08-4 | かがちに咲く蝶の花





『 かがちに咲く蝶の花 −早乙女木曜の怪奇蒐集事件簿− 』






4.


 襖を開け放ってすぐに、異様な空気が感じられた。
 小さなちゃぶ台の上にあったのであろう書類はすべて畳の上に散乱し、襖や障子はところどころ破けてしまっている。そして部屋の隅にある机の上に逃げるような格好で識子が包丁を手に立っており、少し離れた場所に織子が倒れている。
 それだけなら識子が暴れてこうなったのだと考えるが、二人の間には異質なモノが這い回っていた。
 無数の足を動かして、長い胴をくねらせて、識子を取り囲むようにうごめく。
「こ、来ないで!」
 識子は包丁を振り回して、迫り来る大量の蟲――ムカデを威嚇した。
 しかし、ムカデの方に逃げる気配はなく、むしろじりじりと距離を縮めていた。
 ガチガチと顎を鳴らす。
「なかなか、興味深い状況だが」
「あ、あなた!」
 やっと気づいたのか、識子は声を張り上げた。
「これ、どうにかしなさいよ! できるんでしょ!?」
「どうにか、とはまた曖昧な注文だな」
 木曜は部屋には入らずに、正体を見極めるように虫を見下ろした。
 ムカデ。
 百足という字の通り、無数の足を持っている。
 しかし、厄介なのは足ではなく硬い顎。
 咬まれれば即死ではないが腫れ上がるほどの毒を持つ。
 いや、これが普通の虫でなければ即死もあり得るかもしれない。
「木曜さん」
「おそらくそうだろうね」
 質問のしの字も聞かなくてもわかりきっているといった風に、木曜ははっきりと頷いた。
 虫、蟲の毒、逃げ出した毒。
 ムカデは危険を察知したのか、動きを止めて木曜の方へ頭を向けた。
 顎の鎌を広げて威嚇の体勢を取る。
 木曜は息だけで短く笑った。
「なるほど、蛇には無理な話だ」
 器用に片手でマッチに火をつけ、それを蟲の方へ放り投げる。
「なっ――」
 他の三人が驚きに息を止める。
 火が畳の上に落ちる。
 そう思った瞬間、小さな橙の火は蟲だけを焼いて、その灰ごと消え去った。
 生き物の焼ける、嫌な臭い。
 木曜はもう一度マッチをつけて煙草に火を移した。
 ゆっくりと一息ついて、識子を見据える。
「さて、どうにかしてみたが、希望には添えたかな」
「え、えぇ……」
 まったく焼けた跡もない畳の上に、識子は力が抜けたように座り込んだ。
 木曜はそのままくわえ煙草で室内を検分し始めた。
 おそらくここは識子の自室だろう。
 仕事のものらしい書類の置かれた机の棚には堅そうな本と派手な色の小物。
「木曜さん」
「何かな」
「さっきの、蛇には無理というのは、どういうことですか?」
「ん、あぁ。百足は蛇の天敵なのさ」
 くわえ煙草で識子の前にしゃがみ、蟲の消えた跡を指でなぞる。
 跡といっても、そこには何もない。
「百足には毒を吐いて蛇の脳を食べてしまう伝説があってね」
 最初から何もなかったかのように、綺麗に痕跡がなくなっていた。
 足跡も、灰も、気配も――
「人間の力を借りなければ、蛇はどうしても百足には勝てないのさ」
 その言葉は、まるで識子に対して言っているように聞こえた。
 蛇神の社を守る家と、家の中に潜む蟲。
 どちらかが片方を喰らうというのなら、それは――
「何か、持っているな」
 木曜は顔を上げると、識子をきつく睨みつけた。
 正確には識子の懐を視ようとしたのだが、相手を怯ませるには充分な視線だった。
 気配、似ている、近い、存在。
「紙と墨の匂い」
「な、何の話よ!」
 どうやら当たりらしい。
 識子は慌てたように、上着のポケットを庇うような仕草を見せた。
「隠し事をしても得にはならないのだが」
「べ、別に何も隠してなんか」
「……後でもう一度聞こう」
 煙と共にため息を吐き出し、木曜は立ち上がって今度は織子の元へ向かった。

 固く目を閉じたまま動かない着物姿の少女。
 妖艶な。
「彼女が、末娘の織子か」
「はい」
 そばに膝をついて、じっと上から下まで見つめる。
「あの、妹は、織子はどうなってしまったんですか!?」
「例の壺が割れてから、彼女の様子がおかしくなったのだったかな」
「やっぱり何か関係が!?」
「薊君」
「は、はい」
「少し、離れていたまえ」
 有無を言わさぬ声音に、薊は後ずさりするように少しだけ離れた。
