鈴が鳴る。
ゆっくりと、ゆっくりと、衣擦れの音。
わずかな動きにも揺れる絹糸の髪は、瑠璃を溶かして染め上げたように見事な蒼。
座敷で待っていた者たちが呼吸すら忘れて見つめ続ける中を。
血の赤すら否定するように幾重にも重ねられた縹色の着物を重く引き摺り。
そこから世界が隔絶されていくかのように。
導かれるまま、用意された席に据えられる一輪の花。
両脇に控えた男女の禿が、ひとつに聞こえるふた色の声で告げる。
その花の名は、梔子。
鮮やかな瑠璃色で彩られた真白の花。
それは、強すぎる芳香で人から現実を奪う、幻惑の花。
名を呼ばれた花はようやっと瞼を持ち上げると。
美しく。
畏怖すら抱かせるほど美しく、咲き綻んだ。
――何も知らない者たちを嘲け笑うがごとく。
*****
花街に咲いた梔子は、とかく異質な花であった。
世にも稀なる瑠璃色の髪。それに縁取られた冷たい美貌。
猫のようにしなやかな動作は香ではないほのかな匂いを舞い散らせ。
艶美な姿は人々を一目で惑い狂わされた。
しかし、異質というのは外見だけの話ではない。
梔子は一切、客に媚びることをしなかった。
ひと度綻べば大輪のように咲く微笑みも、気に入らぬ者にはその瞳の色すら教えようともせず。
機嫌が良ければ華麗な舞いこそ見せれど、唄も語りも奏じない。
褥を共にした者が果たして何人いるのかと下世話な者たちが陰で小銭を賭け合うほど、その声も、その肌も、重ねられた花弁に隠されたまま。
けれど、それさえもまた人々を魅了する芳香のひとつとなり。
ある者は入れ込んだ挙げ句に身代を潰し、またある者は叶わぬ夢ならと自死に果てた。
哀れな噂は花にさらなる彩りを与え。
ついには花街一と謳われるほどの太夫と咲き誇っていた。
たった二人の禿のみが入ることを許された梔子の座敷の中。
どんな者にも見せることのないあられな襦袢姿のまま。
梔子は箱に積み上がった文のひとつひとつに目を通しつつ、畳の上に身を伏せた。
それは得も言われぬ雰囲気を醸し出していたが、どうにも禿には通じないようで、
「行儀が悪いですよ」
今宵の召し物を用意していた骸がすぐさにそれを見咎めた。
無言のままねめつけるも、さらに冷たい視線で返される。
この子どもはまったく臆することを知らない。
ゆえに、このような厄介な太夫の禿でいられるのだろうが、それにしても憎々しい。
しばらく睨み合っていると、
「けんかは、だめなの……」
梔子の髪を梳いていた髑髏が泣きそうに顔を歪めた。
それに引き換え、こちらの子どもは何とも素直で可愛らしいこと。
梔子は手を伸ばしてその頭を優しく撫でてやった。
「別に喧嘩などしていませんよ」
「でも、骸さま怒ってた」
「そりゃあ怒りたくもなりますよ、この体たらくには」
「悪いことなの?」
「そうですよ、横になって文を読むなど。目が悪くなりますし、相手にも失礼です」
まだ続きそうな小言を無視して手元の文に視線を戻す。
この二人は花屋の主人がどこからか買ってきた身寄りのない兄妹で、梔子と並べても見劣りのしない容貌と縹に三度藍を混ぜたような髪色を持つことから、太夫を引き立てる禿として梔子に預けられていた。
特に兄の骸は器量が良く腕も立つこともあるが、それ以上に世にも珍しい左右色違いの瞳を持っていたため、妖花の異色をさらに強めるものとして、禿としては珍しい男であれど妹の髑髏共々常に梔子のそばに置かれていた。
「聞いてるんですか?」
骸は持ってきた着物を置いて、梔子の頭近くの畳を叩いた。
小うるさい性質さえなければ、もっと可愛がる気も起きるというのに。
あてつけるように息を吐き、読み終わった文を落とすようにして骸に渡す。
「また乱暴に扱って」
小言をひとつ、骸は渡された文にさっと目を通した。
ここに届けられる文は睦言や戯言の並べられたものがほとんどだが、そこには媚びた色もなく、ただ簡素な言葉だけが羅列されていた。
曰く、本日の呼び出しには友人を連れ立つと。
骸は呆れたように、簡単な感想を述べた。
「相変わらず、跳ね馬の若旦那は接待ですか」
