3.
――生きたい。
もっと。
――消えたくない。
もっともっともっと。
――まだ足りない。
もっともっともっともっともっともっと。
食べないと。
突然感じた寒気に、薊は勢いよく振り向いた。
先には、明かりの少ない廊下。
木の床と天井、柱と土壁しかない、質素な空間。
それだけ。
――気の、せい?
前を向くと、すでに木曜は客間に入ってしまっていた。
外に漏れる光に少なからず安堵しながら、薊も部屋に入る。
「さて、聞き込みを始める前に、弱点の話をしておこうか」
「弱点?」
木曜が迷わず窓枠に腰掛けたので、薊はその足元に正座した。
「何者にも、何事にも、必ず弱点が存在する」
一筋の煙と花の香り。
「もし蛇神だとすると、場合によっては不利になりかねないからね。薊君が食べられてしまっては大変だ。あぁ、ちなみに蛇の生殖器はふたつあるらしいよ」
「補足部分は聞かなかったことにします」
「そうだな、さすがに二本はきついかもしれないな」
「何の話ですか。いえ、言わなくていいです。その、弱点の話を進めてください」
生殖器というワードが出た時点で木曜の意図する内容はわかりきっている。
木曜は残念そうに煙を吹き出した。
「前はもっと純粋な可愛らしい反応を返してくれたのに」
「鍛えられたんですよ無理やりに」
「無理やりとは心外だな」
あからさまに驚いた顔をされる。
というか、心外と言われることがまさしく心外なのだけれど。
「まぁ、その話はまた今度じっとり語り合うとして」
結局聞かされるんですか。
しかもじっとりって。
「蛇の攻略法は――」
言いかけて、木曜は一瞬にして表情を一変させた。
どこから出したのか、細い、おそらくはボールペンを、薊の背後に向かって投げつける。
耳元で、風を切る音。
でも、なぜだか遅いと感じた。
這う。巻きつく。締めつける。
危険だ。
何かはわからないが、危険だ。
首筋に、冷たい痛みを感じた瞬間――
「え……?」
溶けて、消えた。
「え、えっと?」
這う感覚も巻きつく感覚も締めつける感覚も、すべてが消え失せた。
初めから何も起こらなかったかのように。
説明を求めるように木曜を見上げると、木曜は眉間に皺を寄せて見下ろしていた。
「……薊君」
「あの、これ、えっと?」
「失礼するよ」
木曜は短く断って薊を押し倒すと、シャツを一気にまくりあげた。
「ちょ、何するんですか!?」
「やられたな」
「は?」
「見てごらん」
言われて自分の体に視線を落とすと、赤黒い、蛇のような文様が巻きつくように浮かびあがっていた。
おそるおそる触ってみるが、痛みも何も感じられなかった。
熱くも冷たくもない、ただあるのは体温だけ。
「これって、まさか……」
ヒトでないモノはよく、気に入った存在に印をつけようとする。己をかたどった紋章がある場合はそれを刻みつけたりするのだが、薊が遭遇するモノの多くは咬み傷や、いわゆるキスマークとかを好んで残していったりする。
あれは本当に、消えるまで隠し通すのが面倒な上に厄介だ。
ふと、首筋を指でなぞってみる。
あの痛みが確かなら、咬まれたはず。
「……あれ?」
しかし、予想に反して傷痕は残されていなかった。
鋭い牙が二本、突き立てられたはずなのに。
「傷はないはずだよ。これは、いつもとは違うからね」
「違う?」
「依代か、あるいは囮にするつもりか」
それがどういう意味かは理解できないけれど、木曜の剣幕さから見て、放っておけない事態であることは理解できる。
「――って、木曜さん?」
「ん?」
「その、何しようと、してるんですか?」
押し倒された上にまたがった状態で、木曜はさらに薊のズボンも脱がそうと取りかかっていた。
ていうか、いつの間にベルトが外されていたんだ。
木曜は至極当然だという顔で、
「薊君の下半身が無事かどうかを確かめようと思ってだな」
「じゃあパンツまで脱がそうとしないでください!」
「一番大事な場所だろう?」
「確認なら自分でしますからって、木曜さんっ、変なトコ触らないで、あっ」