 木曜は織子の首筋に触れて脈を診た。
 手の甲で体温を測り、それから
「失礼」
 短く断りを入れて、強引に着物の襟を肩まで下ろした。
「な、何を――!?」
 止めようとした職の動きが止まる。
 露わにされた青白い肌の上を這う、蛇のような刺青。
 しかし、薊のものと違い、今にも消えそうなほど薄くかすれていた。
「なるほどな」
 散らばった書類の下から灰皿を拾い上げて、すっかり短くなってしまった煙草をもみ消す。
「この娘、血の繋がった妹ではないね」
「なっ何言ってるんですか!」
「……そうね、私もそう思うわ」
「姉さん!?」
 その返答には、薊も驚いた。
 織子は姉の識子とよく似ている。血が繋がっていないとは思えない。
 しかし木曜は確信しているようだ。
「思う、とは漠然とした答えだが」
「……織子は、父さんがある日突然、腹違いの妹だって言って連れてきた子なの」
 識子は言葉を失っている職を見遣り、小さく笑った。
「職は小さかったから覚えてないでしょうけど」
 いまだ震えのおさまらない肩を抱いて。
 恐ろしい体験を話すように、識子は言葉を続けた。
「気味の悪い子だったわ、すごく。何をするでもないけど、ただ、気味が悪かった」
「だ、だから、いつも織子をさけてたの?」
「そうよ。それに、その子、たまに、鏡みたいに、冷たい目をするのが、怖かった」
「鏡のような目とは、興味深い」
 それはカガチの瞳。
 薊が驚きに短く息を吸ったのに対し、木曜はわずかに笑って頷いてみせた。
 織子は蛇神が遣わした者ということか。
 何のために。
 それを亡くなった先代は知っていたのか。
「では、家宝という壺が割れたときの状況も教えていただけるかな」
「壺? ……あぁ、あれのこと」
 灰皿が木曜の手元にあるので、識子は窓の外に灰を落とした。
「あのときは、壺を売るか売らないかで幟と口論になって、もういっそのこと割ってしまえと、思ったのよ」
「それは、あの壺も気味が悪いと思ったから?」
「……そう、ね。えぇ、そう」
 たった今、合点がいったかのように。
「あの壺も、いつの間にか家宝としてあって、なんだか不気味で、いつも触りたくないと思ってた」
「貴女は見えずとも感じる性質らしいな」
「感じる?」
「いわゆる霊感というものだよ」
 おそらくは自身に対して危険なものしか感知できないようだが。
 蛇も蟲も、識子は害あるモノと判断した。
「それで? 割ったとき、あるいは割った後に何か起こったのかな」
「……壺が異様に重かったことを覚えてる。割ったときに、中に何もなかったのが不思議なくらい」
「何もなかった、か」
「それから、織子が大声で泣き出して。あの子はあんなふうに、声を出して泣く子じゃないから、私も幟もすぐ我に返って……」
「その直後から彼女の様子がおかしくなったと聞いたが」
「おかしいのは前からだけど、そうね、前にも増して、怖くなった」
 倒れたまま動かない妹。
 今は見えない瞳が、常にこちらを見ているような感覚。
 ぞくりと背筋を走った寒気に、識子は身を震わせた。
「子供が遊びで虫を殺すときの、そんな無邪気な目で、こっちを見てくるの」
 あのときも――
「繋がったな」
 静かになったタイミングもあって、木曜の声はよく通った。
「すべての原因は蟲の方だ」
 膝を擦って織子の方を向き、感情のない目で見下ろす。
「そして蟲は彼女の中だ」
「――え?」
 声を出したのは職だった。
 いまだ動かない織子の手を握り、瞳を震わせる。
「それは、どういう……?」
「そのままの意味だ。蟲は彼女を喰らい、住処とした」
「くらうって、」
「蛇神の娘なら、さぞ美味であったろうな」
「ま、待ってください!」
 懇願するように、職は空いている方の手で木曜の腕を取った。
「妹は、一体、織子はどういう状態なんですか」
「……蟲に憑依されるだけなら良かったのだがな」
 すっかり薄くなった刺青が表すのは、最も言いにくい事実。
 しかし木曜にとって、言葉を濁す理由もなく、さらりと言い放った。
「生ける屍というのが一番近い表現だろうな」
「な、え? し、しかばね?」
 意味がわからない。
 識子に目を遣るが、逃げるように逸らされてしまう。
 困惑も露わに、職は薊に視線を向けた。
