Last.
初夏から孟夏へ向かう熱を持った風が隙間から滑り込む。
それでも、日陰を通ってきた風なので、幾分か涼しくはある。
昼過ぎの世界史の授業。
チャイムの余韻の中、教室に入ってきた姿に、未来は無意識に顔を伏せた。
南原は足取りも迷いなく未来の元へやって来て、
「なんで、入ってるんですかぁ」
情けない声と共にうなだれた。
本来なら持つために空けられた穴から、声が届く。
「何事も慣れるまで時間が必要です」
「そうですけどぉ」
あれだけの急接近をしておきながら、また段ボール箱越しの会話が続くとは。
今日こそはきちんと席に着いた姿を期待していたのだろう。
そして、その期待が裏切られたからこそ一層、情けないのだろう。
「先生」
「はいっ」
「どうか僕のことは気にせず、授業を始めてください」
ひくっと引きつった呼吸音。
段ボール箱に小刻みな震えが伝わってくる。
次の瞬間――
「気にせず、というのは無理ですが、そうですね、授業を始めましょう」
南原は涙声ながらも立ち上がり、教卓へと戻った。
段ボール箱の中なので誰にも見えないが、未来は思わず、間抜けな顔をしてしまった。
いつもなら、教室の外に走り去ってしまうというのに。
「このクラスは大幅に遅れてしまいましたからね、少し、急ぎ足に進めていきますよ」
カツカツとチョークの音。
よく通る、キレイな声。
三角座りの膝の上で、ノートを取りながら、楽しそうに話す姿を見つめる。
まぶしい人。
心と共に遮断した空間から、薄暗い世界から、ずっと見つめていた。
まぶしい世界に憧れて。
つい板書するのを忘れて見つめていると、南原と視線が合った。
顔は黒板を向いたまま、笑う。
未来だけに向けて。
「――っ」
慌ててノートに視線を落とすが、鼓動が速すぎて、呼吸が苦しすぎて、何も書き込めない。
準備もなしに、不意打ちなんて、卑怯だ。
あんな顔。
独占できるなんて。
気持ちを落ち着かせるために深呼吸。
それから。
未来はガムテープの張っていない天井を軽く押して。
薄暗い空間に夏の日差しを取り込むことにした。
窓の外には青空。
きらきら輝く、世界。
お ま け
「――ということで」
「一件落着ってことですか」
林は電子辞書を叩きながら、タバコの代わりにポップキャンディをくわえた。
「まぁ、まだ出てきてはくれませんが」
「フタは開いたんでしょ?」
「えぇ、一応」
授業の終わりに見ると、段ボール箱のフタが開いていた。
驚きのあまり未来を凝視してしまい、すぐに閉められてしまったが。
次の授業では、また開けてくれているだろうか。
「ていうか、南原先生」
「はい?」
「小野萩に手ェ出さないんスか?」
ガタン、と大きな音が職員室に響いた。
キーボードの上の手を止めて見遣ると、南原が椅子から転げ落ちていた。
「ぶはっ」
予想以上の反応に、思いっきり噴き出してしまう。
「ちょ、せんせ、あはは、マジでっ」
「は、林先生!」
心配する周りの声に苦笑を返しながら、椅子を起こして座り直す。
「な、何、言ってるんですかっ」
「あははっ、やば、ツボったっ」
「林先生!」
さすがに笑いすぎたと思ったのか、林は浮かんだ涙をぬぐい、短く謝った。
「いや、でも、キスぐらいしたんでしょ?」
「し、しませんよ!」
「え、マジで?」
「相手は子どもですよ!?」
「あ、あー、確かにそこは、そうですよね」
林はポップキャンディを指で挟み、まるでタバコのように息を吐き出した。
なぜか、苦々しく、笑う。
「子ども相手は、難しいですよねー」
「……林先生?」
「ん、まぁ、卒業したらヤり放題っスからね!」
「林先生!!」
南原の叫びと呼応するように、林のケータイが震えた。
着信の表示と共に明滅する名前を見て、林はケータイを取り上げた。
「ちょっと失礼しまーす」
そのまま、職員室の外へと行ってしまう。
姿が見えなくなるまで見送ってから頬に触れると、風邪をひいたのかと思うぐらい熱かった。
仮にも学校で出すべき話題ではないだろう。
あの子の抱いているものが、恋とも、まだわからないのに。
ため息。
「せ、先生」
幼いけれど凛とした、聞き慣れた、声。
横を見ると、隆保の影に隠れるようにして、未来が立っていた。
相変わらずというか何というか。
「はい、何でしょう?」
「プリント、持って来ました」
隆保の脇から、クラスの人数分のプリントが手渡される。
前に宿題として配ったものだ。
「あぁ、ありがとうございます……あれ?」
回収は確か、その日の日直に頼んだはず。
記憶が正しければ、それは未来ではなかったはず。
「どうして、小野萩くんが?」
「さ、さようならっ」
ぐい、と力任せに隆保の服を引っ張り、未来は急ぎ足に職員室を出て行ってしまった。
去り際に見えたのは、真っ赤に染められた顔。
わずかに笑った顔。
とくん、と心臓が鳴る。
とくんとくん、と続けて鳴り響く。
「……手、出せるわけがないでしょう」
少なくともこれは恋だとわかっているからこそ。
抱きしめたいと思うほど愛おしいからこそ。
今は。
南原は片手で顔を覆いながら、再びため息をこぼした。
「厄介だ……」
なんて面倒な恋に、落ちてしまったのだろう。
けれど――
「何にやけてんですか、やーらしぃ」
「は、林先生! からかわないでください!」
「あと三年、がんばってくださいねー」
――楽しみなのは、確かだろう。