Last.
結局、織子の目覚めを確認してから発つことになった。
約一週間ぶりの車内。
木曜は相変わらずの安全運転で、薊も特に何するでもなく窓の外を見遣っていた。
ラジオや音楽は、たまにいらない音を拾うので付けられていない。
薊はポケットから赤い鏡を取り出してみた。
滑らかな鏡面は、薊の顔を歪みなく映している。
白い蛇の瞳。
「……織子さん、そのままでしたね」
髪や肌が白くなってしまったが、目覚めた織子は最初と同じ織子であった。
性格も口調も何一つ変化していなかった。
職はそれがとても嬉しそうだった。
けれど、識子は不気味だと感じているようだった。
「蛇の敬愛する当主がそうあれと望んだからな」
「本当に、妹思いのお兄さんでしたね」
「なるほど。薊君にはそう映ったのか」
「違うんですか?」
「シスコンには違いないだろうが、あれは少し」
合図する相手もいないウィンカーを出して、登山車線から本線へと戻る。
「魔性に魅入られたのだろうな」
ヒトでないモノはヒトでないがゆえに、ヒトにはない美しさを持っている。
それは、どうしても惹かれてしまうものらしい。
「まぁ、それも蛇の望むところだろうさ」
「そういえば、最後、あの蛇の神様に何を言っていたんですか?」
そっと口許を寄せて、何を囁きかけたのか。
蛇神を納得させたのは、何という甘言だったのか。
木曜は少し考えて、あぁ、と呟いた。
「簡単なことだよ」
くつくつと喉の奥で笑いながら。
「もっと、愛されたいのだろう、と言っただけさ」
どんなに愛しても、守っても、愛されることがない。
娘を作って与えてやっても、娘が愛されても、自分は愛されることがない。
愛してほしい。
愛してくれないなら、蟲にでも喰われてしまえ。
その渇望を埋める、小さな誘惑。
「織子に喰われれば、織子になれば、職に愛してもらえる」
望んだカタチとは違っていても。
「求めていた愛を得られるなら、どうなってもいいのだろうさ」
小さく、哀れだな、と呟く声が聞こえる。
そっと木曜の表情をうかがうが、そこには何も浮かんではいなかった。
瞬きとため息ひとつ。
木曜は正面を向いたまま、片手で薊の手元を指差した。
「それの名前は、決まったかな?」
「あ、はい」
鏡面に光を当てると、うっすらと模様が見える。
「気に入ってくれるかは、わからないんですけど」
「気に入れば出てくるさ」
「それだと、かなり緊張しますね」
小さく唾を飲み込み、薊は丁寧に、考えた名前を口にした。
「……瑜弦(ゆづる)」
途端、ふわりと鏡面から蝶が生まれた。
車内を飛び回り、やがて薊の指先に落ち着く。
「気に入ってくれた、かな」
ひらりと翅を揺らめかせる。
「なかなか、良い名前じゃないか」
「そ、そうですか?」
「あぁ。ほら、蟲も喜んでいる」
見た目でわかるものなのだろうか。
そう思ったけれど、薊は指先から感情の伝わるのがわかった。
嬉しい、嬉しいと。
この蝶の中に薊の血が混ざってしまったせいだろうか。
それとも、契約の繋がりを通じて伝わるのか。
どちらにせよ、気に入ってもらえたことに安堵し、薊は表情を緩ませた。
「これからよろしくね、瑜弦」
もう刃物のような冷たさはない。
日向のような暖かさが、指先には宿るだけ。
「あ、名前と言えば」
薊は蝶から木曜に視線を向けた。
「あの蛇神さまの名前、教えて差し上げたんですか?」
もう暴走させないための手綱として、真名の存在を木曜は教えていた。
真名とは真実の名前。
そのものの本質を示し、その存在を縛る名前。
「いや、もう少し自分で考えるだと」
知っているはずだと言われ、思い出せないのが嫌なのだろう。
