14 | crescendo/dolce






『 crescendo/dolce 』








 白い喉をそらせて。
 わずかに浮き上がる管に。
 白い牙を尖らせて。
 喰い込ませれば。

「…………ぁっ……」

 甘い声と、甘い味。
 閉じ込めて。
 貪って。






 窓という窓に薄い布を被せているせいで、昼間にも関わらず薄暗い屋敷の中。
 散歩も兼ねて主を探しながら歩き回る。
 主とは、魔物である己と契約を交わした人間のこと。

 ――と述べると、彼を「主」と呼ぶには少々の矛盾が発生する。

 この契約関係は結び方が特異なものであった。
 魔物は生き物の血肉でもって召喚され、契約主の魔力でもって縫い止められる。
 これは召喚されることで生じる飢餓を贄で満たし、さらに人間界に留まり続けることで生じる飢餓を魔力で補う、という意味だ。
 言い換えると、魔物というものは常に飢えた存在であり、契約とは食料の保障となる。
 そして、今回の契約主は――主の母親になるのだが――自身を生贄に己を召喚した。
 死期を目前としつつも純粋な魔力に満ちた魂は興味深いものだったが、それ以上に、痩せた細腕に抱かれた小さな赤子に、この目は一瞬にして奪われた。
 なんて、蒼い。
 怖じもせず見つめる丸い水晶は、見たこともない綺麗な蒼色だった。
 ――この子が一人前になるまで、どうか、あらゆる物事から守って頂戴。
 切実な願いに、後先など考えもせず二つ返事で契約を交わした。
 その時点で、思考はすでに美しい魔力の塊に奪われていた。
 この蒼い水晶を手に入れられるのであれば。
 これを己の物にできるのであれば。
 何も。
 何も。
 差し出された赤子をそっと受け取り。
 そして、彼女は安堵の表情と共に静かに息を引き取った。
 病はすでに彼女の全身を蝕んでいたのだろう。
 それでも己を召喚したのは、ひとり残す子を想う母の、決死の手段であったのだろう。
 本当に人というものは不思議な生き物だ。
 その強い意志に敬意を払う意味でも、魔力だけを喰らい、魂は天に還すことにした。
 そして亡骸は――