 薊も困ったように木曜に視線をやり、それから口を開いた。
「その、壺という住処を失った蟲が、彼女に寄生していて、」
「寄生するために脳を喰らい、住みやすいよう体を奪ったのさ」
「くらう? うばう?」
「それはもう妹ではないということだ」
 するりと、職の手の中から細い指先が落ちる。
 畳を叩く音はない。
 ぴり、と皮膚に電気が走るような気配。
 背に庇うように広げられた木曜の腕越しに、薊は闇のような瞳を見た。
 渦巻く、暗闇。
 ぬらりと、深く、うごめく――
「薊君!」
 声に反応して、慌ててポケットの中のマッチを取り出す。
 何本か取り落としつつも火をつけようとして、鋭い痛みを感じる。
 壺の欠片に触れた際にできた裂傷。
 その一瞬の隙に、闇が百足の形に姿を変えた。
 血が落ちるより早く、堅い顎が食い込む。
「――っ」


 もっと生きたい。
 まだまだ死にたくない。
 もっともっともっと欲しい。
 まだまだまだまだまだ消えたくない。
 もっともっとまだもっともっとまだまだ――


「薊君!!」
 頬を張られ、いつの間にか座り込んでいたのだと知る。
「しっかりするんだ」
「あ、あぁ……」
 半身が、腕が、手首が熱い。
 皮膚の下を何かが這って移動しているような。
 指先から侵食する痛みと、腕全体に巻きつく熱。
 シャツの袖を捲り上げると、二種類の刺青がくっきりと浮かび上がっていた。
 鱗模様の太い筋と幾つもの足の生えた細い筋が、互いに咬み付くように手首で交差する。
「蛇と、蟲」
 知識でなく直感する。
 守るモノと喰らうモノ。
 ふたつが今、腕の中で拮抗しているのだと。
「油断した。ここまで俊敏に動けるとは」
 木曜の声が遠い。
 すぐ隣にいるはずなのに。
 右目にだけ赤いフィルターがかかったように視界がぼやけている。
「すぐに祓おう」
「い、いえ……」
 マッチを拾い上げた手を、薊は痺れる左手で制した。
 喰らおうとする意思に混ざって、何かが伝わってくる。
 生きたい死にたくない。
 強い叫びの中にある、小さな、かすかな声。
 内側にいるからこそ、やっと聞こえるか細い願い。
 ――モウナニモイラナイ。
 薊は痛みに握り締めていた右手を、ゆっくりと開いた。
「この子、怯えてる、だけ、です」
「何だって?」
「壺が割れて、居場所を失って、でも解放されなくて、何をすればいいのか、わからなくて、」
 助けを求めて。
「本当の姿も、目的も、全部、見失って、」
 指先から赤黒い血があふれる。
 痛みが抜けてゆく。
「この子は、ただ、存在したいだけ、なんです」
 百足模様の刺青が薄まり、あふれた血が蝶の姿に変わった。
 弱々しく、翅を震わせる。
 識子を襲った百足とは違い、どこにも攻撃性が見当たらない。
 蛹から羽化してすぐの、少しでも触れれば翅が折れてしまうほどの弱さ。
「……まさか、自ら穢れを抜くとはな」
 木曜の呆れた声。
 もう痛みはどこにもない。
 ただ巻きつくような熱が残るのみ。
「しかし、蝶の蟲毒とは初めて見た」
「珍しいんですか?」
「蛾ならまだしも、毒のない虫が蟲毒になり得ると思うかね」
「そう言われれば……そうですね」
 ひとつの器に入れた虫が互いを喰らい合って作られる毒に、毒を持たない虫が混入されるはずがなく、入れられたとしてもその虫が生き残る可能性はないに等しい。
「なかなかに興味深いが」
 木曜は立ち上がって腰を伸ばした。
 それから、識子に向かって先送りにしていた質問をもう一度投げかけた。
「先に、その隠している物を見せていただこうか」
「べ、別に何も」
「今は落ち着いているが、この蟲が再び貴女を襲わないとも限らないが?」
「――っ」
 識子は短く飲み込んだ息を、ゆっくりと吐き出すと、諦めたように上着の中に手を入れた。
 現れたのは、小さく折り畳まれた紙。
 油紙だろうか、少し黄ばんで見える。
 紙を受け取ると、木曜はそれを広げた。
 一面に描かれたいくつもの同心円と、直線と曲線の交差する模様。
 まるで呪符のような。
「なるほどな」
 さして興味もなさげに、木曜が鼻で笑った。
「蟲が貴女を襲うわけだ」
「ど、どういうこと?」
「これは蟲毒を使役するための札紙。この符がある限り、蟲は自由になることができない。故に、蟲は貴女を狙ったのだろう」