ここ花街はただ遊女と戯れるだけの場所ではない。
値の高い太夫を呼び出すことは財力や権力の誇示になり、また座敷という閉鎖された空間は密に取引を交わす場にもなった。
そして他言の許されない席に対して、梔子はことに呼び出しを多く受けた。
梔子とはつまりクチ無し。
花街で最も美しく、そして言の葉を紡ぐことのない花は好んで密談の場に据えられたのだった。
そんな自分の立場を嘲笑するかのように、コロコロと鈴が転がり落ちたかのような音が発っせられる。
「他に想い人がいる殿方は面倒がなくて良いでしょう?」
口調こそ女性的だが、その声は確かに男子のもの。
梔子が笑いながら身を起こすと、緩んだ襦袢の襟元から膨らみのない胸が覗き見えた。
この梔子は幻想の造花。
女だけの花街で太夫として君臨し続けるために作られた姿。
決して解かれることのない帯紐も、固く閉じられたクチも。
すべては真実を隠すため。
名付けられた時に与えられた、偽りの生き方。
「……はしたないですよ、誰か来たらどうするんですか」
「んー、そのためにお前たちがいるのでしょう?」
あだっぽくのしなを作り。
決して梔子の香りに狂うことのない禿に、惜しみなく雪の肌を見せつける。
「私を隠すのが、お前たちの役目なのだから」
たった二人しか禿を預かっていないことも。
その二人しか座敷に入れないことも。
すべてはこの――梔子が男であるという――秘密を漏洩させないため。
男女の禿は互いに顔を見合わせると、骸は呆れたように、髑髏は困ったようにそれぞれため息を吐き出した。
「本当に、よくそれで隠し通せてきましたね」
「心配なの……」
真実を告げれば、二人を預かる以前に幾度か人に知られたことがあった。
たったひとりの身では四六時中周囲に気を張るのはどうしても不可能で。
しかしそれらはすべて主人によってクチを封じられ、二度とあいまみえることはなかった。
殺しただろうことは聞かずとも知れる。
最も単純かつ簡単な解決法だ。
わかっている。
自分はただの金を集める花で、雑草は除去されるものなのだと。
それでも。
空虚な心は、その度に血のような苦い何かに襲われた。
……そのようなもの、この子らは知らなくていい。
梔子はいつものように甘く微笑み、二人を抱き寄せた。
「ヌフフ、これもひとえにお前たちのおかげですよ」
「梔子さま……」
髑髏は桃色の頬をさらに赤らめ、
「気持ち悪いです……」
骸はげんなりと顔色を悪くした。
両手を突っぱねるようにして身を離す。
「この梔子の抱擁を気持ち悪いとは何事ですか」
「率直な感想です」
「んー、逐一気に入らない子どもですね」
「そろそろ仕度を始めさせてください」
「その点、髑髏は可愛いですね。今度新しい簪を買ってあげましょう」
「あ、ありがとうございますっ」
「髑髏、これは悪い大人の見本ですからね」
「は、はいっ骸さまっ」
「ちょっと、貴女はどちらの味方なのですか」
「えっと、えっと、」
梔子と骸を交互に見遣ってから、髑髏は嫌味もなく素直にはっきりと答えた。
「骸さま!」
「ちょ」
「結論が出たということでさっさと仕度しますよ。髑髏、手伝ってください」
「なっ」
「はいっ」
「待ちなさ」
「襦袢も着付け直すのでさっさと立ってください」
ともすれば梔子よりも冷たい笑みを浮かべ。
梔子は短く唸ると、指先で骸の額を小突いてから言われるままに立ち上がった。
「……痛いじゃないですか」
「口答えするからです」
「文句を聞きたくないならさっさと腕上げてください」
「んー、お前は本当に、愛おしいぐらい腹立たしいですね」
「光栄です。髑髏、そっちを」
「はい」
手際よく何枚もの着物を重ねてゆく二人を見下ろし。
耳を澄ませて座敷に籠っていた頃に比べれば。
なんと楽しいこと。
不満の中にも満たされるものを感じつつ、梔子は溜め息の中にそっとそれを隠した。
「……今宵も、よろしく頼みますよ」
「はい、梔子さま」
「承知してます」
目を閉じたまま、骸と髑髏の導きだけを頼りに道中を進む。
それまでざわついていた空気が息を呑んだように、一瞬にして静まり返る。
