1.
その喫茶店に入ったのはただの偶然。
別れ話を見世物にしないための避難所として、俺は一番近くにあった飲食店に入った。
一度も来たことのない喫茶店。
店員は一人だけ。客も一人だけ。
俺と彼女を入れても四人しかいない店内。
こんなのでよくやっていけるもんだ。
現実逃避でそんなことを思ってみる。
すぐに氷水が出てきた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
無表情の男が聞いてくる。
「コーヒーのホット、ふたつ」
「豆は、いかがいたしましょう」
「何でもいいよ、あぁ、任せる」
「かしこまりました」
店員がカウンターの向こうに納まったのを確認して、彼女へと視線を戻す。
彼女は身体全体を震わせて、まだ泣いていた。
別れようと言ったのは俺だ。
何でも押しつける彼女に、ついていけなくなったのが原因。
勝手に理想の「彼氏」を作り上げて、それを俺に押しつける。
俺を勝手に染めようとする。
自然に彼女の色に染まるなら、本望だとも思うだろうけどさ。
俺にだって選ぶ権利があるだろ。
あれがいいこれがいい似合うってダメだよそんなのカッコわるいヤダ理想と違う。
テレビ観ながら、イツキにはこうなってほしいんだよね、という言葉に限界を感じた。
そのアイドルの服装も髪型も話し方も、彼女が押しつけてくるものそのままだった。
じゃあそのアイドルと付き合えよ。
そう思いながらも、俺は笑って、じゃあ別れよっか、と宣告した。
彼女も笑って、やっだー、とか言っていた。
それが昨日の出来事。
そして今日。
何をしても素っ気無い俺を不思議に思った彼女が、どうしたの? と尋ねてきたので、俺は正直に答えた。
昨日、別れようって言ったじゃん。ウソ、あれ、本気だったの? うん。ウソ。嘘じゃないし。ウソ、ウソだよね? 本気だよ、正直、もう無理。ムリって何が。全部言ってもいいの? ヤダ、別れるとか、ヤダ。でももう決めたし。ヤダ、ヤダ!
それで泣き出して、今に至る。
長いようで短い回想だ。
別れる理由を言えば、泣き止んでくれるのだろうか。
余計に泣かれそうな気もする。
他に好きなヤツができたとかでっちあげるか。
別に悪者になっても構わない。
この状況をどうにかできるなら、嫌な人間にでもなるさ。
「……あ、のさ」
声と重なるように、カチャン、と磁器が鳴った。
驚いて顔を上げる。
無表情な店員は無表情のまま、小さく頭を下げた。
「すみません」
「いえ……」
タイミングをひとつ失って、仕方なく置かれたコーヒーの水面を見つめる。
底が見えないほど濃いブラウン。
シュガースティックはなく、代わりにテーブルの端にシュガーポットが置いてあった。
引き寄せ、角砂糖をひとつつまみ出す。
「砂糖は?」
「……いらない」
「そうだったな」
塊をひとつ、自分のコーヒーの中に滑り落とす。
混ぜて溶け込ませても苦いコーヒーを一口飲んで、仕切り直す。
さぁ、悪い男になるぞ。
「あのさ、その、なんていうか……」
よし、この前に見たドラマのセリフでいこう。
「つまんねぇんだよ」
「つまんないって……?」
「会っても盛り上がるわけじゃないし、だらだら一緒にいるのも面倒だしさ」
「めんどうって、ひどい!」
「無理して付き合うのもさ、違うじゃん?」
「あたしと付き合うの、もうムリだって言うの?」
「うん、まぁ、ぶっちゃけ、限界」
「なんで、なんで」
「俺もっと自由なのがいいんだよね、いつも一緒にいるとかでなく、たまに会うぐらいのさ」
「そんなの、付き合ってるって言わない!」
「うん、だからさ、考えから合わないし、別れよう?」
「ヤダ!」
「……ったく」
別れたいと思わせるには、まだひどい男にならなきゃ駄目ってことか。
がんばりますよ。
「別にお前なんかと付き合わなくても、お前みたいな女、他にもたくさんいるんだよ」
「他って、他に、誰か、付き合ってる人がいるの?」
「あぁ、五人、六人……あぁ、お前と別れるから、五人だけか」
「ひどい……!」
「なんだよ、仮にも彼氏だったヤツに」
「あんたなんか彼氏でも何でもない!」
「別れたくないんじゃないのかよ」
「別れるわよ! 別れてやる! もう、最っ低!!」
最後に氷水を俺にぶち当てて、彼女は靴音も激しく喫茶店を出て行った。
冷たい。
椅子を濡らさないように、しっかり全身で受け止めるのも大変なんだよな。
でもこれで、彼女は友達とかには、自分から振ってやったわよ、とか言えるだろう。
振られたと悲しむより、振ってやったと憤って、次にまた新たな男を犠牲にすればいい。
せめて身の回りの被害を最小限に抑えるため、おしぼりでテーブルの上を拭いておく。
シュガーポットは無事のようだ。
コーヒーは水を受けてこぼれ落ち、水面には小さくなった氷が浮いていた。
残念なことだ。
苦かったけれど、まずいわけではなかった。
もう一杯頼もうにも、この状況で長居は難しいだろう。
