08-5 | かがちに咲く蝶の花





『 かがちに咲く蝶の花 −早乙女木曜の怪奇蒐集事件簿− 』






5.


 長い階段の途中、低い鳥居をくぐった所で、木曜が苛立たしげに文句をもらした。
「私でも背負ってもらえなかったというのに、なぜそのような小娘が……」
「仕方ないですよ、僕ぐらいしかいないんですから」
 そう言った薊の背には、織子が背負われていた。
 体躯や体力を考えた結果だが、どうにも木曜には不服らしい。
 鳥居に頭をぶつけないように注意を払いながら、ゆっくりとくぐる。
「……この虫、本当にもう、大丈夫なんでしょうね」
 薊の周りを舞う黒い蝶を指して、識子は問うた。
 契約書が木曜の手にある以上、何もしてこないと思うが、それでも不安はあるのだろう。
 いつ百足へと変化するかもわからない。
「あれはもう無害といってもいい」
 木曜は喉の奥で短く笑った。
「薊君の血に触れた以上、他への興味はすべて失っているさ」
「……そこが不思議なんだけど、その子の、どこがすごいの?」
「どこが? ふふ、薊君は、ふふ、言ってもヒトにはわからないだろうさ」
 手を伸ばして指先で薊の髪をすくって、落とす。
 まるで恋を物語るような調子で。
 木曜は目を細めて、告げた。
「ヒトならざるモノにとって、感情を揺さぶる、甘い、存在なのだよ」
「……何よ、それ」
「ほら、わからないだろう?」
 残念そうに息を吐きながら、木曜は階段の終わりへと視線を向けた。
 真夜中だというのに、ほのかに明るい。
 電気でも引いているのだろうか。
 いや、昼間に来たときは、そのような設備はどこにも見受けられなかった。
 ならば、発光する何かがいるのか。
 その答えは、階段を昇り終わると共に視覚で認識できた。
「……貴様が蛇神か」
 真っ白な着物をまとい、真っ白な髪に真っ白な肌をした女性。
 白目のない真っ赤な瞳に、同じく真っ赤な唇。
 鮮明なコントラストは、彼女が人間ではないことをはっきりと告げていた。
「お待ちして居りました」
 鈴のような声を響かせ、彼女は深々と頭を下げた。
 さらさらと長い髪が肩から滑り落ちる。
 ただそれだけなのに、肌が凍りつくような寒気が感じられた。
 神と呼ばれる存在。
 本能が感じているのは畏怖か。
 薊たちが黙って息を呑む中で、木曜は泰然と腕を組んで言い放った。
「待つのは当然だろう。貴様が動こうとしなかったのだからな」
「……申し訳御座いません」
「殊勝な態度は買うが、腹の虫はまだ治まらない」
「承知して居ります」
 彼女の左右に控えていた子どもが音もなく動いたかと思うと、次の瞬間には薊の横に来ていた。
 驚いて後退りする前に、重さを感じさせない所作で織子を担ぎ上げる。
 そして、またたきの間には蛇神のもとに戻っていた。
「な、何なんですか?」
「神の眷属、神使というものだよ」
「シンシ?」
「神の意思をヒトに伝えるモノ。そういう意味では妹君も神使ではあったのかな」
 蛇神は横たわったまま動かない織子にゆっくりと触れた。
 鼓動を確かめるように頬から胸へと手を滑らせる。
「……この子は己の役目を果たしました」
「その役目が何なのか詳しく聞かせ――」
「役目って、何だよ!」
 木曜の言葉を遮って、職が大声で問うた。
 蛇神は真っ赤な瞳を軽く見開き、それから恭しく膝をついた。
「当主様にお答え致します。この子は妾が子、当主様を守る子にて御座います」
「守る? 当主? 一体、何の話だよ」
「前当主様が亡くなられた今、妾が主は貴方様に御座います故」
「ま、待って、何? どういう――」
「この蛇神は弟君を跡取りと考えているのさ」
 今度は木曜が職の言葉を遮った。
 口元に笑みを浮かべ、蛇神を見下ろす。
「そうだとするとすべてに合点がいく」
 先代が死ぬ間際に浮かんだという刺青。
 蛇に祟り殺されたかのような幟氏にはなかったもの。
 職を守るために存在する織子の刺青。
 そして薊にも刻まれた痕。
 共通するもの。
 共通する目的は。
「貴様、幟氏を見殺したな」
