンモが入っていた。嬉しさが半減する。
「しかし、先日も言ったように、そのことに関して僕の非はないかと」
「つかなんでなんちゃんの時だけ、段ボールん中入るんだよ」
「黙秘権を行使します」
「あーはいはい。そうですか。それ、ちゃんと食えよ」
「親友でしょう。ほら、あーん」
男同士でサムい光景だが、幸いこの教室には二人しかいない。
それでも隆保は一度、戸口の方を確かめてから箸の先のガンモを口に入れた。
「……じゃあさ、せめて授業サボるとか」
「それはできません」
切り干し大根は好きなので、機嫌も直して食べ進む。
「どうして」
「黙秘権、です」
言って笑うと、隆保は少しだけ苦い顔をした。
未来はそれに気付いていたけれど、気付かないフリをした。
「まぁ、それについては、ちゃんと考えておきます。そろそろ南原先生もかわいそう―――」
言葉途中で突然、戸が開かれた。強い光と共に男性の声。
「小野萩くんはいますか!」
イスの倒れる音。
隆保は直ぐさに机を飛び越えて未来を庇うように立つと、南原を見据えた。
「先生、未来に用があるのはわかったんで、そこで、お願いします」
静かだが、威圧感のある声。
「え、あ、はいっ」
やっぱり情けない声。
未来は机の下に潜り込んで、襟元を握り締めながらそう思った。
鼓動がどんどん早くなる。
どうして、思考さえ侵されそう。
「……僕に何の用でしょうか」
喉が一瞬引きつったけれど、声はスムーズに出てくれた。
南原は動揺を隠せないながらも安堵の息をこぼした。
「用というか、どうしても理由が聞きたくて」
わざわざ詳しく聞き返さなくとも、何に対する『理由』かは見当がつく。
未来は愚問だと言わん口調で答えた。
「それはご自分で考えてはいかがでしょうか」
「そ、それは、もっともだろうけど……」
どうしてこうなのだろう。
一番単純な答えは、すでに浮かんでいるだろうに。
「わたしは、君からちゃんと聞きたい」
鼓動が早すぎて胸が苦しい。
どうして。
どうして。
「僕は、」
早くどこかへ行ってしまえ。
「僕は、あなたには絶対、話しません。絶対に」
一方的に言い放って、未来は南原の存在を無視するように教室を飛び出した。
「おい、未来!」
隆保は未来の弁当箱を急いで片付けると、南原に軽く礼をして、駆け足で追いかけた。
廊下を少し走った所で、すぐに後ろ姿を見つける。
「未来!」
小さな、細い肩。
掴んだら壊してしまいそうで、軽く触れるだけにする。
「……なんですか」
窓の外の、誰かがはしゃぐ声が遠い。
振り向いたのは人形のような脆いガラスの瞳。
「……お前、なんちゃん嫌いだろ」
「それこそ、今更ですよ」
幼い顔に浮かべた笑みは、似合わない苦味を含んでいた。
『僕は、あなたには絶対、話しません。絶対に』
その声は凛としていて、その心は厚い壁に囲まれていて、その瞳は光を見失っていた。
「南原先生、どうしたんスか。なんか元気ないみたいな」
「林先生」
いつの間にか俯いていた顔を上げると、コーヒーの香りが鼻をかすめた。
「どおぞ。砂糖たっぷりでぇす」
「どうも」
林は自分のカップを持ったまま、隣の席にどっかり腰掛けた。
「例の箱入り息子っスか?」
なんて言い得て妙な。
南原は小さく笑いながら、軽く頷いた。
「……先日、彼と話したんですけど、わたしはやっぱり嫌われてるようで」
「いじめられたとか」
「いえ、いや、その方がマシと思えるほどの拒絶ぶりで……」
でもどうしてか、助けを求めているようにも見えて。だから戸惑ってしまう。
未来はまるで怪我した子犬のよう。
南原はカップに口付けた。甘いコーヒーの矛盾も気にせずにすする。
「ほっとけばいいのに。普通そうしますよぅ?」
「でも、それじゃ、彼はもっと見失ってしまいます……」
周りを。自分を。光も希望もすべて。その名の意味すらも。
「わたしでは無理なんですかね……」
「ま、そんなこと言わないで。やるからにゃ頑張ってくださいよ」
ぱしぱしと肩を叩く。
「でも、小野萩って結構人当たりいいんですけどねぇ。分け隔てないっていうか」
「そうですよね」
来る者拒まず、去る者追わず。
けれど常に一定の距離を持って付き合っている。
未来と一番親しい隆保にさえ、どこか距離を置いているようにも感じる。
「なんつーか、そうすることで自分守ってる感じもしますよねぇ」
「自分を守る?」
「小野萩のトコ、両親離婚してますでしょ。俺もそうだからなんとなくわかるんですけどね、好きな人が突然喧嘩して別れるの見ちゃったら、冷めるというか、怖くなるんですよ」