仕方ない。
濡れた伝票へと手を伸ばしたとき、コーヒーの香りがした。
つられるように顔を上げると、石鹸の香りのする布地が顔に押し当てられた。
「ふぶっ」
そのまま、丁寧に水気を拭き取り、離れると視界に店員の姿があった。
相も変わらず無表情だ。
店員は何かに納得すると、そのまま俺の手に真っ白なタオルを落とした。
そして、タオルと一緒に持ってきたらしいコーヒーカップをテーブルに置き、ぬるくなったコーヒーを回収していった。
「……え?」
白い泡を乗せた、チョコレートに似た、甘い匂いのするコーヒー。
さきほどのコーヒーとは違う。
「あ、あのっ」
カウンターから視線を向けられる。
「これは?」
「コーヒーです」
「いや、それは見ればわかるし。って、そうじゃなくて」
「……タオル?」
「それもだけど、その、あのさ」
一度、口を閉じて、質問をまとめる。
ちゃんと問わないと、ちゃんと答えてもらえない気がした。
水に濡れたのは俺の過失だ。間違いない。
それに対し、店員は無言でタオルを渡してきた。
水の入ったコーヒーが熱いコーヒーと換えられた。
それもたぶん違う味のコーヒーに。
なぜ、彼は文句のひとつも言わずに世話を焼いてくれるのか。
これだ。
「なんでここまで、コーヒーとかタオルとか、サービスしてくれんの?」
「サービス業ですから」
まっとうな答えだが、どこかズレてる。
ここは普通、同じ意味だとしても、お客様のためですとか、ちょっと遠まわしな表現があるはず。
ていうか、あるだろ。
なんでそんなにド直球なんだよ。
「聞きたいことは、それだけですか?」
「え、っと、その、」
「コーヒー、冷めますよ」
「あ、はい……」
せっかく熱いものに変えてもらったんだから、熱い内に飲めってか。
まだ納得はいってないが。
俺は手の平で温度を確かめ、カップを口に運んだ。
一口含んで、すぐに気づく。
「……甘い。」
コーヒーの酸味を消さない、チョコレートのちょうどよい甘み。
うまい。
ここまでうまいコーヒーは初めてだ。
でも、違う。
やっぱり違う。
「あの!」
店員は食器を洗う手を止めて、顔を上げた。
遅れて、キュッ、と蛇口を閉める音。
そういえば、この店、BGMとか流してないんだな。
「何か、お気に召しませんでしたか?」
「いや、聞きたいんスけど、コレ」
一拍置き、ソーサーに戻したカップを視線で示す。
「最初に出してもらったのと、違うよね?」
「はい」
この人、なんか答え方がいつも潔いよなぁ。
「その、なんで、違うの出したんだよ?」
「甘い方が好きかと思ったので」
「な、なんで」
わかったんだ。
俺が実は苦いの嫌いだって、なんでわかったんだよ。
ここは初めて入った店で、まだ十分かそれぐらいしか滞在してない。
どこで判断できたんだ。
疑問がはっきりと顔に出ていたのか、店員はゆっくりと、けれど一息に答えた。
「最初にお出ししたコーヒーを飲むとき眉をしかめたでしょう」
……確かに。
見栄張って角砂糖ひとつしか入れなかったから、余計に。
ていうかコーヒーも紅茶も普段から飲み慣れてないんだよ。
日本人なら緑茶だろ。
店員は少し考えるとカウンター内から出て、カウンターのイスを引っ張って俺の近くに腰掛けた。
他にも客が、ひとりだけだけど、いるのになぁ。
サービス独占じゃん、俺。
彼は背筋も正しく、真っ直ぐに俺の目を見て、淡々と説明してくれた。
「たまにね、苦手なのを我慢して飲む人がいるんです。そういう人はカップを口につけるとき、一瞬ためらってから一口飲んで眉をしかめて、嫌そうにまた飲もうとするんです」
指先で眉間を示すが、彼の顔に表情らしきものはない。
「コーヒーって、苦いものだけじゃなくて、産地や豆によっては甘いものもあるんですよ。嫌いなものを嫌そうに飲んでもらうよりは、わたしは、苦くないコーヒーをおいしそうに飲んでもらうほうが、好きです」
そう言って。
彼は、頬をうっすらと桃色に染めた。
本当にわずかだけ。
あぁ、そうか。
確信ではないが、妙に、なぜか、納得した。
この人の表情は目や口のカタチじゃなく、肌の色なんだ。
完全に無表情なんじゃなく、ちょっとずつ色が変わっていたんだ。
――ていうか。
こうやって近くで向き合ってて気づいた。
この店員、すげぇ美人じゃね?
俺より年上っぽいし、男だけど、美人って表現がしっくりくる。
今みたいに顔を赤くすると、なんつーか、うわ、こっちが照れる。
なんだよ、なんでときめいてんだよ、俺。
「こ、コーヒー、好きなんスね」
「はい」
笑った。
いや、表情はやっぱり何も変わってないんだけど、色が変わった。
さっき美人っつったけど、訂正、かわいいこの人。
「あの、」
単純に後も先も考えてない思いつきの行動だった。
でも、間違いじゃなかったと思いたい。
俺は手を伸ばして彼の腕をつかまえ、問うた。
「ここ、バイトとか、募集してないっスか?」