2.
忌中と張り紙のされた旧家らしい広い屋敷の奥、通された部屋には、埃にまみれた古文書やら何やらが散乱していた。
古い物にはそれなりの扱いというものがあるのだが、いや、専門の知識がないにしても、置き方が大雑把すぎるというか。
木曜はわずかな面積しか残していない床を猫のようにすり抜けて、端に位置してあるテーブルに真白い布を広げた。
「……何してるの?」
すぐに文献に触れると思っていたのだろう、識子は怪訝そうに訊いてきた。
「古文書を汚さないため、壊さないためのカバーというかクッションですね」
「ふぅん」
木曜は長い髪を器用に編んで束ねると、一番手元にあった巻物から広げ始めた。
広げては読み、読んでは巻きを繰り返す。
「薊君」
「はい?」
「しばらくひとりに」
「はい」
木曜を残して襖を閉めようとすると、識子が慌てたように言った。
「ちょ、あなた助手じゃないの?」
「僕はその……」
どう説明したものか。まだ字が読めないというのもあるのだけれど。
というか薊自身の体質に起因するものでもある。
しかしそれを説明したところで、理解してもらえるかが疑問だ。
答えが見つからずに口ごもる薊に、木曜が室内から助け舟を出した。
「薊君はモノの中よりヒトの中にあるほうがいいのだよ」
「はあ?」
全然助け舟になってない。
薊はとりあえず、一番もっともな理由を提示することにした。
「えっと、その、まだ解読とかできないんです」
「それでも助手なの?」
「いえ、実際はその、弟子というか」
「恋人だよ。愛人でもいい」
「何それふざけないで!」
「そうですよ木曜さん!」
マスクに隠された口元から、くつくつと低い笑い声。
「薊君には薊君の仕事があるのさ。さぁ、行っておいで」
ひらりと手を振って、木曜は作業に戻った。
これ以上は無駄な問答だと思ったのか、識子は眉根を寄せたまま、黙ってきびすを返した。
少々荒々しい足音が続く。
「じゃあ、失礼します」
軽く頭を下げて襖を閉めようと滑らせたとき、隙間から木曜の言葉が流れてきた。
「気をつけて」
「はい」
その隙間すら閉じると、廊下の闇が濃くなったような感覚がした。
古い洋館の空気も苦手だが、日本家屋の空気もまた、独特の恐怖感を抱かせる。
イグサの匂い、埃の匂い、木の匂い、どこか生活臭を感じさせない空間。
薊は左右に伸びる廊下の先をそれぞれ見遣って、さてと息をついた。
「自由に、動き回っていいのかな」
識子の姿ももう見えないし。
来た道をたどって、一度玄関まで戻ろうか。
そう思って床板を鳴らしたとき、
「あなたが拝み屋さん?」
随分と若い、少女の声が通った。
「まぁ、そうとも呼ばれますけど」
答えながら振り向くと、少女が暗闇に表情を隠して立っていた。
まとめられずに軽く波打って流れる長い黒髪に、喪服であろう、黒い着物姿。
ひらり、揺れて見えたのは、蝶の帯止めだろうか。
その影が数歩動くと、幼い顔が光に照らされた。
「想像してたよりずっと若くて、びっくりしちゃった」
雰囲気は違うが、どこか識子に似ている。
薊は車内で読んでいた書類の内容を思い出し、照合して問うた。
「……織子(しきこ)さん、ですか?」
確か四人兄弟の末っ子が中学生の女の子だったはず。
少女は驚いて、そして頷いた。
「そうよ。拝み屋さんは?」
「僕は薊です」
「アザミ……あ、お花の名前ね。赤紫の、トゲのある花」
「へぇ、よく知ってますね」
「庭に植えてあるの。アザミはね、一番好きな花なのよ」
織子は薊の顔をのぞくようにして、上目遣いに笑ってみせた。
「薊さんのことも好きになれそう」
「え?」
「よかったら、屋敷の中を案内しようか?」
願ってもない。
薊は二つ返事もなく、その申し出を受けることにした。
ぬらり、闇が動く。
潜めていた気配を更に薄く。
研ぎ澄ました神経を更に遠く。
探る。
探り出す。
誰が、誰が―――
一通り案内が終わって、二人は縁側に腰を落ち着かせた。
都会よりもずっと秋らしい風に、髪を遊ばせる。
織子は薄手のショールをまといながら、興味深そうに尋ねた。
「ね、お姉ちゃんの依頼内容ってどんなの?」
「それは……守秘義務がありますので」
「どうせ、祟りをどうにかしてほしいって感じでしょ」
薊は思わず、黙ってしまった。それが肯定になるというのに。
短い笑い声。
しかし、それは薊を笑ったものではなかった。
