誰一人動かぬ空間で独り凛と立つ姿は、
まるで、
それはまるでこの世のものとは思えない、
妖艶で、
胡蝶の見た夢のような光景だった。
1.
ヒトは滅多に別の世界へ行くことができない。
そこが人間の住む世界とは異なる世界であるがゆえに。
しかし、ヒトは狭間に迷い込んでしまう。
そこが人間の住む世界と異なる世界との境界であるがゆえに。
ゆえにヒトは己が身を守るためにも、境界を常に見定めてきた。
それはある場と場との間。
それはある時と時との間。
それはある人と人との間。
それは―――
「さて、今日の議題だ」
木曜の講義はいつも唐突に始まる。
その向こう、遥かなる水平線からは薄闇に向けて光が膨らんできている。
「今の時間帯には、さまざまな言い方があるのだが、思いつくかね」
「……夜明け、とかですか?」
薊はとりあえず『時間』から連想できる言葉を挙げてみた。
「他には?」
「え、えっと……朝焼けは違いますよね……あさ、朝の、あ、あけぼの?」
そんな名前の力士が確かいた気がする。
「うん。なかなか優秀なものだよ」
木曜はいつものように、満足そうに息を吐き出した。
結局、何を言おうとも木曜は薊を褒めることしかしない。
褒めて育てるスタンスなのかどうかはわからないが、とにかく怒られたことは一度もない。
「今となっては夜明けや単なる『朝』という言葉しかないが、古くは朝をあしたと言い、あしたという時間になるまでにさまざまな言葉が用いられていた。夜が明けてくる頃合いから、あかとき――これはあかつきと言うほうが耳馴染みがあるかな――しののめ、あけぼの、あさぼらけ、そしてあしたが来る」
どれひとつ漢字変換できなかったが、とりあえず頷いておく。
またあとで辞書を引かなければならないのだろうか。
「さて、」
木曜の講義はまだ終わらない。
「なぜ、朝を表す語がこんなにも少なくなってしまったのだろう」
「えっと……」
考え込んでも、答えは出てこない。
昔よりも今のほうが時間に厳しい時代であるのに。
時計という便利なものがあるから?
時間は言葉ではなく数字であるから?
しかし、それは木曜の求める答えではないのだろう。
薊は静かに頭を横に振った。
「わかりません」
「では、質問を変えよう。なぜ、古人は細かく夜明けを区切ったのだろう」
言葉が生まれるには意味がある。
そこに名付けるだけの価値があるからだ。
価値を見出す、それはつまり――
「大事な時間だった、から?」
「いい答えだ。そう、夜明けは恋人たちが別れを惜しむ時間であったからだ」
まだ奈良や京都に都があった時代の話。
男は毎夜、愛しい女の許に通い、共寝の夜を過ごした後、まだ光もない中で去ってゆく。
まだ触れ合っていたい想いと、人に見られてはいけない決まりごと。
その中で、もう少しだけ、あと少しだけと粘り引き止めるほどに、夜明けは細かく分けられていった。
「あかときまで、しののめまで、もういっそあしたが来るまでと、心ときめく話じゃないか」
わざとらしく大仰な仕草で、両手を広げて朝日を迎える。
しかし、淡い逆光のせいで表情は読み取れない。
「私が思うに、だ。別れなければならない、この時間帯こそが逢瀬の最高潮であり、一番愛を育んでいた時間だったのではないだろうか。薊君はどう思う?」
「え、えっと……」
途中から薄々気付いてはいたが、そろそろ身の危険を感じてきた。
薊は少しだけ、気づかれない程度に後退った。
別に危険といっても暴力的な意味は一切ない。むしろ、ないのが一番怖いのだ。
「なぁ、薊君」
長い指が伸びて額に触れ、こめかみから頬へ流れて顎を持ち上げる。
「今こそが愛し合うのに一番よい時間だと思うのだよ」
「へっ!?」
「まだ時間にも余裕のあることだし、ちょうど人気もないしな。私のほうの準備も万端だ。さぁ、今これから私たちの愛を確かめ合おうじゃ――」
「ちょ、待って待って! 木曜さん待って!」
抱きしめようとする腕から貞操を必死で庇いつつ、薊ははっきりとした声で弁明した。
「僕はロマンチストなんです初めてだしやるならスイートルームで!」
最後はなんだかおかしかった。
「スイートルーム……」
木曜はなぜかそれだけ呟いて、薊を解放した。さらにブツブツと続ける。