 それと、と紙を裏返す。
 本来なら白紙であるはずの部分には、別の文章が綴られていた。
 おそらく識子は呪符の面でなく、こちらを隠すために保有していたのだろう。
 楷書体で書かれた文章の内容は――
「遺言状、か」
 そこには全財産を次女織子に譲る旨が書かれていた。
 どこから拾ってきたのかもわからない妹に、すべてを譲り渡すと。
「認めたくないが故に、隠していたのかな」
「……そうよ。そんな物さえなければ、普通に、兄弟で分けてしまえるもの」
 法律に従い、納得できる形で、四等分される。
 遺言状など最初からなかったことにすればいい。
「そう思って、でも、焼いてしまおうにも、何しても消えないし」
「まぁ、そうだろうな」
 呪符である限り、ただ紙に火をつけただけで燃えることはない。
「一応の手順を踏まなければ」
 木曜は紙を床に置くと、ざっと部屋を見回した。
「あぁ、そこの、水をいただけるかな」
「……これ?」
「そうだ」
 識子は怪訝な顔をしながらも、透明なペットボトルを投げて寄越した。
 落とすことなく手中に納め、木曜は中の水を紙の上にぶちまけた。
「なっ」
 驚く識子をよそに、言葉を紡ぐ。
 呪文でも文言でもない、ただの言葉。
「蟲、薊君に危害を加えるつもりがないのなら、お前の好きなように書き換えるがいい」
 ひらり、薊の手にとまる蝶が舞う。
 風に流されるように頼りなく、濡れた紙の上に降りる。
 途端、墨が水溜りに滲み出し、ゆっくりと動き始めた。
「これは、何を、しているんですか?」
「あぁ、呪符の書き換えだよ」
「書き換え?」
「焼いても破いても蟲は死んでしまうからね。それは薊君が望むものではないのだろう?」
「そう、ですけど……」
 水に滲むのは、墨であるから理解できる。
 しかし、なぜ形を変えることができるのか。
 薊にはそれが疑問だった。
「紙と墨は私の眷属のようなものだからね」
「眷属ですか」
「一番使役しやすい物質なのさ」
 しばらくして、蝶が再び薊の指先に戻ってきた。
 木曜が紙を拾い上げると、透明な水だけが下へと流れていった。
「ふふ、おもしろい」
「どう書き換わったんですか?」
「蟲すら虜にするとは、薊君も罪な男だな」
「……は?」
「ここには、主を薊君とし、己を薊君の眷属とする、とある」
「ど、どういう、ことですか」
「この蟲、自ら薊君の下僕になったということさ」
「げ、下僕!?」
 木曜と紙と交互に見、最後に蝶に視線を落とすと、はたはたと翅を動かした。
 まるで是と言うかのように。
「……また?」
 がっくりと落ちた薊の肩を、木曜は笑いながら叩いた。
「私に譲ってくれてもいいが、気に入ったなら名前をつけてやるといい」
「名前ですか……」
「どうやら名無し故に、百足やら蝶やらと姿が安定していなかったらしい」
 名は体を現す、ということか。
 黒の中に赤の透ける翅を見つめながら、名前を考える。
「さて、これが呪符である限り、こちらで預かりたいのが正直なところだが」
 再び裏返して、文章を確かめる。
 遺言状の内容はどこも変わらず、そこにある。
 放置しておいてもいいのだが――
「――です、か……何なんですか!?」
 それまでずっと黙っていた職が声を張り上げた。
「遺言とかどうでもいいんです! 織子を、助けてはくれないんですか!?」
「つ、職、だから、その子はもう……」
「生きてるよ! まだ、息もしてるし、心臓も、動いてる!」
「……そのようだな」
 しかし、木曜には生気が感じられなかった。
 蛇であるために襲われたが、蛇であるおかげでまだ生き長らえているか。
「薊君」
「は、はい」
「まだ刺青は消えていないね?」
「……はい」
 すでに熱は消えているが、相変わらず色濃く残っている。
「ひとつ推測できることがある」
 蛇の刺青は、蛇神が守るために刻みつけたものだった。
 しかし、織子も薊も蟲毒に襲われてしまった。
 敵が百足のカタチであることに気づかないほど、愚かな神でもないだろうに。
 ならば考えられる答えはひとつ。
「それを確かめるためにも、直接伺ってみようか」
「う、うかがうって、どこに」
「もちろん――」
 その場にいる全員を見下ろして、木曜は不敵に微笑んだ。
「蛇神の神社だよ」