「失礼します。夕食の――」
静まり返った空間で、三つの視線が交錯した。
時間さえ止まったのかと思うような長い空白のあと、
「すみません、お邪魔しました」
「ちょ、待ってください色々と誤解がっ」
「そうだな邪魔だという自覚があるなら早々に襖を閉めるがいい」
「木曜さんは黙ってください!」
なんとか木曜の下から這い出て、まくり上がったシャツを素早く直す。
とりあえず話題を変えよう。
さっき言っていたのは確か、
「えと、夕食が、どうしたんですか?」
青年と呼ぶには少し早いかもしれないが、彼はじっと薊の首筋を見ていた。
咬まれた箇所。
まさか服で隠せない場所まで痕がついているのだろうか。
確かに首筋を咬まれたけれど。
「これを前にも見たことがあるのかな?」
木曜はするりと後ろから抱きつくように、薊の首筋を撫でた。
ぴり、と短い痛み。
自分で触ったときは何もなかったのに。
「次男の職(つかさ)氏と見受けるが、どうなのかな?」
「っ」
明らかに驚いた表情。
薊も驚いたように青年――職を見た。
言われてみれば、織子に似てなくも……ないとは言えないが。
職は何度か口を開いたり閉じたりしていたが、しばらくして頭を下げた。
「実は、相談したいことがあって、こちらに伺いました」
「今回の一連の騒動に関わることかな」
「……たぶん」
「ふん。面白そうだね。入りたまえ」
木曜は再び窓枠に腰を下ろしたので、薊は木曜の足元、窓の下に正座することにした。
その向かいに職が正座している状態で、話は始まった。
「……あの、もしかしたら、関係ない話かもしれないんですけど」
「構わないよ。すべてはこちらで判断させてもらう」
いつの間にか尽きた煙草に代えて、新しい煙草に火をつける。
「……父が、亡くなる少し前のことなんですけど、姉と兄が、喧嘩をして」
「どんなことで?」
「父の遺産についてだと思います、たぶん」
「たぶん?」
「そのとき、僕はまだ家に帰ってなかったので……」
「なるほど。それで?」
「その、父は生きていたとき、壺を大事にしていて、家宝だったらしいんですけど」
これぐらいの、と職は手を動かして示した。
縦横三十センチくらいだろうか。
「姉が言うには、価値がないらしくて、父が亡くなったら売ろうと提案したら兄と口論になって、最終的に取り合いみたいになって」
「落として割った?」
「はい。僕が帰ってきたら、織子が泣いてて、立ち尽くしてる姉と兄と、粉々に割れた壺が落ちてました」
「粉々?」
「え、はい、ほとんどが小さい欠片になってました」
「畳の上で?」
「……はい」
「ふん。それで?」
「あ、えと、その後からなんですけど、織子の様子が変で、どう変なのかはちょっと、言えないんですけど、なんか変で、姉に言っても、なんか信じてもらえなくて」
尻すぼみに言い澱んでしまう。
木曜は顎に手を当てて考える仕草をしていたかと思うと、薊に視線を落とした。
「妹さんには、確か薊君が会っていたね?」
「あ、はい」
「どんな感じだった?」
「……肉親を続けて亡くされたせいかと思ったんですけど、」
廊下が暗かったとか、日差しが強かったせいかもしれないけれど、思い返してみると――
「少し、陰があるように感じた気がします」
「ここに来てから、それと似た気配は感じたかな」
「……いいえ、たぶん、ないです」
「先ほどのは?」
「あれとは違うと思います」
すでに身体に馴染んだのか、冷たい痛みの名残りは消えて、代わりに僅かな熱を感じるようになってきた。
自分の中に小さな異物があるような感覚。
魂とかそういったものの一片を残していっているからだと、前に木曜に聞いたことがある。
所有の証として。
「先の質問だけれど」
木曜はもう一度躊躇いなく薊のシャツを捲り上げた。
「ちょっ」
「これを前にも見たことがあるのかな?」
「っそれは、その……あの……」
逃げるように、職の顔が俯いてしまう。
その間に薊は素早くシャツを直した。
「こちらも薊君の安否がかかってしまったのでね。できれば教えてもらいたいのだが」