 記憶の中にヒントを得て、行き先を決定する。
 複雑な廊下を抜けて、四方を建物に囲まれた狭い中庭へ出ると、土と草花の匂いが鼻腔をくすぐった。
 窓に乱反射した光が落ちる箱庭の中央。
 立派な墓石を背にして本を読む青年。
 耳を隠す程度に伸びた蒼い髪は、風に揺れて絹糸のよう。
 細い首は幅の広いリボンに包まれ、俯く横顔はあどけない少女にも見える。
 まるで一枚の絵のようだ。
 扉の枠によりかかって、その光景を静かに眺める。
 片手に抱えるほどだった赤子が、ようやっと己と同じ背丈にまで成長してくれた。
 思えば人の子を育てるというのは初めての経験で、常に失敗と挽回の繰り返しだったが、うまくいかないなりにも楽しいものがあった。
 人の子の食事など一切わからず、料理本というものを買いに走ったり。
 雨の中遊び回らせた翌日に、高熱に倒れられて慌てふためいたり。
 初級魔法を教えた次の瞬間に屋根を吹き飛ばされたときは肝を冷やしたし。
 初めて寝小便を垂れたときは腹の底から爆笑した。
 まぁ、そのせいか、二度と同じことはなかったが。
 しかしほとんど手探りで育てたにしては、立派に成長してくれたと自賛する。
 ただ書物と己のみから知識を得て。
 箱庭の世界しか知らずに。
 このまま――
「ジョット?」
 気配を察したのだろう、ゆるりと蒼い瞳がこちらに向けられる。
 光を受け、深淵のように煌めく。
「……勉強か?」
 伸びた影の際まで歩み寄り、光の中の主と目の高さを合わせるようにしゃがみ込む。
 魔物は太陽の光を浴びられない。
 浴びれば皮膚が枯れるか焼け爛れてしまうからだ。
 ゆえに、この屋敷の窓はすべて布で覆われていたのだ。
 光の差し込む場所を避けて歩けばいいだけなのだから必要ないと言ったのだが、主は頑として譲らなかった。
 小さな世界を共有している唯一の存在が、この箱庭でも不自由なく過ごせるようにと願って。
「んー、本を読んでいるだけです」
 そう答え、主は再び手元へと視線を落とした。
 伏せられた長い睫毛には、細やかな光が宿るようで。
 ついつい見惚れてしまう。
「……貴方は?」
「俺か? 俺は、なんとなく、お前のそばにいたくなってな」
 前髪越しに睨まれてしまう。
 この主はどうにも内気で、洒落たことを言うとすぐ機嫌を悪くする。
 そこが可愛いのだけれど。
 視線をかわすように小首を傾げてやると、主はすっと立ち上がり。
 ざくざくと草を踏みしめてから、すとん、と隣に腰を降ろした。
 こちらに背を預けて、再び開いた本に視線を落とす。
 本当に素直じゃない。
 悟られないように笑いながら、読書を邪魔しないように抱き寄せて、蒼い髪に鼻先を埋める。
 甘い。
 わずかに綻び始めた蕾からこぼれる微香。
 丸齧りしてしまいたくなるぐらいに。
 唸りそうになる喉を隠し、けれど隠しきれない空腹に、そっと耳元で問うてみる。
「今宵、食事にしてもいいか?」
 腕の中の細身が小さく震えて。
 長く躊躇いを見せた後、こくり、と小さく頷いた。



 本来、契約が結ばれた時点で、魔物と契約主の間には魔力の道というものが形成され、自動的に魔力の授受が可能となる。
 しかし、己の場合、契約主が亡くなったことで魔力の供給が絶たれてしまっていた。
 母親の魔力を喰らったことで、しばらくは人と同じ食事でも空腹を抑えられていたのだが。
 それでも持続的な供給がなければ飢餓に襲われてしまうのは当然の摂理で。
 さらに、主が十歳を過ぎ、性という香りをさせ始めた頃から、それは一段とひどくなっていた。
 亡き母親が懸念したことでもあるのだが、この主は正統な血統ゆえに魔力が桁違いに高く、当然汚れてもいないため甘い香りが強い。
 魔力を与えられない状態で始終その香りに当てられることは、もはや拷問でしかなく。
 一時は野の獣を喰らってしのごうかとも考えたが、上級魔物としての矜持がそれを許さず。
 最終的に。
 理性が飛ぶ前に。

 ――時折でいい、血を、吸わせてほしい。

 己が魔力を得られない状態であること。
 血という物質が魔力の媒介となりやすいこと。
 そして、せめて魔力の高い血を飲めば飢えを満たすことができること。
 それらを幼い思考にも充分理解できるよう説明した上で、無理を承知で懇願してみた。
 小さな蒼い水晶が不安に揺れて。
 おそらくはこのときに己を人外の、恐れるべき魔物だと、はっきり認識したことだろう。
 しかし、それでも、主はおそるおそる頷いてみせた。

 それから。

 真実に耐えられないときにだけ、その首筋に咬みつくことを許してもらっている。
 ――のだけれど。
 何というべきか。
 魔物にも色々あるというか。
 己のような吸血種のみが持ち合わせている特性なのだが、吸血行為による痛みを和らげるために、この唾液は血液と混ざることによって、強い催淫効果を現してしまうのだった。
 このことはもちろん知っていたし、伝えてもいたのだけれど。
 やはり精通すら迎えていない幼い身に、性的な刺激は酷だったようで。
 たった一口だけで。
 細い首を悲鳴に震わせ、幼い主はすぐに気を失ってしまった。
 あの時に発せられた、むせかえるほど甘い香りは、今も忘れられない。
 さすが正統な魔術師の血筋ともいうべきか。
 甘い、甘い、誘惑のようで。
 最初がそのような結果であったため、さすがに拒絶されるかと懸念したが。
 主はその後も懸命に耐え、ずっと血を供し続けてくれた。
 その健気な姿といったら。