この奇怪な瑠璃色を、人々はどんな目で見ているのか。
座敷で向けられる眼差しを思い出し、一層固く目を瞑る。
好奇や好意の中に紛れた恐怖に怯えた目。
あれだけはどうしようとも、慣れることができなかった。
言外にお前は人間ではないと告げられているようで。
――在り得ない、と。
奇異な、自分の存在を全否定されているようで。
空虚なはずの心に深く鋭く突き刺さる。
「着きましたよ」
いつの間にか強く握りしめていた手を優しく叩かれる。
梔子は安堵の息を吐きつつ、小さく頷いた。
襖の滑る音。
「あぁ、梔子太夫、よく来てくれた」
力強く朗らかな声。
座敷に入りながら、声のしたほうへ向けて柔らかく微笑む。
席につき、両脇の禿が礼を述べ終えるのを待ってから、ゆっくりと瞼を持ち上げた、その瞬間――
金色の、
獅子がいるのかと見紛った。
そこだけ光が差しているのかのような、錯覚。
鼈甲のような瞳に囚われて、視線を外すことさえ許されず。
梔子を真っ直ぐに見つめたまま、彼は問うた。
「お前が梔子太夫か」
「――っ」
こぼれかけた言葉を飲み込み、小さく頷いて見せる。
「クチが利けぬと聞いたが」
頷く。
「そうか」
感情の読めない、少し伏せがちの目。
話は終わったはずなのに、その瞳孔に梔子を映したまま。
――見透かされてしまう。
わけのわからない不安に支配されかけたとき、
「なぁおい」
右手側に座っていた黒髪の男――跳ね馬が呆れた顔でクチを挟んできた。
「俺飛ばして話進めんなよ」
「む、すまんな」
やっと視線が外れ、強張った身から力が抜けていくのを感じる。
動悸がおかしい。
どうして、こんなに動揺している。
袖に隠した指先が震えているのに気付き、ぎゅっと握りしめる。
落ち着け。
何も、恐れるものなど何も、ないはずだ。
梔子はまばたきひとつで気を取り直すと、袖の鈴をリンと鳴らして骸と髑髏を見遣った。
すぐさに意図を汲み取った二人がそれぞれ客の前に行き、徳利を傾ける。
「ガキ共も元気そうだな、今日は菓子を持ってきたんだ」
跳ね馬は袂から取り出した小さな袋を髑髏の手に乗せた。
「あ、あの」
「受け取りなさい、髑髏」
「はい、あの、あ、ありがとう」
「いい子だ」
頭を撫でようとした手をすり抜け、髑髏は貰った袋を見せようと急いで梔子の元に戻ってきた。
苦笑を浮かべつつ、彼の代わりに頭を撫でてやる。
「……すみません、髑髏にはよく言いつけておきますので」
「いや、別に気にしねぇよ。ほら、お前にもやろう」
「ありがたく頂戴いたします」
骸は恭しく頭を下げて撫でようとする手を避けると、そのまま梔子の横、髑髏とは反対側に座った。
「相変わらず可愛げのねぇ」
そう言いつつも、彼は楽しそうに笑った。
「太夫も大変なの預かっちまったな」
肯定の意を含めて微笑んでみせる。
跳ね馬の若旦那といえば花街を含むこの一帯を取り締まる一派の頭で、梔子は太夫に上がる前からずっと目にかけてもらっており、花街で取引を行う際には必ず呼び据えられていた。梔子が密談の場によく据えられるようになったのも、実質彼が取引の際によく使う台詞に原因がある。
曰く、梔子はクチなしゆえ話が外に漏れることのない縁起の妖花である。
相手のクチを軽くするための戯言だったのだが、瑠璃色という奇異な花は魔力を感じさせるに充分すぎるほどで、彼は梔子を据えた密談をことごとく成就させていった。
そしてその戯言が噂となり花街中に知れ渡る頃には、梔子は滅多に呼び出すことのできない高嶺の花――つまりは太夫へと成り上がっていた。
他から見れば、彼はこの瑠璃色を利用し、梔子は彼の成功を利用した形になるのだろうが、二人の間に騙し合うような駆け引きは一切なく、互いに気の許せる友人だと感じていた。
そして跳ね馬は特に自分の気に入りを連れてきた時に限り、梔子にも友として杯を交わすことを求めた。
「そういや紹介がまだだったな」
梔子の小さな杯に酒が注がれるのを待ちつつ、隣に座る男を視線で示す。
「こいつはジョットっていってな、最近立ち上がった自警団の頭だ」
――自警団?