跳ねるように、顔が上げられる。
「でも、あの、」
「何でもいい。話してくれるかな」
あくまで木曜の表情にも声にも感情は含まれないが、剣呑とした雰囲気は感じ取ったのか、職はためらいがちにも話を再開した。
「……あの、壺が割れた後なんですけど、それと同じ、刺青みたいなのが父の身体に浮かんで見えて」
「誰か他の者も見たのかな」
「いいえ、一瞬だけだったし、僕しか見てないみたいです」
ちらと薊を見て、視線だけ畳の上に落ちてしまう。
「その後、すぐに、父は亡くなりました……」
不意にぞっとした。
亡くなった人と同じことが、身の上に起きているなんて。
少しでも不安を減らそうと思って木曜を仰ぐと、深く考え込んでいるのか、どこか違う場所を見ていた。
「……割れた壺、壺はもう捨ててしまったのかな?」
「いえ、一応、まだ台所の裏に置いてあるはずです」
「見てみたいな」
「え? 今、ですか?」
「何か支障が?」
「……いいえ、わかりました」
「よし」
木曜は煙草をもみ消して立ち上がった。
直接見に行くつもりなのだろう。
「そういえば、夕食の話は何だったんですか?」
薊も立ち上がりながら、問うた。
「あぁ、何時に運べばいいか、聞きたかったんですけど……」
「適当で構わないよ」
「じゃあ、部屋に戻る頃に、運んでおきますね」
「よろしくお願いします」
素っ気ない木曜の代わりに頭を下げると、苦笑気味ではあるが、一応笑みを返された。
まぁ、亡くなった父親と同じ状態の人間がいるのだから、普通には接しにくいだろう。
しかしそれにしてもこの性分、どうにかならないものかなぁ。
カチャリと破片が鳴る。
中には鋭利なものもあるので、慎重に検分していく。
畳の上に落として割れたにしては、破片が小さすぎるように思われるが。
最後に、油紙のようなものを手にして、木曜は顔を上げた。
「中には何も入っていなかったのかな」
「片づけたときには、何もなかったですが」
「蓋はあるのに?」
「あ……」
言われてみれば、中身のない壺に油紙で蓋をすることは、普通ない。
いや、壺として鑑賞するのであれば、そもそも蓋をする意味はないのではないだろうか。
「しかし、何か入れていたとしても、その形跡がなさすぎる」
まるで気体でも閉じ込めていたかのような。
「形跡はないけれど……薊君、少しだけ、触れるかな」
「やってみます」
差し出された小さな欠片に、そっと指先だけ触れてみる。
這う。舐める。違う。刺す。
――気配。
逃げるように手を離すと、小さく皮膚に裂傷を負ってしまった。
「大丈夫か?」
「は、はい……何か、嫌な、すごく嫌な感じです」
「先ほどのと、同じ気配かな」
「いいえ、もっと、黒い、暗い、渦のような感じ、です」
「ふむ。あぁ、傷は舐めない方がいい」
木曜は白いハンカチを、薊の手を包むように手渡した。
たいした傷ではないので、血はすぐに止まってしまった。
「変化があったのは、妹さんだけかな」
「……多少、姉がピリピリするようになりましたけど、それぐらい、でしょうか」
「幟氏は?」
「……特には」
「亡くなる前に、刺青が現われたりしなかった?」
「僕は、見てないです」
「そうか」
もう一度、油紙の裏表を確かめてから、木曜は立ち上がって腰を伸ばした。
「さすがに空腹だ。食事にしよう」
「あ、すぐに持っていかせます」
「よろしく頼む」
木曜はすれ違いざまに軽く職の肩を叩いて、屋敷内へと戻っていった。
用意された夕食は、豪勢とは言いにくいけれど、それでもいつもの食事よりは豪華に見えた。
量はさておき品目が多い、まるで懐石料理のような。
「いただきます」
二人で同時に告げて、食べ始める。
昼食は車内で軽く摂っただけだったので、実はかなり空腹だったのだ。
「傷はまだ痛むかな」
「え?」
木曜はとんとんと指先で首筋を示して、もう一度問うた。
「首の傷だよ」
「あぁ、いえ、もう痛みはないです」
カイロをあてているような、じんわりとした熱は残っているが。
咬まれた瞬間、感じた恐怖。