「……んっ……ぁ……っ」
 首筋の傷から溢れる血液に舌を這わせ、起立した主の逸物に指を絡める。
「あっ……ん、くぅ……」
 この唾液が催淫効果を与えてしまうのは仕方のないこと。
 ならばいっそ触れずに放置するより、触れて射精を促した方が苦しくないだろうと思い、無事に精通を迎えて以後は、こうして下半身も愛撫するようになっていた。
 そうすることで一層血が甘くなる、ということもあるが。
「……やっ……ジョットっ……」
 背中に腕を伸ばして、シャツを握りしめて。
 すがりつく主は、果たして、この行為が本来何を意味するのか知っているのだろうか。
 局部に触れられるということが、淫猥な、行為であると。
「ジョット……ジョットぉ……っ」
 その香りが一層強くなったのを感じ、最後にひと舐めして追い上げにかかる。
 特に悦く反応する箇所を重点的に刺激し、扱きあげ、そして。
「んっ、んんーっ!」
 しがみつかせた体を痙攣させ、主は手の中に白濁とした精を放った。
 シャツを掴んでいた手がほどけ、弛緩した四肢がシーツの海に落ちる。
「……吸い過ぎたか?」
 手の平の体液を舐め取りながら、もう片方の手で乱れた髪を梳く。
 主はまばたきで否と答え、それから重そうに瞼を閉じた。
 薄く開かれた唇からのぞく舌が、まるで誘うように見えて。
 もし、その口を塞ぎ、舌を絡め、この唾液を飲ませてしまえば。
 この身を夜通し淫乱に喘がせてしまうこととなる。
 熱を求めて。
 腰を振って。
 もっと、と浅ましく乞う姿を想像して――
 自嘲に似た笑みをこぼす。
 人間相手に一体何を考えているのか。
 用意していた止血の薬を傷口に塗り込め、レースのリボンを巻き直してやる。
 羽織っていただけのシャツのボタンも丁寧に留めて。
 指先で前髪を分けながらキスを落とすと、ゆるりと薄い瞼が持ち上げられた。
「ジョット……」
「どうした?」
「……と、いっしょに……て……」
 すっかり皺の寄ったシャツを引き寄せて、抱き寄せて。
 胸に顔を埋めるようにして。
「あぁ、ここにいるから、安心して眠れ」
「んー……」
 優しく頭を撫でてやる内に、主は静かな寝息をたて始めた。
 普段ならひとりで寝られると言い張る癖に、食事の後だけはこうして甘えてくる。
 供血により弱った自己を守ろうとする本能か。
 どちらにせよ、こうして身を寄せて眠る姿は愛らしい。
 マントで包み込むようにして抱き直し、甘い匂いに酔いながら目を閉じる。
 叶うことならば。
 このままずっと、腕の中で眠り続ければいいのに――と。
 たわけた夢を心の端に宿しながら。
 眠りに落ちる誘いに身を任せた。