あまり耳慣れない単語に、軽く首を傾げる。
ただそれだけの仕草だったのだが、クス、と彼は小さな笑みと共に表情を緩めた。
途端、顔が熱くなる。
何ということのない反応のはずだ、今まで何度も見てきたものだ。
だのに、どうして。
「……俺が生まれ育った場所は治安が悪くてな」
まるで耳から浸透するような、澄んだ声色で彼は語った。
「家族や仲間を、大事なものを守るため有志を募って結成した」
崇高な決意、あるいは願い。
そんなものを鼈甲の瞳に宿して、微笑む。
「とはいえ、まだ四人しか集まってないがな」
「なぁに、すぐに色んな連中が集まってくるさ。なにせ俺が見込んだ男だからな」
跳ね馬が杯を持ち上げたのに合わせ、ジョットと梔子も己の杯を掲げた。
「友の新しい門出と、成功を願って」
「かけがえのない友を持てたことに」
乾杯、と二種類の声が重なり、杯が傾けられる。
梔子はすぐに鈴を鳴らして禿らに酒を注ぎ足すよう指示した。
その間に、袖で口許を隠して喉を下る熱に耐える。
酒が喉や胸を焼く感覚はいつまで経っても慣れることができない。
この眩暈も。
「……酒は苦手か」
短く、息を呑む。
顔を上げると真っ直ぐな視線に射られた。
跳ねる心臓を抑え、わざと曖昧に微笑んで首を振って見せる。
本当は一滴すらクチにしたくないほどの下戸であるが、そのようなことが知れれば醜態が見たいとあえて飲ませてくる不逞な輩が現れるとも限らない。
ゆえにこのことは二人の禿や、主人にさえ隠しているというのに。
「そうか」
彼は感情の読めない顔を頷かせ、注がれた酒を一気に煽った。
不安。
どうしようもない不安が胸に満ちる。
自分に向けられた視線の意図も感情も、いつもなら容易に読めるのに。
どうして――
結局確かめることも、そもそもクチのない身では問うことすらできず。
彼らの話に実のない相槌を繰り返している内に夜も更けてしまい。
伏せがちの目の奥で一体何を考えていたのかすら。
「わからない……」
文を畳に落とし、梔子は文机の上に突っ伏した。
ちょうど遣いから戻った骸と髑髏が覗き込みながら問う。
「字引が必要ですか?」
「難しい?」
「……そういう意味ではありませんよ」
勉学を怠ったことはないし、時事に疎いつもりもない。
人の心を読む術にも長けている自信がある。
なのに。
読めなかった。
何かが、邪魔をして。
「違うのなら、はい、今日の分です」
「たくさん届いてたの」
二人は抱えていた文の束を文箱に積み重ねていった。
言葉にならない声が喉からこぼれる。
ようやくすべて読み終えたと思ったのに。
梔子は脱力するように畳の上に寝そべった。
「あ、こら!」
「しばらく文字など見たくありませんよ、もう」
「きちんと目を通しておかないと、座敷で恥をかきますよ」
「んー、骸に任せました」
「お断りします」
きっぱりと言い放った骸に文鎮を投げつけてやるが、容易に避けられてしまう。
舌打ちつつ仰向けに寝返ると、髑髏が四つん這いになり間近から見下ろして言った。
「大事なお手紙なの、梔子さま、わたしもお手伝いするから」
「髑髏……」
あたたかい気持ちになりながら、その頭を何度も撫でてやる。
「んー、これですよ骸、こう言えば私もやる気が起きるもので」
「はいはいさっさと読んでくださいね」
ぺし、と顔面に一通ぶつけられた。
「こっのっ」
「召し物の仕度が終わるまでに全部読んでおいてくださいよ」
つまらない喧嘩に付き合うつもりはないと言わんばかりに、骸はひとりで着物の用意を始めた。
手伝うと言っていた髑髏も慌ててそちらに行ってしまう。
一体全体この禿たちに感謝や尊敬といった観念はないのか。
梔子はクチの中で文句を呟きながらさらに寝返ってうつ伏せになると、ぶつけられた文を広げた。
「んー? これは、初めて見る手ですね」
力強くも流暢な筆の運び。