 一族が蟲に喰われるかもしれないと知り、守るべきものを選別した。
 いらないモノを犠牲に。
 必要なモノを守るために。
「自我をなくした蟲に、あのような器用な殺し方ができるとも思えん」
 縄で雁字搦めに。
 徐々に弱らせる方法。
 それは蛇の習性ではないか。
「彼の命を差し出して、蟲を鎮める気だったのかな?」
 木曜が笑う。
 対する蛇神の表情に変化はない。
「そして、貴様がつけた刺青」
 ふつ、と笑い声が闇に消える。
 短い静寂。
 薊は肌が粟立つのを感じた。
「貴様、」
 冷たさの中に激しい感情を隠した声音。
 木曜は抑揚のない調子で、告げた。
「薊君を囮にしたな」
 蛇神は何も言わない。
 いや、言えないのか。
 木曜の気に圧されている。
「百足が蛇を喰らうことを知っていて、わざと他者の中に己の魂の欠片を残し、蟲の目から一番大事なモノを隠そうとした。あぁ、素晴らしい作戦だと思うね」
 声は笑っているが、眉根がきつく寄せられ、眼光も鋭い。
「薊君を囮にすれば、貴様の思惑通り、蟲はより美味な方を喰らおうとするだろう。事実、蟲は薊君に喰いついたさ」
 蛇の刺青の浮き出た者は三人。
 もう寿命のない男。
 当主を守らせるための娘。
 そして偶然にも現れた特殊なモノ。
 生への執着を極端に促す存在。
 彼らの共通点は、感情的にして一方的な理由。
 それは、どれも蛇神にとって「いらない」モノだったこと。
「私たちが来なければ識子氏も犠牲にするつもりだったのだろう?」
「わ、わたしも?」
 名前を出されたせいでつい声を上げてしまったのだろう、識子は慌てて口に手を当てた。
 木曜は視界の端に識子を見遣り、小さく頷いた。
「貴方は妹君を気持ち悪いと感じていたな。それは貴方の本能が、妹君を通して蛇神の殺意を感じ取っていたからだろう」
「殺意……」
「そう、この蛇は誰が死のうと構わなかったのさ」
 すべてを消して。
 消去法から浮き上がるのは。
 唯一必要なモノ。
「貴様が当主に選んだ弟君――職氏を守るために」
 その、蛇神にとって必要なモノに、木曜は視線を向けた。
 信じられないと訴える顔で、木曜と蛇神を見つめる少年。
 彼と視線を交わして、言葉を吐き出す。
「妹君が死んだのは君のためだ。君を守るために、父も兄も殺された」
「何を仰るつもりで御座いましょう」
「真実さ。神は所詮、仏ではない。理不尽な切捨てすら厭わない存在だ。この蛇は一族を守るために、その当主だけを守ろうとする。それも己の気に召した者だけを」
「お止め下さい」
「助けようと思えば助けられただろうさ。けれど、見殺した。今回、あの姉君は助かったがいざとなれば殺される。君以外の全てを殺すのは、この蛇さ」
「お止め下さい!」
 ざわりと真っ白な髪が逆立ち、蛇神の周りで青白い閃光が散り始めた。
 しかし、木曜の言葉は止まらない。
 爆ぜる光に照らされ、口許を歪ませる。
「君は、愛する妹を利用し見殺した蛇を、許せるのかな?」
「――っ」
 蛇神の赤い目が悲しみに歪む。
 その視線の先には、職の、憎悪に満ちた瞳。
 冷静に考えれば、怒りの矛先を蛇神に向けるのは間違いだと気づくだろう。
 現に薊は気づいている。
 事の発端は、先代が蟲毒を家に持ち込んだこと。
 ならば、恨むべきは蟲毒を先代に与えた誰かではないか。
 あるいは封じた壺を割り、蟲を解放した者。
 しかしこれは、第三者であるからこそ気づけることなのかもしれない。
 職にとってすべての原因は蛇神ということが事実。
「……たかが、数百年生きただけの小娘が」
 チチチ、と短く舌を震わせる音。
「妾に敵うと思うてか!」
 爆ぜる。
「木曜さん!」
 それより俊敏に、細い何かが投げられていた。
 どこから出したのか。
 木曜が投げたボールペンは、真っ直ぐに蛇神の眼に突き刺さった。
「ひ、あ、ぁ、う、あっ」
 真っ白な着物を地面に広げ、蛇神はその場に膝をついた。
 赤い赤い血が涙のように地面に水溜りを作る。
「はっ、農民に祀り上げられただけの神が、私に敵うと思ったのか?」
「な、何故、くっ」
「色恋に現を抜かしていた貴様とは経験と知識の量が違うのだよ」