*****





「ジョット!」
 テーブルの上で冷まされているクッキーを頬張っていると、頭上から激昂した声が降ってきた。
「貴方っ、何っ、あぁっ、もぉっ!」
 平手で頭を叩かれ、それからマントの襟を掴まれる。
「とにかく出ていきなさい!」
「なんだ、俺のために焼いてくれたんじゃないのか」
「そうですけど!」
 引きずり出されながらも手の届く限りクッキーを取ろうと試みる。
 しかしそれもすぐに見咎められ、手の甲を叩いて落とされてしまった。
「せめて! お茶の時間まで我慢できないのですか!?」
「焼きたてが一番おいしいものだと思わんか」
「だからと言ってつまみ食いはおやめなさい!」
 口の中のクッキーを飲み込んでから、にこりと笑う。
「また一段と料理の腕前を上げたな」
「なっ」
 白い肌が一気に赤く染まる。
 主は何度か口をぱくつかせ、それから、掴んだ襟首を廊下へと放り投げた。
「貴方は中庭のセッティングでもしていてください!」
 振り向く間もなく扉を閉められる。
 静寂の中に鳥の鳴き声。
 それと、かすかに聞こえる嬉しそうな鼻歌。
「……やれやれ」
 ため息ひとつついて立ち上がる。
 正午を過ぎた空は、いい具合に影を広げて。
「まずはテーブルを出さないとな」
 ひどい仕打ちも気にせず、中庭へと足を向けた。



 日陰の端にテーブルを置き、向かい合うように椅子も並べる。
 主が来る頃には墓石まで影が伸びているだろう。
 ポケットに忍ばせていたクッキーをかじりながら、椅子に腰を降ろす。
 食事をした翌日はいつもよそよそしい空気になるが、今日はまた一段と照れ方が可愛いらしい。
 気を落ち着かせるためにお茶会を提案したりするなど。
 その発想が本当に可愛らしい。
「何にやけてるの気持ち悪い」
 大きな羽音を響かせて。
 真っ黒なマントに包まれた影が降りてきた。
 目深に被っていたフードが背へと降ろされ、見慣れた顔が現れる。
 淡い金髪の。
「なんだ、アラウディか」
 そう呟いて軽く手を振り、発動しかけていた術を解除する。
「相変わらずだね」
 アラウディは呆れたように息を吐き、反対側に据えた椅子に腰を降ろした。
「ご主人サマは今日もおいしそうな気配をさせてるね」
「手を出すなら容赦せんぞ」
「いらないよ、こっちは貴方と違って契約持ちなんだから」
 脚を組んで、ひらりと手を振る。
 確かに契約を結んでいる間は飢えることがないため、必然的に食欲は失せるものだが。
 こいつの意図は少々異なっていた。
 冷めた視線が問う。
「いつまで効力の失せた契約にしがみつくつもり?」
「またその話か」
 やれやれと息を吐く。

 本来、魔物は契約がある限り飢えることがない。
 逆に言えば、飢えを感じた時点で契約は切れているのだ。
 主には間接的な契約と説明したが、真実を言えば、それもただの方便だった。
 もはやこの契約は強制力のない「約束」に過ぎない。
 母親の、死に際の切なる願い。
 魔物にとって最高級の血肉と魔力をもつ我が子を、最悪の結末から守ること。
 同情の余地はあれど、その契約を果たす義務も義理も存在しないというのに。
 襲いかかる空腹に耐えてまで、ここに留まり続けるなど、はたから見れば愚かな行為だろう。

 長考に焦れたのか、アラウディは顎を持ち上げるようにしてこちらを見下ろし、改めて問うてきた。
 何度も重ねた問いかけ。
 魔物としての、素直な疑問。
「ねぇ、いつ、アレを食べるつもりなの?」
 少しも包み隠さない言葉に、知らず、口許に笑みが浮かぶ。
「そうだな……」

 しかし、どんなに愚かでも。
 空腹に耐えるだけの価値が、そこにはあった。
 魔術師と魔術師を掛け合わし続けた、純粋な血統。
 膨大な魔力を秘めた器。
 あれを喰らえば、腹が満ちるだけでなく、その魔力すらも得ることができるだろう。
 だからこそ。
 守るという名目で他の魔物を猛火に焼き尽くし、一切寄せつけず、目にも触れさせず。
 何物にも汚されないように、大事に、大事に育ててきた。
 空腹をしのぐためにわずかずつ味わう血も、齢を重ねるほどに甘く蕩けるようになり。
 いつの間にか、その蕾は綻んで。