貞操は守れたものの、これはこれで不気味だ。
「なるほど。薊君はそのような趣向の持ち主か」
どのような趣向と理解されたのか、気になるものの怖くて聞けない。
木曜はさきほどと同じように、すいと薊の顎を指で持ち上げた。
「苺は先に食べる方なんだが、薊君は最後の最後に取っておくよ」
「い、いつかは食べるつもりですか」
「一番熟れたときに」
触れはせずに、唇に息を吹きかけ、離れる。
眩しい朝の光の中、木曜はいつものように悪い笑みを浮かべていた。
「さぁ、怪奇を蒐集しに行こうか」
うねるように舞う黒髪はまるで鴉の羽のよう。
燃費を重視した軽自動車に揺られること三時間。
まるで文明から隔離されたような世界。
「最近は都市伝説ばかり相手にしていたからな、たまの山奥はやはり感慨深い」
強引な性格に合わず、木曜の運転は制限速度に則って常に安全第一だった。
「そう思うなら、手、やめてくれませんか」
左手がギアではなく、助手席の大腿部を撫で回す以外は。
木曜は心底不思議そうに、まっすぐ前を見たまま問うた。
「どうして。早く熟れるようにと、蟹よりは優しいと思うが?」
「切らないでください。男として恐怖です」
「私は薊君が女性でも一向に構わないのだよ」
「そういう問題じゃないですから」
「あぁ、私が男だったらよかったのか?」
「それでもないです」
あくまで心中での溜め息に留めて、薊はセクシャル・ハラスメントから手元の資料へ意識を移した。
依頼主の父は二ヶ月前に他界。
それにより、遺産相続の問題が発生。
所有する土地にある神社の存在。
その神社を手放すことが決まった直後に、事件が発生。
長男の幟(のぼる)氏が、荒縄で雁字搦めにされた状態で発見される。
まるで壊れた操り人形のように。
ここで、ひとつの不安が囁かれる。
―――『祟り』じゃないか、と。
不安は恐怖を呼び、恐怖はそして木曜を呼んだ。
「さて、ここで薊君に質問だ」
木曜はいつの間にか、細い紙巻タバコをくわえていた。
ハンドルを回して窓を開ける。
パワーウィンドウのご時世に、わざわざ取り付けさせた代物だ。
「いわゆる『祟り』とは誰が起こすものと考える」
「祟り、ですか」
それは復讐にも似ていて。
常に怒りを伴って起こされるもの。
今回のケースなら――
「神様とか、そういう超人的なチカラを持った何か、ですかね」
「まぁ、正解かな。しかしここで今一つ、何か思いつかないかね」
「もう一つ……」
なにそれの祟りという言葉に当てはまるのは大体が神様だけれど、他に何かあるだろうか。
怨霊とか、これも超人的というものに含まれるか。
狐や狸も化けるなら同じだ。
では、残るものといえば、推理小説の定番であるところの――
「人間、ですか?」
短い吐息に満足な笑み。しかし声は鋭いものだった。
「だから常に気を抜いてはいけないよ」
合わない視線には、いつかに見た狐火のような光。
「いざというときのヒトほど怖いものはないのだからね」
木曜の睫毛に乗る木漏れ日は不安定に揺れていた。
淡く、儚く、きらめきの白。
「さて、そろそろかな」
小さな看板を見つけると、木曜は合図する相手もないウィンカーを点滅させて、ハンドルを回した。
家と家の間に水田があるというよりは、水田の中に家があるといった風景。
カーナビも地図もない中、木曜の運転に迷いはない。
やがて、真っ直ぐに伸びた階段の前で、車はエンジンを止めた。
「ふむ」
階段の終わりは遠く、階段の途中にある小さな石の鳥居でさえ小さく見えた。
「薊君」
「はい」
「ある人は釈迦像を背負って歩いたそうだ」
「ここは神社ですよ」
「そうだな」
よいしょ、と呟いて、階段に足をかける。
「神社にしては、それほど神気が感じられないね」
何か見ているのか、あるいは見ようとしているのか、木曜は階段の終わりを凝視していた。
「追い出されたか、見放したか、あるいは零落したか」
「零落?」
「ほら、昔のアニメ映画にあっただろう。ヒトに憎しみを抱いた神が崇り神となるのが」
「……あぁ、懐かしいですね」
あんなでっかいイノシシがいたら大変だなぁと思った記憶が蘇る。
いや、あれは神さまだからなのか。
眷属のようなイノシシたちも、まぁでかかったけれど。