 蛇神の脇に控えていた神使たちが消えた。
 一人は動きを封じるため、一人は命を奪うために。
 しかし、やはり木曜の方が俊敏であった。
 木曜は新たに取り出したボールペンで宙に文字を書き連ねた。
 それに呼応するように、蛇神を貫くボールペンが震える。
「いぃ、やめ、いぁああっ」
 主の悲鳴に神使たちが一瞬動きを止めた隙。
 木曜は小さな紙を二枚取り出し、神使に向かって投げた。
 表に書かれた模様から呪符と判断する。
 その間に、血に濡れたボールペンから、どろりと真っ黒なインクがあふれ出た。
 しかしインクは地面に落ちることなく、氷柱のように垂れ下がったまま動きを止めた。
 神使たちも、同様に動きを止めている。
「薊君を傷つけた代償としては安いが」
 木曜の笑みが濃くなる。
「その瞳、頂こうか」
「ひぃっ」
 ボールペンを持つ手を軽く返すと、インクは帳のように広がり、もう片方の目に覆い被さった。
「―――――!!!」
 音としても認識できない悲鳴。
 赤い血。
 着物の裾はいつの間にか、白い蛇体へと変じていた。
 深く地面をえぐり、社を破壊し、のたうち回る。
 やがて黒い塊が木曜の手の中に戻る頃には、蛇神は伏して動かなくなっていた。
「ふむ」
 木曜は小さな赤い鏡を掲げて検分した。
 滑らかな表面は歪みなく木曜を映し出す。
「白蛇の瞳となれば、それなりの力もあるだろう」
「ちから……?」
 蛇神の弱るさまを見つめながら、職が掠れた声で問うてきた。
「その力があれば、織子は」
「……そうだな」
「全部、元に戻せるんですね!?」
「いや、こんな鏡ではなく、蛇を使えばいい」
「え?」
 鏡を薊に預け、木曜はゆっくりとした足取りで蛇神に近寄った。
 美しい人間の姿の面影もなく、神であった蛇はただの小さな白蛇へと変じていた。
 それを摘むように持ち上げる。
「なぁ蛇、このまま死ぬのと、駒であった娘に喰われるのと、どちらがいい?」
 蛇は弱々しくも鎌首をもたげ、何か告げたようであった。
 木曜が鼻で笑う。
「今更なプライドだな。では、いいことを教えてやろう――」
 音には乗らない言葉で何事かを囁く。
 それに、蛇はやはり弱々しくも反応したようだった。
 キィと小さく鳴き、それきり動かなくなってしまう。
「……ふん、哀れなものだな」
 木曜は織子に歩み寄ると、その口に蛇の頭を近づけた。
「溶けろ、喰らえ、啜れ、飲み干せ、血肉を、生命を、魂を」
 手を離す。
 蛇の体はするりと織子の口の中へと入っていった。
 まるで液体か、空気を飲むかのように自然に。
 喉が大きく動き、胸が、腹が、順に波打つ。
 やがて、じわりと変化が現れた。
 波打つ黒髪や肌が色を失い、代わりに唇や爪先が赤色を濃くし始めた。
 ヒトの形を真似ていた白蛇に似た姿。
 その変化も落ち着くと、織子の呼吸も整ったものになっていた。
 職が足を引きずるように近寄り、手を握って体温を確かめる。
 冷たいが、熱がないわけではない。
 小さく、少し速く、脈打っているのもわかる。
「……助かった、んですか?」
「まぁ、一応はな」
「よかった……!」
 安堵に涙をこぼす職を見つめる木曜の視線は、どこか冷たく感じられた。
 ふと、薊は自身の身体を確かめてみた。
 ――消えている。
 腕を締め上げていた刺青が、最初からなかったかのように消えていた。
「さて、あとはこいつだな」
 木曜は折り畳まれた紙を取り出した。
 呪符であり遺言状でもある紙。
「薊君、鏡を」
「は、はい」
「それと、そこの手水場から水を少し」
「はい」
 地面に紙を広げ、その上に鏡を載せる。
 何事かを察したのか、蝶がその上に降りてきた。
「ふん、なかなか賢しいようだな」
「木曜さん、水です」
「あぁ」
 柄杓ごと受け取り、両手で水平に構える。
「今から蟲の依代を鏡に移す」
「よりしろ?」
「それに、腹が減ったと薊君をかじられては敵わないからね、餌と一緒にしておいたほうがいいだろう」
「エサですか……」
 さっきまで蛇の瞳だった鏡。
 その上には、蛇を喰らおうとした蟲。
