2.
「ごめん!」
隆保は両手を合わせて、拝むように頭を下げた。
その前には未来が座している。
「謝ってもどうにもなりません」
未来は憤慨した様子も見せず、泰然と隆保を見下ろした。
「おごりは今度にしてあげるので、どうぞ気兼ねなく買い出しでも何でも行ってください」
土下座のようにも見える隆保の後ろには、数人の男女。どれもバスケ部員で同級生だった。
その内の一人が隆保の腕を捕らえて立ち上がらせる。
「じゃあ、扇借りるな」
「はい。皆さんお気をつけて」
「未来ほんとごめんな!」
ほとんどひきずられるようにして、隆保は教室を出て行った。
ひらひらと手を振りつつ見送っていると、ケータイが短く震えた。
メール。
開いて確認すると、
『今日は遅くなるから、夕飯はどこかで買って食べなさい。お金はあるわね?』
母親からのメールだった。
「………」
了解の返事を送って、それから隆保に連絡しようとして、閉じる。
いつまでも頼ってはいられない。
でも、一人きりの部屋は、怖い。
未来は短いため息をつくと、せめて独りぼっちの時間を少なくするため、図書室に行くことにした。
ゆらゆら。心地よい揺れ。
「――……くん……小野萩くん」
真上から降ってくる声に、未来は驚いて顔を上げた。
「ふ、え?」
開いたままの本。皺寄った袖。
寝ていた。いつの間に。
「小野萩くん、起きましたか?」
「あ、はい、すみませ……」
肩を揺らしていた人物を見上げ、そして、しまったと思った。
「南原、先生」
「はい?」
呼んだわけではなかったのだけれど、南原は律儀に返事した。
徐々に鼓動が早くなる。
それでも、途切れそうになる呼吸の合間に、疑問が音へと変わる。
「……どうして、ここに?」
「見回りです。もう下校時間ですよ」
笑顔のまま南原が示した腕時計の針は、6時30分を指していた。
慌てて見遣った外は夕焼けも消えそうな闇色。
「か、帰ります」
読みかけの本を急いで元に戻し、鞄を取り上げて図書室を出ようとすると、
「あ、下まで送りますよ」
戸締りの確認を終えた南原が後ろから話しかけてきた。
どうして。
あんなこと言ったのに、どうして。
「夜の学校って、結構怖いですからね」
ふふ、と笑う声。いつもの情けない声とは違う声。
どうして。
図書室の鍵を確認して、歩き出す。
足音二つ。
暗い沈黙は嫌い。
だから、未来はほとんど呟くように、話しかけた。
「アメ、おいしかったです」
何の脈絡もなかったけれど、南原はすぐに何のことか理解した。
嬉しそうに。
「それは、よかった」
「ありがとうございました」
「いえいえ」
下駄箱の靴と履き替えて、外に出る。
そういえば、一人で帰るのは久しぶりだと気づく。
「じゃあ、また明日」
「さようなら」
「さようなら。気をつけて」
トクトク。
鼓動のリズムに合わせて歩く。
校門の所で振り向くと、南原はまだ立ったままこちらを見ていた。
未来が振り向いたことに気付いて、手を振ってくる。
どうして。
未来は小さく、一度だけ手を揺らして、足早に学校を後にした。
長い長い道に一人だけ。
まるで人生のようだ、と詩的に考えてみる。
真っ暗な先に向かって、ただひたすらに歩き続ける。
きっとずっと、一人だけで。
きっとずっと、一緒にはいられないんだ。
吸い込んだ唇を、きつく噛む。
その時、明るいライトの光が迫ってきた。
決して狭くはない道だが、未来は念のため端に寄った。
しかし、車はなかなか通り過ぎようとしない。
ぞくりと、嫌な感じが背中を走る。
低い車体の窓がスライドし、二十歳ぐらいだろうか、見知らぬ男が顔を出した。
「君、中学生? よかったら家まで送ろうか?」
やっぱり。
嫌な感じの正体を悟る。
少しでも会話すれば危ないと察し、無視して早足で歩く。
「もう暗いし、危ないよ。ほら、乗りなって」
「やっ」
窓から伸ばされた手を、とっさに振り払うように叩いてしまう。
ぞくり。
少ない光の中で、男の目の色が変わるのを、見た。
「痛い、なぁ」
手首を掴む強い力。
自分の足も車も、いつの間にか止まっていた。
「は、離してっ」
「かわいい声。ほら、おいでよ」
逃げなきゃいけない。
ドアーの開く音。
震えるだけで、動かない体。
「や、ぃやだっ」
どうして動けないんだろう。
怖い。怖い。
肝心なときに、いつも、自分は弱いだけで。
助けを呼ぶ声すら、出てこない――
「小野萩くん!」
甘い香り。
言い合う声と、車の発進する音と、静寂。
抱きしめられていると気づけないほど、未来にとっては一瞬の出来事。
手の平に地面を感じて、座っていたのだと知る。
それよりも、ココアの匂いがして。
未来は滲んで揺れる視界で、なんとか、自分を包む正体を確かめた。
――せんせい?
「怪我はないですか?」
どうして。
唇も喉も震えるだけで、何もできない。
聞きたいことがある。言いたいことがある。
南原は未来の心中を悟ったのか、容易に答えを与えてくれた。
「少し、一人で帰すには暗いですし、不安で、追いかけてきたんですけど」
耳元をかすめる、安堵の息。
「よかった……」
おそるおそる、震える手を伸ばす。
白いシャツ。
少し皺の寄ったスーツ。
その中に顔を埋めて。
柔らかい、甘い、温かい、優しい。
「――せ、せんせ」
そう感じたら、
「せんせぇっ」
溢れ出した。
ずっと閉じ込めていた、たくさんの感情。
優しく抱きしめて。
「もう、大丈夫ですよ」
ずっと包まれていたいと思っていた。
ずっと、こうしてほしかった。
本当は。
本当は――