「そろそろ頃合いかもしれんな……」
 頬杖をつきながら息を吐き出したとき、背後の扉に何かが当たったような音が聞こえた。
 まさか、と立ち上がり、扉を開ける。
 そこには――
 両手で茶器とお菓子を乗せた盆を持った主が、ぼんやりと立っていた。
「今の話……聞いていた、か?」
「……はなし?」
 ゆるりと首を傾げてみせる。
「んー……何のこと、でしょう……?」
 けれど、青ざめた表情はその心中をありありと映していて。
 茶器の触れ合う音が小刻みに響く。
「デイモン?」
「――っ」
 いつものように頬に触れようとしただけなのに、主は身を強張らせ固く目を閉じた。
 初めてその首筋に牙を立てたときのように。
 悲鳴もあげず、逃げることもなく。
 ただ襲いかかるだろう痛みに耐えるために歯を食いしばって。
 触れることもできず、降ろそうとした爪先にリボンの端が引っかかり、するりとほどけてしまう。
 並んだ痕を晒すように、さらに首を横にそらせて。
 ――待ってくれ。
 それでは。
 それではまるで。
「……違う」
 きつくリボンを握りしめて。
「そうじゃないだろう、そうじゃないんだ」
 ゆっくりと現れた蒼色の水晶に映るのは。
 揺れる瞳の中にあるのは。
 気付けば漆黒のマントを翻し。
 振り返ることもできず、その場から、逃げ出していた。





*****





 闇の中に姿を消し。
 外敵が現れれば気づかれないようすべて除去し。
 ただ隠れて役目をまっとうするだけの日々。
 屋敷の中を歩き回る姿を、疲れ果てて座り込む姿を、ただ見つめ続けて。
「ジョット……?」
 雛が親鳥を呼ぶような声音。
 何度も抱きしめたい衝動に襲われ、その度に己を抑え込んだ。
 あれは親を求めているだけに過ぎない。
 庇護してくれる存在を求めているだけだ。
 ちょうどいい機会だったのだ。
 このまま、ひとりで生きていくことを理解すれば、契約は果たされる。
「もう、俺がいなくとも大丈夫だろう……?」
 最も危険な存在から離れられるのだから。
 これでいいのだ。
 何も間違ってはいない。
 こんな、利己的な欲望で、縛るべきではない。
 これ以上は。
 手に絡んだままのリボンに視線を落とし、晒された白い首筋を思い出す。
 そうなるよう育てたつもりはない。
 けれどそうするように育ってしまった。
 もし求めれば、あれは求められるままに身を差し出すだろう。
 違う。
 そうじゃない。
 もっと早く、解放してやるべきだった。
 契約という糸で縫い止めていたのは、己自身だったのだ。
「やはり、頃合いだな」
 ほつれた糸は切ってしまおう。
「今宵、何事もなければ……」
 呟きを闇に溶かし、そっと、レースのリボンに唇を寄せた。



「今日という日に限って! 空気を読まん奴らだな!」
 次々と闇から現れる影を倒し、一歩も部屋には近寄らせまいと薙ぎ払う。
 どうやら、主を守護する者がいなくなったと思って寄ってきたらしい。
 この程度なら、稀代の魔術師である主の敵にもならないが。
 ――どうせ最後だ。
 すべて倒していってくれる。
「しかし……」
 それにしても雑魚が多すぎる。
 多勢の割に連携も統制も取れていない。
 こうもバラバラに攻撃してくるとは、まるで寄せ集めの――
 その時。