「蟲、今後一切薊君に傷ひとつ付けることなく、従え」
 水が舞い、それを吸い込んで墨が動く。
 蛇のように、蟲のように。
 紙の上を這い回り、鏡の中へと入り込む。
 最後に蟲も鏡面へと溶け込んでしまった。
「き、消え?」
「大丈夫だよ。薊君が呼べば出てくる」
「そういうものなんですか?」
「そういうものなんだよ」
 くく、と喉の奥で笑って、鏡と紙を拾い上げる。
 やはり墨はなく、水だけが地面に落ちていった。
 あとには、白い表面しか残らない。
 呪符の文字は鏡に吸い込まれ、そして消えてしまったのだ。
 木曜は何も書かれていない紙を裏返して識子に渡した。
 呪符の効果を完全に失い、遺言状としての役目しか持たない紙。
「破るなり焼くなり自由にすればいい」
「……ありがとう」
「礼には及ばないさ」
「……あの子、大丈夫なの?」
 誰のことか問わずとも、識子の視線を追えば簡単に知れた。
 弟の腕の中で眠る、色素を失ってしまった妹。
 いや、妹と思っていた人外のモノか。
「元は同じモノだ。蛇の魂が定着すれば、じきに目覚め――」
「そうじゃなくて」
 識子はわずかに視線を揺らしながら、問い直した。
「あの蛇と同じように、私たちをまた殺そうと、しないでしょうね?」
「あぁ、なるほど」
 瞳を奪い、力を失わせたからといって、蛇であることに変わりない。
 職のために他の者を犠牲にしようとしたモノ。
 再び、同じ事をしでかさないかと。
 識子はそれを心配しているのだ。
「もはや呪い殺すほどの力はないが、ふむ、ヒトがヒトを殺すことは容易だしな」
 両の手さえあればヒトをくびり殺せる。
 そこに祟りや呪いは関係ない。
 行動も含め、すべてを抑えるためにはどうすればいいのか。
 簡単なことだ。
「心配なら、真名を握ればいい」
「マナ? 何、それ」
「誰もが持つ真実の名前だよ。身も魂も縛るには、いい呪詛だ」
「……でも、そんなの知らないわ」
「知っているはずさ。思い出す、いや、気づくだけでいい」
「そんな……」
「わからないようであれば、追加料金で教えてあげよう」
 そう言って笑い、木曜は識子の横を通り過ぎた。
 階段へと歩を進めながら、空を仰ぐ。
 どれほど時間が経ったかは認識できないが、東の空が徐々に白み始めていた。
 もうすぐに朝が来る。
 頼りない光が、清潔な空気を伴って世界に広がる。
 その直前。
 ふと、木曜は薊の視線に気がついた。
「どうした?」
「いえ、」
 微笑んだまま首を傾げる、妖艶にも映る表情。
 薊はつい一日前に交わした会話を思い出していた。
 夜明けを意味する言葉。
 朝と夜との境。
 薄闇に光が差し始める夜明け。
 ちょうど今のように、ヒトの姿をうっすらと浮かび上がらせる程度の光の量。
 それは――かはたれどき。
 目の前にいるのは、朝日を待ち侘びるヒトか、朝日に逃げるモノノケか。
 彼は誰か。
 正体が掴めないのは、果たして薄闇のせいだけだろうか。
「薊君?」
 自然と俯いていた視界に、木曜が腰を屈めて入り込む。
「どうかしたのかな?」
「い、いえ、その、何でもないです」
「そうかな?」
 背を伸ばし、落ちかかる黒髪を耳にかける。
「知ろうとすることは、悪いことではないよ?」
 けれど、と続ける。
「まだ、早い」
 軽く薊の肩を叩き、木曜はきびすを返した。
 背を向けられたせいで表情がわからない。
 浮かび上がる影はヒトの形をしているようで、どこか違うモノのようにも見える。
 うねる髪が、翼のよう。
 どうしても動けずにいると、木曜が振り返って手招きした。
「ほら、早く戻って寝ようじゃないか」
「そうですね」
「さぁ、共に愛を育もう」
「そっちですか!?」
「朝の早くから如何わしい行為に勤しむとは、なんとも堕落的で興味深い営みじゃないか」
「そんなのに興味持たないでください!」
「薊君は興味がないのかね?」
「ありません!」
「それは男として問題ある発言だな。よし、私が身をもって女体の良さを教えて」
「いりませんから!!」
 忘れた頃に訪れる貞操の危機に、薊は悲鳴に近い声を上げた。