時節の挨拶から始まり。
癖があるようで捉えどころのない文字。
昨日の礼と。
知らない筆跡なのに、顔が浮かんだ。
そして最後の一行には――
勢いよく飛び起きて、もう一度、最初から最後まで見落としのないよう読み返す。
そうすると、骸が手を止めて問うてきた。
「どうしたんですか?」
「べっ、別にっ」
上擦った声に自分でも驚き、慌てて平静を装う。
「何もありませんが?」
「そう言う割には……」
「何ですか」
「いえ、その……」
言葉を濁した骸の代わりに、髑髏が無邪気に微笑んで告げた。
「梔子さま、うれしそう」
「なっ」
「髑髏っ」
骸が咎めるも時すでに遅く、梔子は見たことがないほどに顔を朱に染め上げ、何か叫ぼうとしたけれど声にもならず、ややあってから出したままの布団に飛び込んだ。
「あ、ちょ、いい大人が何してるんですか!」
「放っておいてください!」
「図星指されたぐらいで何ですか!」
「ごめ、ごめんなさい、骸さま」
「髑髏は悪くないですよ、すべてはこの大人げない大人が悪いんです」
「うるさい!」
布団の中から投げつけた枕は、やはり容易に避けられたらしく何かを破く音だけ聞こえた。
喚き怒鳴る声も無視して。
布団の中で身を丸くしてとにかく考えることそれ自体を放棄する。
そうでもしなければ。
だって。
どうして。
こんなにも胸が高鳴るのか、わからないから。
梔子は隙間から入り込む細い光に浮かぶ文字を、そっと指でなぞった。
文の最後の一行に綴られていたのは。
――ジョットという、名前。
リン、リン、と鈴が鳴る。
自分の袖から発せられているのに、ひどく遠い。
道中に向けられる異色を喜ぶ熱い視線も恐怖に怯えた冷たい視線も、なぜか刃物のようには刺さらない。
あの日から。
空虚な心に何かが詰まるようで。
言い知れない不安感。
一体、どうしてしまったというのか。
「梔子太夫にございます」
応と返事を受けて、襖が開かれる。
同時に、骸が短く息を呑む気配がした。
不思議に思い目を開けると、
「――っ」
間近に、鼈甲の瞳。
彼は唇が触れ合いそうほど顔を寄せて、静かな声音で問うた。
「俺を、覚えているか?」
忘れるわけがない。
忘れようがないくらい。
ジョット。
けれどその名を音にすることはできず。
「ま、待ちなさい」
先に事態を把握した骸が慌てて梔子とジョットの間に割って入った。
「初会の方が太夫に近寄ることは禁じられています」
「ふむ、そうだったな」
彼は骸の肩を軽く叩き、腕を伸ばしても触れられないほど距離を置いてから再度問うた。
「俺一人では初会だが、太夫はどうだ? 覚えているか?」
こくりと頷く。
「そうか」
嬉しそうに笑うと、彼は大人しく自分の席に落ち着いた。
「――な、なんて無礼な」
「梔子さま、大丈夫?」
「帰りましょう、彼は太夫の相手にふさわしくありません」
怒気を含ませて骸が進言するが、梔子は嫌がるように首を振り、ひとりで座敷へと踏み入った。
「太夫っ?」
胸は裂けそうほど高鳴っているし、手は震えてままならない。
だけれど、今ここから立ち去るのは逃げるようで嫌だった。
本来ならここは太夫が客を試す場だが、先の行動といい、梔子はジョットに試されている気がしてならなかった。
太夫としての、あるいは花でなく人間としての自尊心を。
鼈甲色の瞳で見極めようとしている。
その訳も理由もわからないが、挑まれているのであれば。
梔子は指先の動きにまで神経を張らせた所作で太夫の席に腰を降ろし、ぐ、と顎を引くと傲慢な印象さえ与える笑みで相手を見据えた。
――正面を切って、受けて立つまで。
ジョットはわずかに目を見開いて、感嘆するように息を吐いた。
「……まったく、我儘な……」
愚痴をこぼしつつ、骸は戸惑っている髑髏に対して中に入るよう促した。