「そんなの、あるわけないのに」
「……織子さんは、その、祟りはないと思ってるんですか?」
「ないない。だって、」
表情から、声音から、感情が消える。
まだ外の光が強いせいか、織子の瞳には暗い影が落ちていた。
幼い顔つきに似合わないほど深い、黒色。
織子は抑揚も何もない声で、紡いだ。
「幟お兄ちゃんは、殺されたんだもん」
思い出すのは車内で交わした、木曜との会話。
「祟りなんかじゃない」
ヒトは愚かにも、神の行いになぞらえて罪を犯してしまう。
己の行いを転嫁し、隠匿し、正当化するために。
決して神の領域には達せないというのに。
「なかなか気に入られたようだな」
一段落したのか、木曜は窓枠に腰掛けて甘い紫煙を燻らせていた。
「気に入られたというか……」
薊は服にしがみついていたり足元をウロウロしているモノに、視線と肩を一緒に落とした。
毛玉や小鬼などの姿をしたそれらは地神や精霊といった類のモノで、薊が否応なしに寄せ集めてしまうモノでもある。
別段危害を加えるわけではないのだけれど、甘える幼子のように、どうにも離れようとしない。
出て行くときよりは整頓された室内に、薊は倒れるように腰を落とした。
和室には合わない、薔薇の香り。
確か、あのタバコはどこか外国のものだと聞いたことがある。
木曜は最後にふぅっと煙を遠くへ飛ばすと、携帯灰皿で残りを揉み消した。
「情報収集はできたかな?」
「少しだけですけど、一応は」
織子から聞き集めた情報は、識子とは違う観点――祟りを否定する立場から、ということで渡されていた資料よりは簡潔で、現実的なものだった。
曰く、警察の捜査の打ち切りが不自然に早かったこと。無理やり自殺と決められたこと。そして、事件以前から、遺産相続の問題で兄弟の仲が悪くなっていたこと。
織子の背負う闇は、おそらく身内の貪欲な姿を見たせいで生まれたのだろう。
「金が絡む問題はどこでも同じだな」
木曜は窓枠から降りて、薊のすぐそばに座った。
途端に薊に引っ付いていたモノが怯えた様子で、かき消えるように離れていった。
相変わらず、強い存在だ。
「そちらは何かわかりましたか?」
「薊君の期待に応えるためにも、懸命に解読したよ」
「僕なんかのために、命を懸けないでください」
「おや、もしものとき最も危機なのは薊君の貞操なのだよ?」
「やめてください過去のトラウマが」
ふと浮かぶ記憶を飛ばすためにも何度か頭を振ってうなだれる。
いっそ一般的な遭遇者のように、死の恐怖を味わうほうがマシだと思ったことも幾度か。
「薊君も罪作りな男だ」
「作りたくて作ってるんじゃありません!」
「無自覚なのもまた罪」
「もうやめませんか本当に」
疲れるというよりは困り果てるといった感じ。
何度繰り返しても慣れることはないのだろう。
木曜は満足したように息を吐くと、薊と向き合うように座り直した。
「本題に入る前に、少し勉強をしようか」
「また講義ですか?」
「薊君にはまだまだ知識が必要だからね」
二人の間、何もない畳の上に紙を置く。
書き散らしているようで、丁寧な文字の流れ。
手入れのされた指先が示すのは、依頼人を含む四人の兄弟の名前。
「見てごらん。なかなか洒落た名付けじゃないか」
長女の識子(さとこ)、亡くなった長男の幟(のぼる)、次男の職(つかさ)、そして末の織子(しきこ)。
「偏が違うだけで、みんな同じ漢字ですね」
「この共通する部分を更に分解すると、弋(くい)と辛になる。クイは杭と言ったほうが理解できるかな。シンは刃物のこと。五行の『金の弟』の意味でカノトと読むこともある。つまり、金属の刃で杭に印をつける、目印という意味だ」
「……目印」
「言葉の目印、目印の旗、聞き分ける目印、目印の糸」
「目印を含む、名前……名前に、意味が?」
木曜は質問には答えず、とんとんと紙を軽く叩いた。
「この家の苗字は覚えているかな?」
「えっと、鬼灯でしたっけ」
「そう。キトウと音読みしているが、訓読みは知っているかな」
「…………いいえ」
「鬼灯とはホオズキの漢字表記だ。ホオズキはわかるかな」
「はい。オレンジ色の、提灯みたいな植物ですよね」
花はそれほど見たことはないが、実が提灯のようなものに包まれていて、確か昔は子供の遊び道具だったと聞いたことがある。実の中身を出して、笛のように鳴らすのだとか。