「怖く……」
「そう。親しくなって、そして別れることが」
あんなに仲良かったのに、どうして別れてしまうのか。
どんなに仲良くても、最後には別れてしまうものなのか。
「あるいは―――」
チャイムの音。
林はそれを合図にコーヒーを飲み干すと、よっこらせと立ち上がった。
「ま、その線はなさそうなんで」
どこか意味ありげな微笑み。
「とりあえず観察してみたらどうっスか。何かわかるかもですよ」
「観察って……」
でも、教えてもらえなかった『理由』を考える間はしばらく、彼と距離を置いた方がいいのだろう。
彼を知るために、彼の顔をちゃんと見て話すことができるように。
「……そう、ですね。そうしようと思います。助言ありがとうございました」
「いえいえ〜。そいでは、見回り行ってきまっす」
林はシュタと片手を上げて、足軽に職員室を出ていった。
ふと窓の外を見ると、西の空にだけ赤みを残して、すでに闇色。
『先生の名前、大空って書くんですね』
最初の授業のとき、未来が言った言葉。
「あの時はまだ、入ってなかったんだよなぁ」
幼顔ながらも凛とした表情と澄んだ声。
思い出しながら、ふと気付く。
こんなにも彼にかまう理由。
真っ直ぐな瞳はどこか、淋しさを持っていたのだ。
「……なんていうか、」
その先の言葉はなく、代わりに盛大な溜め息がこぼれ落ちた。
つられるように、空から雨粒。
しとりしとり雨の日。
自転車をこぐ隆保の代わりに、荷台に座る未来が傘をさしてやる。少し傾けると、ハンドルを握る腕に水滴がボタボタと落ちた。
「未来くん、ちゃんと持っていてくれないか」
「あぁすみません」
悪びれた色はない。
「隆くんが大きすぎるせいで腕が疲れました」
「未来がちっさいんだろうが」
「軽くて良いでしょう」
「はいはい」
「ありがたみが感じられません」
ボタボタボタ。
「……未」
「ミーちゃんおはよー」
「おはようございます」
隆保の抗議をさらりと無視し、未来はにこやかにクラスメイトと挨拶を交わした。
ぶつけようのない不満が残ってしまう。
そろそろ学校が近づいてくると、隆保は何も言わずに自転車を止め、未来も何も言わずに降り立った。
いくら自由な校風であっても、雨の日の二人乗りを注意しない教師はいないだろう。
二人で相合傘をしながら、速くない速度で歩き出す。
「ミーおはよー。今日もかわいいね」
さっきの子とは違う女子が未来の頭を撫でて通り過ぎる。他も同じ反応で、挨拶しては猫を可愛がるように未来を撫でては過ぎていった。
「その内、ネコ缶とかもらえるんじゃねぇの」
「ノンオイルのツナ缶の方が僕は好きですね」
「ノンオイルって何か、味薄くないか?」
「ドレッシングに和えるにはちょうどいいんですよ」
今日のお弁当に入っているので後であげましょう、と言ったところで校門に差し掛かった。
今朝の当番は南原と林。
林は未来を見つけるとすぐに駆け寄ってきて、その頭をぐりぐりと撫でた。
「小野萩おはよー」
「おはようございます」
「今日もちっさいなぁ。カルシウム摂ってるかぁ?」
「今日のお弁当はツナサラダです」
「おう、ばっちりだ」
さらにぐりぐりと頭を撫でてから、林は離れていった。
入れ替わるように南原がそばに来る。
途端に未来は表情をなくし、隆保はやや警戒態勢に入った。
「……おはよう」
「おはようございます」
少しの沈黙。
「えっと、その……甘いものは、好きかな」
こくんと頷き一つ。
「これ、わたしは苦手だから」
南原はポケットからアメの缶詰を取り出すと、他の生徒に見つからないようにそっと未来に手渡した。
「餌付けですか」
「えぇっ!?」
「ありがとうございます」
軽く頭を下げて、未来は隆保を促して歩き出した。
南原の顔は見えないが、たぶん顔を緩めているのだろう。
雨が傘を叩く音。
パタパタと。
カラカラと。
アメが転がる音。
クスリと。
雨音に消されそうなほどの小さな笑い声。
隆保は知らず、奥歯を噛みしめた。
それに未来は気付かない。
ただ、アメの缶詰を眺めるだけ。
「……それ、後で俺にも分けてな」
「ハッカならあげます」
甘い。苦い。甘い。
相合傘の雨と甘いアメ玉の缶詰。
気付かない気持ちと気付いてる気持ち。
「ブドウとかのが好きなんだけど」
「駄目です」
ここで缶詰を奪って、投げ捨てたとしたら、どうなるんだろう。
隆保はふと、そんなことを思って、
「虫歯んなるぞ」
すべてをそれだけにとどめた。