 屋敷の奥から、爆発音が、聞こえた。

「しまっ――」
 駆け出す。
 油断していた。
 大事なものを見落としていた。
 いつもすぐそばで守っていたから。
 雑魚は囮に過ぎない。
 本命は。
 小賢しい真似をした魔物は。
「デイモン!」
 扉をぶち破りながら室内に飛び込むと、ベッドの端に、蒼い髪が見えた。
 その身を取り込むように覆い被さる闇に。
 脳内が瞬時に沸騰して。
 床が抉れるほど強く蹴り上げ。
 炎をまとわせた拳を振り降ろすより早く。
「私に触れるな!」
 怒声と共に紺の炎が立ちのぼった。
「――っ」
 反射的に身をひねり、ベッドの柱を蹴って窓際へと着地する。
 背後の窓は半分壊れてなくなっていたが、今はそんなことよりも。
 見つめる視線の先で。
 闇を払うように起き上がると、紺の炎をまとわせた杖を振り上げ。
 あぁ、あれはいつかに授けた杖だ。
 一縷の迷いもなく、それを――突き立てた。
 断末魔の悲鳴。
 質量をもった闇が燃えるように粉々に散っていった。
「んー、地獄で身の程をわきまえることですね」
 ひゅん、と杖が空を切る音。
 星屑のように紺色の燐が消え、静寂が満ちる。
 長いため息。
 それから。
 壊れた窓へと向けらた双眸が――
「……ジョット……?」
 驚きに、落ちてしまいそうなほど大きく、見開かれた。
 たちこめる香りが渇いた喉を刺激する。
 本当に、なんて、美味しそうなのだろう。
 どこまでも食欲を訴える本能に、苦い笑みがこぼれた。
「やはり、もう頃合いだな」
「……え……?」
 一人前になるまであらゆる物事から守るという契約。
 ここまで見せつけられれば、嫌でも納得できる。
 そう。

 契約は、果たされた。

 窓枠にもたれかかると、ぎし、と壊れかけた軋みを響かせた。
「……立派に、なったものだな」
「ジョット?」
「ついこの前まで、こんなに小さかったのに」
「ジョット」
「強く、そして美しくなった」
「ジョット!」
「もう俺がいなくとも、生きていけるな?」
「――っ!?」
 唐突に、蒼眼から雫が溢れ出した。
 両手で顔を覆い、何度も首を横に振る。
 駄々をこねる子どものように、何度も。
「……甘えるな、もう大人だろう」
「嫌です! い、一緒にいてくれると、言った!」
「一人前になるまでという約束でな」
「ずっと、ずっと!」
「それは無理だ、契約がなければ俺が餓死する」
「でしたら私を喰らってください!」
 叫んで涙を拭い、ボタンを外す間すら惜しんで強引にシャツを脱ぎ捨てる。
 淡い月明かりに照らされた柔肌に、思わず、生唾を呑む。
 強すぎる芳香は眩暈すら感じるほど。
 その身を惜しげもなく晒して。
「ねぇ」

 誘惑の言葉を紡ぐ。

「私は美味なのでしょう? 私は、貴方になら喰われても」
「馬鹿を言え!」
 脱いだマントで、すべてを覆い隠してしまう。
 そうしなければ、これが欲しいと訴える本能が暴走してしまいそうだった。
 喉の渇きも、飢えも、とうに限界を超えていた。
 けれど、しかし、それでも。
「俺はお前を喰らいたいわけじゃない」
「ですが、貴方はそのつもりで私を育てて」
「違う!」
 声は枯れ、震え、貧弱で。
 力が失せるのに任せて床に座り込むと、弱々しい言葉が口から落ちた。
「喰らえば、確かに腹も魔力も満ちるだろうさ。だが、」
 情けない。
 こんなに情けない己が存在しようとは。
「俺が欲しいのはそんな微々たる満足感ではない……」
 血の甘さよりも慕う瞳が愛おしい。
 香りよりも名を呼ぶ声が愛おしい。
 触れ合うほどに熱を増す、あの肌の感触が愛おしい。
「俺がここに留まり続けたのは、」
 いっそ抱いてしまいたい。
 腕の中に、あるいは檻の中に閉じ込めて。
 己だけの性具としてしまいたい。
 そんな。
「俗悪で、どうしようもない、お前の前では到底クチにできない理由だ……」
 俯くまま、頭を抱えて黙り込む。
 夜特有の張りつめたような静けさ。
 このまま手の届かない場所へ逃げて欲しいと願う。
 その思いに反するように、ベッドの端が軋んで。

