3.
両親がどうして離婚したのか、実のところよくは知らない。
気づけば二人の仲が悪くなっていて、気づけば喧嘩ばかりの毎日になっていた。
小学生の頃は、とても仲良しだった。
互いを大事に思い、尊重し、愛し合っていた。
それは子ども心にもわかるほどだった。
けれど、何かをきっかけにして、両親は別れることになった。
好きだったのに、嫌いになってしまった。
どうして。
何度も問うたけれど、二人とも答えてはくれなかった。
どうして。
どうして。
わからなくて。
だから、怖くなった。
人を好きになるのが怖くなった。
どんなに好きでも、最後には両親のように互いを嫌い合って別れるのだと。
そう思って、人を好きにならないと決めた。
誰も好きにならない。
そう、決めたはずなのに。
春、高校生になって最初の一週間は、どの授業も自己紹介ばかりだった。
それぞれの科目を担当する教師が代わるがわる教室に現れ、自己紹介を始める。
その中の一人。
黒板に名前を書き、彼はよく通る声で告げた。
『はじめまして。私が担当する世界史はなかなか、好きになりにくいかもしれませんが、なかなかに面白い所がありますので、好きになってもらえるよう、そのための労力は惜しまないつもりです。授業に関係ないことでも興味や疑問があれば、遠慮なく質問してください』
言葉が気になったこともあって、思ったことがそのまま口からこぼれた。
『先生の名前、大空って書くんですね』
きれいな名前だな、と思った。
先生は僕を見ると、嬉しそうに、はにかむように笑った。
名前と同じくらいきれいに、笑ってくれた。
ただ、それだけ。
今思い出しても、ただそれだけのことなのに。
それから、先生を見るだけで、胸が苦しくて、苦しくてしょうがなくなった。
どうして。
わからない。
また、怖くなる。
だから、好きにも嫌いにもならないように、隠した。
色んなものを全部、奥の奥に隠すことにした。
誰からも、自分にも見えないようにして。
隠したはずなのに。
自覚してしまうなんて、うかつだ。
南原の上着を頭から被るようにしてイスの上で丸まったまま、未来は小さくうなった。
鉄壁の防壁を用意していたはずなのに、こうもあっさりと、内側から崩壊させてしまうとは予想外だ。
どんどんと心に浮かび上がってくる感情に困惑しかできない。
そうしている内に給湯室から南原が戻ってきた。
「落ち着きましたか?」
ふいとあからさまに顔をそむけて、頷く。
腰を抜かしてしまったせいで、まさかのお姫様だっこで職員室まで運ばれる羽目になった。
まるで女の子のように。
気まずい気恥ずかしい気が気じゃない。
箱がここにあれば、すぐにでも潜り込んで隠れていただろう。
ふと、甘いココアの香りが鼻腔をくすぐった。
引かれるように顔を上げると、いつも南原が手に持っているカップがあった。
「飲みますか?」
甘い匂い。
抱きしめられたときに感じたものと、同じ匂い。
「……好き、なんですか?」
「え?」
手を伸ばしてカップを受け取る。
「ココア、好きなんですか?」
口をつける瞬間に、いつも南原が触れていることを思い出し、手が震えた。
平静を装って一口だけ飲む。
甘い。
「あぁ、そうですね。コーヒーよりは」
「……甘いもの、苦手って言ってませんでしたっけ」
「それは、」
あからさまに、しまったという顔。
やっぱり情けない。情けないのに、すごく安心する。
未来は少しだけ、表情を緩ませた。
「僕は、甘いの、好きです」
本当は嫌いじゃなかい。
南原の甘さが嫌いというわけじゃなかった。
ただ、その甘さに甘えて、感情が膨らんでしまうのが怖かった。
きっと、この想いにブレーキがかけられないことがわかっていて。
逃げるように、わざと関係ない話に脱線させる。
「だから、ハッカは、嫌いです」
小さな笑い声。
「次から気をつけます」
隣のイスを引いてきて、南原は未来と向き合うように腰掛けた。
「何味が好きなんですか?」
「ミルク味が好きです」
「他にどんなお菓子が好きですか?」
「チョコレートとラムネと、クッキーも好きです」
「スナック菓子は食べないんですか?」
「昔は食べてましたが、身長が伸びなくなると聞いてやめました」
「そうですか」
くすくすと笑いながら、南原は流れるように核心を突いてきた。
「わたしのこと、やっぱり嫌いですか?」
「それは、」
答えが喉で詰まる。
――嫌いじゃない。
簡単な言葉だけど、簡単に言えない。
それなのに、否定するのは簡単な気持ち。
好きになれば嫌いになって、最後には悲しさとむなしさが残る。
怖い。
怖いから言えない。
「……小野萩くん」
不意に、ふわりと抱きしめられる。
「人を好きになることは、悪いことではないと、わたしは思いますよ」
「――っ」
「確かに、人を好きになるとそれだけ悲しい気持ちになったりしますが、それ以上に、嬉しい気持ちになるんです」
でも、と否定しようとして、未来は否定する言葉がないことに気がついた。
両親との、最後の記憶は、辛くて悲しくて、切ないものだったけれど。
二人は別れてしまったけれど。
それでも、それまでは、確かに幸せそうだった。
互いを愛して、愛し合っていた。
未来のことも大事に想って、何度もこうして抱きしめてくれた。
「別れを恐れるのは当然ですが、人との出会いはもっと、大事なものなんです」
「出会い……」
「えぇ。わたしは君に会えて、とても嬉しいですよ」
「僕に? 嬉しい?」
「だから嫌われたと思ったときは、すごく悲しかったです」
「ちがっ」
スーツの裾を握り締めて、首を振る。
「違う、僕は、先生が、」
ぼろりと涙がこぼれた。
タイミングがおかしすぎる。
悲しいわけでも嬉しいわけでもないのに、なぜだか涙が止まらない。
「嫌いじゃなくて、僕が、怖くて、だって、」
鼻をすすると奥のほうが痛んだ。
「好きになったら……止められない、ずっと、もっと、好きになってしまう、から」
大きく膨らむ気持ち。
それが壊れてしまったら、心にできる虚空は果てしない。
きっと耐えることはできないから。
「小野萩くん」
優しく頭を撫でられる。
「悪い結果ばかり考えないで。今、君の心の中にある、正直な気持ちを、教えてくれないかな」
「……今の、気持ち?」
「そう。今、どうしたいのか、どうしてほしいのか」
未来は少しだけ黙って、心に問うてみた。
何をしたいのか、心が答える正直な気持ち。
それは――
「先生と、もっと、話したいです。先生と、もっと、一緒にいたいです」
最後に一筋だけ涙が落ちた。
「先生が、好き、です」
見上げた先には、嬉しそうな笑顔。
「はい。よくできました」
南原は幼い子どもにするように、未来を抱きしめ、その頭を撫でた。
満ちる感覚。満たされる感覚。
拒絶し続けた感情が心に戻ってくる感覚。
――あぁ、やっぱり。
未来はゆっくりと瞼を伏せた。
暗闇の中で、少し速い、けれど穏やかな心音を聴く。
とくん、とくん、と二人分。
ふと、遠くへ行ってしまった父親を思い出すけれど、それとはまた違う。
心にある感情が違う。
本当はずっとこうして、抱きしめられたいと望んでいた。
それが叶った今、胸に満ちるのは。
――好き。
ただそれだけ。