識子はどうしてもわからなかった連絡すると言って、木曜たちを帰した。
「おそらくは気づくだろう。ヒントも言い残してきたしな」
目印はすでに刻まれていた。
その目印に気づけば、答えへと導くのは容易い。
「薊君は、気づいたのかな?」
「……予想でしかないんですけど」
目印は一番目に付く場所にあった。
識子、幟、職、織子。
彼らの共通するものは「目印」の意味と、「鬼灯」という苗字。
愛されたいと願った蛇は、愛するものと同じ名を持つことに憧れたのだろう。
夫婦は同じ苗字を共有する。
ゆえに、そこに己の名を入れた。
「ホオズキ、ですか?」
木曜の唇が三日月に歪む。
「正解だ。ホオズキノヒメ、それがあれの名だ」
いつか誰かに呼んでもらいたくて。
気づいてほしくて。
けれど、その名は愛するためでなく、支配下に置くために、呼ばれるのだろう。
「……少し、可哀相ですね」
「薊君は優しいな」
蝶からも同じ言葉が聞こえる。
「名前は、やっぱり、大事なものですから」
「薊君は自分の名前が、好きかな」
「はい。木曜さんが、そう呼んでくれますから」
「……薊君」
自分の名前は知っていたが、それを呼んだのは木曜が最初だった。
言葉も知識も木曜が与えてくれた。
そしてこれからも、生きるための知識を与えてくれる。
薊にとって、木曜は親や教師、あるいは恩人と呼べる存在であった。
なくてはならない存在。
「それはプロポーズと受け取っていいのかな」
「違います!」
たまに、貞操の危機に陥ることがあるとしても。
楽しそうに笑う木曜の声を聞きながら、窓の外へと視線を向ける。
木々の間から見える陽は、そろそろと西に傾いている。
次の仕事が何かはわからないが、緑にあふれた景色もしばらくは見られないかもしれない。
窓から入り込む涼しい空気を吸って、胸にためてみる。
土の匂い。水の匂い。緑の匂い。
それらすべてが気持ちよく浸透する。
「木曜さん」
「何かな」
「……まだ、一緒にいられますよね?」
静かな、風の音。
ふと、バラの香りと薄い煙が漂ってきた。
辿るように視線を向けると、漆を塗り重ねたような瞳が、笑っていた。
「まだまだ、一緒にいてもらわないと」
「そう、ですよね」
「あぁ。薊君が知らなければいけないことはまだまだたくさんあるのだから」
「たくさん、ですか」
「世界は広いのだよ。ヒトの手には負えないほどに」
蝶のいない鏡面にはただ薊の顔が映るのみ。
意識的に、笑ってみる。
笑顔は最初に覚えた表情。
色々な笑い方があると知ったのは、もっとずっと後の方だけれど、木曜が最初に見せてくれたのは、優しい笑い方だった。
同じように、笑えているといい。
同じようになれればいい。
鏡とにらめっこしていると、ふわり、頭を撫でられた。
最初に会ったときのように、幼子にするように優しく。
「よく見て、聞いて、感じて、知りなさい。興味を絶やさないように」
「……はい」
嬉しくて、笑う。
見つけてくれたのが木曜でよかった。
ここはとても、暖かい。
心地よい。
穏やかで、落ち着く、居場所。
薊はいつの間にか、瞼が落ちていたことに気づいたけれど、持ち上げることはできなかった。
羽音。
自分の寝息に、吸い込まれる感覚。
「おやおや、疲れてしまったのかな」
笑う気配。
「おやすみ、薊君」
甘い煙草の香り。
それを最後に、薊は意識を完全に手放した。
夢を見ていた。
冷たく、暗く、誰もいない、何も知らない世界。
あれは夢だったのだろうか。
暖かく、明るく、人と知識にあふれる世界。
これが夢なのだろうか。
目覚めれば知れる。
すぐに、わかる。
夢と現の境界が見せた、まぼろしだったのだと。
− 了 −