あのような態度、常の梔子ではあり得ないが、決して太夫として間違った態度ではない。
相手の意向には決して沿わず、高嶺に咲き誇る花。
骸は髑髏と共に梔子の脇に座ると、頭も下げずに半ば睨みつけるように告げた。
「今宵は初会、くれぐれも太夫には近寄らないでくださいよ」
「相承知した」
飄々とした応え。
眉間に皺を寄せた骸を横目に見つつ、梔子は袖の鈴を振った。
酌の合図だったのだが、
「いや、その前にこれを」
立ち上がりかけた髑髏を制すように、ジョットは山吹色の包みを畳の上に置いて差し出した。
「何ですか?」
「好むかは知れんが、受け取ってもらえるか」
それほど大きな包みではない。
禿は互いに目配せ合った末、骸がそれを確かめに行った。
袱紗を開くと中にもうひとつ油紙に包まれた品があり、それも開くと――ふわり――花の香りが漂った。
「乾燥した花……?」
「茉莉という大陸渡来の茶だ」
「花の茶?」
「あぁ。太夫には茶のほうが嗜みがあるかと思ってな」
「……まぁ、太夫として茶の道をわきまえておられますが」
骸の反応にジョットはかすかに笑みをこぼし、それから梔子を真っ直ぐに見据えた。
その挑戦的な視線に、すぐに「違う」と感じる。
今の言葉はそういう意味ではない。
何かと比べて「茶のほうが」と言っている。
そしてその「何か」は考えずともすぐに思い当たる。
彼は見抜いていたのだ。
太夫が酒を不得手とするところを。
――あの、一瞬で。
梔子は紅色の唇を引き結ぶと、骸に向かって小さく頷いて見せた。
「それでは、頂戴いたします」
骸は丁寧に包みを直して、それを己の懐に仕舞った。
跳ね馬の若旦那ほどの上客であればその場で品を受け取るが、初会の者からの品など太夫は決して受け取りはしない。場合によってはその場で捨てられてしまうこともある。
すべては太夫の機嫌次第。
髪より淡い縹色の視線を受け、ジョットは意図を滲ませるように口角を上げた。
この品は要するに気に入られるためでなく試すために出してきたもの。
客として受け入れるか否か。
太夫の判断は――
梔子は短く吹き出すと、声こそ出さないが肩を揺らして笑い始めた。
くつくつと喉が震える。
「梔子さま?」
不思議そうな顔をする髑髏に酌をしてくるよう示す。
「は、はい」
髑髏は骸と入れ替わるようにジョットの元へ行き、差し出された杯に酒を注ぎ入れた。
縁まで並々と注がれたそれを一気に煽り。
ジョットは空にした杯を骸に向かって放った。
「え、ちょっ」
反射的に受けてしまったそれを横から梔子が奪い去ってしまう。
そして、梔子は戻ってきた髑髏に杯を差し出した。
「え、えっ?」
初会の席で太夫は決して飲食をしない。相手を見定める場であって饗する場ではないからだ。それだのに、返杯に応じるなど。
驚きを隠せず助けを求めようと骸を見遣るが、骸も理解できないといった体で梔子を見つめていた。
髑髏は他にどうしていいかわからず、戸惑いつつも梔子の杯に酒を注いだ。
白く濁った水面に映る瑠璃色。
そういえば、彼はこの髪にも瞳にもまるで興味を示す風がない。
――おかしな人。
梔子は杯を両手で掲げると、鼈甲と視線を合わせたまま一気に杯を傾けた。
胸を焼くように。
落ちる。
嚥下する熱も痛みも変わらないが。
甘い、と。
初めて感じた。
芯から痺れてゆく感覚。
それは悪いものではなくて。
空の杯が再び宙を舞い。
リン、と鈴の音を合図に立ち上がる。
呆然としていた禿らも慌てて立ち上がり、片や太夫を導くためその手を取り、片や襖を開けるため足を速めた。
まだ線香は残っているだろうが、今宵の駆け引きにこれ以上の時間は必要ない。
最後に一度だけ振り向くと、彼は笑んだ唇を空の杯に寄せていた。
まるで重ねるかのごとく。
梔子は酒のせいではない眩暈を覚えつつも、その絵を瞳の中に留めるように――目を閉じた。
*****