何度味わおうと身に馴染むことのない感覚。
ぞくりと。
「……あの壺は、蛇と関係あるんでしょうか」
「いや、おそらくは別物だろう」
元の形の想像は難しいが、欠片の色や表面、断面の様子から素焼きの壺だと知れた。
目利きではないので、高いのかどうかまではわからないけれど。
いや、識子によると価値はないのだったか。
「家宝らしいですけど……古そうには、正直見えませんでしたね」
「あぁ。古くとも百年か、そこあたりだろう。先代かその前で手に入れたかな」
木曜は焼き魚に添えられたみょうがを、丁寧に取り除いた。
「嫌いなんですか?」
「食べると物忘れが激しくなるそうだ」
「そうなんですか?」
「俗信だよ」
つまり、単に嫌いなだけと。
「壺の中身ですけど、その、これはただの連想なんですけど……」
「さすが薊君、気付いていたね」
「まだ何も言ってないんですけど」
「言わんとすることはわかっているさ」
にやりと笑って、先の言葉を紡ぐ。
「蟲毒か否か、だろう?」
読まれていたということは、木曜も予想していたのだろう。
壺で飼い馴らされた金の卵を産む毒。
より強い生への執着のみが生き残り、形を成したもの。
それは富や地位、名誉を与える代わりに、無限の死を要求する。
そして要求が満たされなければ最後、主を喰い殺して己も死ぬ。
「……やはり、蟲毒なんですか?」
「否定はできないね」
もし壺が割れたことで逃げ出しているとしたら。
どこかに隠れて喰い殺す隙を狙っているとしたら。
「主とその家族を食い終わった後に、死に果てる前に、もし最上級のご馳走が現れたとしたら」
焼き魚の最後の一切れを箸で突つきながら、
「薊君が狙われる可能性は大きい」
木曜は真剣な表情で言った。
「もちろん、いつもと同じ意味でね」
「殺されることは」
「ない。ないけれど、そう、喰われるだろうね」
生への執着が強いということには、もうひとつ別の意味がある。
本来、死ぬことのない人外のモノにはない欲求。
次の命を成し、産み落とし、先へ残すこと。
それを強く思い起こさせるのが、薊の性質であり体質なのだ。
「最悪、私は薊君を最優先に選ばせてもらうことにしよう」
「こ、怖いこと言わないでください」
「絶対に守ってみせるよ」
「かっこいいんですけどね!」
言ってる本人が実は一番に狙っているという罠。
身を守る術を教えてもらっているけれど、果たしてそれが木曜にも効くのかどうか。
いや、今はこんな話をしてる場合じゃなくて。
「どちらの、祟りなんでしょう」
「表面だけ見れば蛇だろうが、蟲のカタチもわからないしね、断定はできない」
木曜はいつの間にか箸をペンに持ち替えて、コンコンと台を叩いた。
「少し、整理してみようか」
事のきっかけは父親の死。
しかし、それ以前から遺産相続に関する問題は発生していたと考えられる。
壺をめぐる口論があったことからも、間違いないだろう。
その壺は口論の延長の末、壊れてしまう。
中身が蟲毒であったかもしれないことが、現在の懸念でもある。
壺が割れた後に、父親の身体に蛇に似た刺青が浮き上がるのを、次男の職が目撃。
この刺青の原因が壺の中身にあるかは不明。
別物である可能性が一番強いが、割れた後に浮き出たことから、無関係とは考えにくい。
また、どちらかが死因になったのかも不明である。
父親の死後に、神社のある土地の売却案が挙げられる。
直後、長男の幟が縄で首を吊っている状態で発見される。
まるで蛇にくびり殺されたかのような、異常な光景から長女の識子は「祟り」を連想する。
そして、木曜に調査の依頼がくる。
内容は「祟りか否か」の判断と、祟りである場合の解決。
「どれとも繋がりそうで、どれとも繋がらない感じだね」
ポイントは、蛇と壺。
原因がどちらであるかがはっきりすれば、解けそうではあるが。
「何か、気になった点とかはないかな?」
「……あえて挙げるとすれば、僕は、末の織子さんが、気にかかります」
「というと?」
「最初に感じた陰が、何か、すごく、危ないというか、心配で」