 ふわり。

 甘い香りが落ちてきた。
「っデイモン!」
 慌てて受け止めた恰好のまま、床に押し倒されてしまう。
 それだけでなく。
「―――っ!?」
 腹の上に乗り、両肩を押さえつけて、強引に。
 唇を、重ねられた。
 今まで挨拶で触れることはあっても、絡めたことは一度だってない。
 それが、食事や遊びとは違う行為だと教えていたから。
 だからこそ理解できなかった。
 熱い舌が歯列を割って咥内を這い回っている、この状況が。
 やがて糸を引いて離れたかと思うと、伝い落ちる唾液を拭いもせず。
 間近の蒼色の水晶が笑みに歪んだ。
「私と契約なさい、ジョット」
「ばっ!?」
 叫びそうになった口を一度閉じ、視線をそらすように首を振る。
「馬鹿を言え、それは……」
 何度も契約を結び直すことを考えた。
 けれど、その度に不可能だと否定した。
 すでに召喚された魔物と契約するには、最初の召喚よりも上位の贄が必要となる。
 己は人ひとり分の命と引き換えに召喚を受けた。
 命以上に価値のあるものなど。
「それは、」
 できないという言葉を遮って。
「この身も心もすべて、差し上げます」
 思わず向けた視線の先には、悠然たる微笑みが浮かんでいて。
 真実に驚愕すると呼吸すら止まる、というのは嘘ではなかったらしい。
 そんな反応を気にすることなく、さらに身を寄せ、唇を寄せて。
「私の、貞操が欲しいとおっしゃるのならどうぞ、犯してくださいな」
「デイモンっ!?」
「んー、そういうことでしょう?」
 頬に触れた指先は震えていて。
 よく見れば、目には涙が溜まっていて。
 頬は夕陽よりも赤く染められていて。
「わ、私だってもう子どもではないのです」
 震える声は、慣れない言葉を、懸命に紡いでいるのだと知れた。
「あ、あの行為の、意味ぐらい、わかっていますっ!」
 元より潔癖な性格であるのに、無理をして。
 そうだ、今だって下着一枚だけで恥ずかしいだろうに。
 それだのに強引に接吻までしてきて。
 経験もないくせに舌まで絡めてきて。
 どうして、そこまでするのか。
「貴方から見れば、こ、この感情は雛の刷り込みだと思えるでしょうけれどっ」
 腕を取って、手を握って。
「私は本気で、心からっ」
 自身の胸に当てて。
「ずっと貴方のことを愛しているのです!」
 ぎゅう、と力任せに握られた手が痛む。
 どうして。

 どうして――?

 そうか。
 そう思うことがまず、愚問だったのか。
 向けられていた視線に込められた感情は。
 思い返せば、いつだって。
 蒼色の水晶は雄弁に語っていた。
「……すべてを差し出せば、」
 目をそむけていただけで。
 本当は、ずっと前から、気づいていたのかもしれない。
「それはもはや契約でなく隷属となってしまうぞ?」
「わかっています」
「主従の関係も逆となる上に、俺が望めば老い死ぬこともできなくなる、それでもいいのか?」
「承知の上です」
 そっと、鎖骨の中央に軽く触れる。
「……ここから、鎖が生えるとしても?」
 蒼眼がわずかに見開かれ、そして、至極嬉しそうに微笑んだ。

「――はい」

 瞬間、細い糸で保っていた理性が引きちぎれて。
 掴んだ肩を引き寄せて。
 短い声が鼓膜に触れる。
 白い首筋に牙を喰い込ませて。
 蕩けるような甘さに。
 渇いていた喉が、心が、一気に満たされていった。







( cautions ) → ●◇◆ →  2(end)