「仏サマと違って、神サマは穢れやすいからな」
「けがれやすい?」
「いや、機嫌を損ねやすいと言うべきかな」
口に手を当て、くすくすと低く笑う。
「ヒトが死のうと関係ないのさ。祈る者がいなければ、消えるのは己なのに」
「……すみません、話についていけません」
そう言って薊は両手を挙げた。おそらくグローバルな降参のポーズだ。
木曜は神サマと違って機嫌は損ねず、口元を歪めたまま。
「神を定義するのがヒトなせいで、不安定な存在になっているということさ」
「……人間が、ですか?」
「ヒトに対し、肯定的なら神、否定的なら妖怪」
答えは簡潔だったが、よけいに意味不明だ。
薊は途中の鳥居をくぐるまで考えて、とりあえず問うてみた。
「つまり、座敷童は神様で、貧乏神は逆に妖怪ってことですか」
「面白い見解だ。やはり薊君は楽しませてくれる」
くつくつと低い笑い声が続く。
「まぁ、この定義でもすべてを説明するのは困難なのだけれどね」
ヒトはヒトじゃないものに定義を置いて、人知の範囲に置こうとする。
それは神の名であり妖怪の名であり、すべてを分類する言葉となる。
しかし、言葉で表そうとするがために、表せない矛盾を生み出したりもする。
結局それらは人外であり人知の及ぶものではないから。
「故に、私はあれらを総じて陰(おん)の者と呼ぶことにしている」
「オン?」
「ヒトの理解を超えたもの」
「……そろそろパンク寸前です」
「ちょうど階段もお終いだ」
引かれて顔を上げると、視界に広い空間が飛び込んできた。
その端を――ひらり――真っ黒な蝶が舞う。
光の強い空間で、それはやけに映えて見えた。
「薊君?」
「あ、はい」
慌てて、小走りに駆け寄る。
木曜はその間、手水で手をすすいでいた。
薊もそれに倣って手元を清めておく。
「神気はないが、整っているな」
「そうですね」
雑草やら落ち葉やらと、掃除をしていない雰囲気ではあるが、石畳や境内自体は壊れた場所もなく、一応の手入れはなされているようだ。
「とりあえず、お参りしときますか?」
「神に頼むことなど一つもない」
木曜は境内に近づくと、賽銭箱の存在も無視して、無遠慮に中を覗き込んだ。
先ほどの会話からも、無神論者というわけではなさそうなのだけれど。
「中も埃が積もってはいるが、壊れた箇所はないな」
「一応、まだ管理はしてるみたいですね」
「祟りが恐ろしいのかもしれないな」
くすくすと低く笑いながら、今度は境内の裏手に回る。
山の中腹を削って建てたのだろう、建物のすぐ後ろには林が広がっていた。
奥に行くほど濃くなる闇。
「……本殿は、この先だな」
「いますか?」
「気配は弱い。身を潜めたか」
あるいは、もうすでに力衰えた存在か。
じっと暗闇の更に奥を見つめる。
そのとき、
「あの、」
ぴりと尖った声音が聞こえた。
木曜は驚いた様子もなく振り向くと、少し離れた所に立っていた女性を上から下まで不躾に眺めた。
階下に広がる田園風景には似合わない、薄い藤色のスーツ姿に、緩くまとめられた髪。
性格のきつさが表れていそうな目元。
「あなたが鬼灯 識子(きとう さとこ)さんかな」
「……えぇ」
「初めまして。私は早乙女木曜。彼は助手の薊君」
薊は小さく頭を下げた。
それに対しては何の反応もせず、
「言っていた文献などは家のほうに置いてあるので、早く調査でも何でもして、どうにかしてください」
識子は抑揚なく一気にまくし立てた。
木曜がやれやれといった感じで、首を左右に振る。
「短気短慮は皺を増やすぞ」
「なっ」
見る間に識子の顔が赤く染まる。
木曜のストレートな物言いは、慣れれば気にならないが、初対面の人間にはそれなりに気に障るようで、
「ふざけないでちょうだい!!」
識子は持っていたカバンを投げつけるような勢いで怒鳴った。
薊だけ、驚きに肩をわずかに震わせる。
声にもだが、何か、見えた。
空気が揺れた一瞬だけ、何か別のものが彼女に被って見えたような。
あれは嫌なものだ。
「失礼。しかし、今回は祟りということだから、慎重にしていただきたい」
木曜はゆっくりとした足取りで識子に近付き、その肩を軽く叩いた。
振り向き、口の端だけ吊り上げるという、器用な笑顔を見せる。
「では、行こうか」