どうしても感覚でしか述べることができないが、それでも木曜は納得してくれたようだった。
「では、そちらは薊君に任せよう」
「はい」
再び箸に持ち替えて、食事を進める。
最初は少ないように感じたけれど、品目が多いだけで腹は膨らむらしい。
これだけ豪華な料理を残すのはもったいないけれど。
「あぁ、忘れるところだった」
「何ですか?」
木曜はどこからかマッチの箱を取り出した。
いつもの紙巻煙草を一本添えて、手渡される。
「これは?」
「五行の授業は覚えているかな」
「えっと、世界を構成する五つの元素のことですよね」
「そう」
おおよそ紀元前に中国で生まれた思想のひとつに五行説というものがある。それにより世界は木、火、土、金、水の五つの元素で構成されると考えられた。そしてこの五元素は互いに干渉しあう存在になっており、それは主に「相生」と「相克」の関係で表される。「相生」とはつまり生み出すことで、例えば火は燃えることで土を作り、土の中から金属が現れ、金属の表面に水滴が生まれ、水は木を成長させ、木は燃えて火を作る。「相克」は勝つ、つまり滅することで、火は金属を溶かすことができ、水は火を消し、土は水を吸ってしまうし、木は土の養分を食らい成長する。そして、金属は木を切ることができる。
その関係が示す自然の理は、現代でも通用するものである。
「蛇の別名がカガチというのは先に話したね」
「はい」
「その由来として、蛇の瞳が鏡のように見えることが挙げられる」
「カガミですか」
「そう。鏡は金属で作られるもの。だから、蛇の属性は金になる」
そういえば、この家の人々の名前にはすべて刃物という意味が含まれていたのを思い出す。
この家の者はみな、金の気をもつのだろうか。
「故に、木の気をもつ薊君とは相性が悪いのだよ」
金克木の関係。
天地がひっくり返らない限り、覆すことのできない自然の摂理。
「まぁ、相性は悪いけれど、こちらとしても手がないわけじゃない」
指先でマッチの箱を叩く。
中でしゃら、と小さな音が鳴った。
「木生火の関係を利用する」
木が燃えることで生み出す火は、金属を溶かしてしまう。
それを利用すれば対抗手段になる、ということか。
「とはいえ、己の身を削るわけにもいかないからね、煙草も一緒に渡しておくよ」
「これに火をつければいいんですか?」
「煙草は触媒だ。火をつけた後に気を送る」
簡単に言われたが、簡単に行えるものではない。
気の操作というものができれば、苦労はしないのだ。
体質の改善だって夢ではない。
そう、できれば、の話だ。
耳元を掠めるような木曜の笑い声を聞く。
「薊君には難しい注文だったかな」
「……少しばかり」
「火をつけるだけでも多少の効果はあるだろう」
「大丈夫ですか」
「危険を感じたら、なるべく私から離れないことだ」
「……わかりました」
薊はしばらく煙草を見つめてから、ズボンのポケットにマッチ箱と一緒に入れた。
「それに蛇は煙草の灰を嫌うというしね」
「あぁ、聞いたことあります。蛇除けに家の周りに撒くんですよね」
「なかなか薊君は博識だ」
「いえ、木曜さんの足元にも及びません。本当に」
「謙虚な所も素晴らしいよ」
くつくつと笑い声。
見ると木曜の皿はすべて綺麗に空になっていた。
女性の標準体型よりやや細めに見えるのに、一体どこにあれほどの量が入ったというのか。
薊はまだ三分の一ほど残されている夕食を見つめた。
おいしいのだけれど。
「残しても怒られはしないと思うが?」
「いえ、なんとか、食べます」
「素晴らしい心がけだが、食事はもう終わりのようだ」
「え? どうして――」
小さく足音が聞こえたと思ったら、一気に近づいて、慌ただしく襖を開け放った。
「失礼します!」
「職さん?」
「姉さんが、織子が、虫、変なモノが、突然!」
虫という単語に木曜が素早く反応した。
立ち上がって歩きながら、薊の腕を引く。
「行こう」
「あ、はい」
薊は名残惜しそうに、心の中でご馳走様でしたとだけ呟いた。