「そう。そのホオズキのことを古くはカガチと呼んでいてね、そしてカガチは蛇の別名だ」
「……目印ってつまり」
悠然と上品な笑みが浮かび上がる。
「名前に隠したのは神サマの正体」
「祀られているのは―――蛇神」
古く、神話の時代から、蛇は神として崇められていた。
それは蛇が脱皮を繰り返すことから、死と再生を繰り返す象徴として見えたためと言われている。
大地を破壊する存在であり、同時に水の恵みをもたらす存在。
「一番古い存在としては、死したイザナミに従う雷神として描かれているものかな」
そして蛇は新たに生まれた神であるスサノオと同じ役割を担っていたため、結果として退治されてしまうというのが、かの有名なヤマタノオロチの物語だ。
まぁ、仏教や西洋の思想が入ってきた現代では、蛇はどちらかというと神聖さよりは性的な意味を含んでしまうのだが。
「形が××××に似ているからと、失礼な言いがかりじゃないか」
「もう少し慎みというか上品な言い方にできませんか」
「うん? そうだな……保健の教科書なら何と書いてある?」
「……言わせますか」
「言わせたいな」
「言いませんよ」
「だろうな」
『祟り』の起きた部屋に向かっている道中に、早速祟られそうな話題である。
本当に、故意なのかどうなのか。
織子の案内を思い出しながら、薊はぴったりと締め切られた襖の前で立ち止まった。
すらりと乾いた音を滑らせて、襖が開かれる。
一見して何もない、しかし雰囲気の異なる空間が存在していた。
「ここが、長兄の亡くなった場所か」
「警察が入って一応調べたそうですが、その後は特に何も動かしていないそうです」
死というのは負のイメージを持つものであり、負の立場にあるモノが好む現象でもある。
死が発生した場所には、死を呼ぶモノが集まる。
さきほど薊についていたモノとは異なる、もっと禍々しいモノ。
「薊君の目にはどう映っている?」
「……欄間から黒い縄みたいなものが、人影が見えます」
「どう見る?」
「……おそらくは、亡くなった幟氏かと」
言葉に出すと同時に、ギリリと縄の擦れる音が響いた。
「名に反応したか」
木曜は穢れに引き寄せられたモノを、文字通り「蹴散らし」ながら、欄間の下へと歩いていった。
すっと長い指で、人影の首元に触れる。
「霊ではないな。残留思念とやらか」
「それって違うものなんですか?」
「意思の有無や、生者に与える影響力が多少異なる」
だから薊の目にも人『影』としか映らないのか。
幽霊のように襲い掛かってきたりはしないが、死ぬ間際の一番強い感情が残されている場合が多いので、残留思念に引きずられると精神的な霊障が起こる―――つまり、憑かれてしまう。
「何か、読み取れますか?」
木曜はしばらく影に触れたまま、ゆっくりと瞼を閉じた。
「……息苦しさ、後ろから首に……手、紐……拒否、死、死―――」
眼裏に映る映像を言葉に置き換える。
何も飾らない、ただ見たままを、音に変える。
だからこそ、最後の単語からは純粋な恐怖の冷たさが感じられた。
それ以上、読み取れる情報はなかったのか、木曜は腕を降ろした。
「とりあえず自殺ではないようだな」
「じゃあ、祟りですか?」
「何かの気配は残っているが、それが神社で感じたものと同じかは判断できない」
もう一度、ぐるりと部屋の中を見回す。
小さな影がちらほらと見えるが、神格性を帯びたモノはいない。
――ちらほら、と?
「……なんか、少なくないですか?」
「ん?」
「あ、いえ。気のせいかもしれないんですけど、集まってきているモノの数が、いつも見るより、少ない気がして」
「ふむ」
「や、僕は、木曜さんほど経験積んでるわけじゃないんで、その、」
「いいや」
木曜は指先で薊の唇に触れ、言葉を遮った。
「よく気がついた」
ぐるりと見回し、人外のモノの密度を確認する。
「確かに少ない。いや、少なすぎる」
「祟りと、何か関係があるんでしょうか」
「いや……他の、何かがいる」
視線と共に思考を巡らす。
過去の事例、類似した事例、予想できる事例すべてを思い浮かべ、その中からさらに可能性の高い事例を絞ってゆく。
気配。
欄間の陰と霊の不在。
少なすぎる存在。
「……嫌な感じがするな」
これ以上、ここで得られる情報はないと判断したのか、
「次は、聞き込み調査だ」
そう言って、木曜はきびすを返した。