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筆先から墨が枯れる度に、紙を丸めて後ろに放る。
そうしている内に硯からも墨が尽き、見れば水差しも空になっていた。
仕方なく受け取った文をもう一度読み返す。
淡く色をつけた紙の上を流れる文字。
時節の挨拶が大半を占める質素な文面だけれど表現はどれも多彩で、何度読んでも飽きがこない。
それに劣らない返事を書こうとして、かれこれ一刻が過ぎようとしていた。
「……何を散らかしてるんですか」
襖を閉めたところで、骸が呆れた声を発した。
散乱する紙の玉の間を縫うように梔子の元へ歩み寄り、持ってきた鉄瓶を置く。
「あまり書き損じを作らないでくださいよ」
「んー……」
「これらを隠れて焼き捨てる手間も考えてください」
「……わかってます」
梔子に語るクチはないけれど、その手までクチなしというわけではない。
筆を持たせれば水流のように美しい文字を綴ることができるが、梔子は跳ね馬に対する簡略な礼を除いてほとんど文をしたためない。
それはどの睦言も梔子の空虚な心に届かぬがゆえに。
あるいは、耳にした密談を漏洩しないという意思表示のため。
梔子は文字でさえもクチを閉ざしていた。
「まぁ、別に書くなと言うつもりはありませんよ」
「おや」
「処分するのが面倒なだけですから」
薄い茶碗に小さな塊を入れ置き、持ってきた鉄瓶から湯を注ぐ。
ふわりと、花の香り。
白い花がゆっくりと花弁を綻ばせてゆく、その様を眺めつつ。
思うのは文の送り主のこと。
彼はその後も羽振りよく通い続け、跳ね馬の若旦那の友人ということもあるのだろうが、引く手数多の梔子太夫を優先的に呼び出せるほどの上客となっていた。
何度も呼び出しを受け、その度に他の客にはないものを見せてくれる。
決して話題が豊富でも話術が巧みでもないのに、その文と同様に飽きることがない。
会うほどに。
もっと知りたいと願う。
座敷の中で、決して他所を向くことのない鼈甲の瞳の、本心を。
何を見ているのか。
何を、見抜こうとしているのか。
わからなくて。
またひとつ、ふたつと不安が満ちる。
この理解できない感情は、一体どうすれば知れるのか。
ふ、と短いため息ひとつ。
梔子は両手で包んだ茶碗に唇を寄せた。
甘い香りの割に苦い。
まるでこの感情のよう。
そうして茶の味を楽しんでいると、座敷の端でうたた寝していた髑髏が身を起こすのが見えた。
袖で目元をこすり、座敷の中を見回してから首を傾げる。
「お手紙、たくさん……?」
「ただの書き損じですよ。よく寝られましたか?」
「うん……」
骸の手櫛を受けて、くすぐったそうに笑みを浮かべる。
「さて、そろそろに今宵の仕度をしませんと」
髑髏の簪を整えてから箪笥を見遣った骸に、珍しく梔子がクチを出した。
「今日は白抜きの、先日仕立てたものを用意なさい」
「白抜き?」
記憶を巡らせてから、あぁ、と呟く。
「そういえば、まだ袖を通してませんでしたね」
「帯は……藍の、そう、一緒に仕立てた蔦模様の」
「よく覚えてますね。そういえば選ぶ折もやけに真剣なご様子で……あぁ」
「な、何ですかその顔は」
「いえ? 何でもありませんよ」
「梔子さま、あの人に新しいお着物、見せ」
骸は素早く髑髏のクチを手で押さえ、そのまま箪笥のところまで引きずっていった。
梔子には聞こえないほど小声で何かを怒っている。
「……あそこまで聞けばわかりますよ」
そしてそれはあながち間違ってない。
常よりは瑠璃色を抑えた、全体的に白い印象を与える着物。
今まで着物など与えられるものを人形のように纏うだけだった。
それだのに、初めて自分で選んだ着物が、とある一人に見せるためだなどと。
うっすら熱を帯びる頬を押さえ、ため息ひとつ。
「私は何を期待しているのでしょうね……」
答えは見つからないまま。
「よく来てくれたな、梔子太夫」
襖を開けてすぐ目の前に、淡く朱に浮いた鼈甲の瞳があった。
酔いを帯びた呼気が唇に触れる。
「……今日はすでに飲んでおられるようで」
こうも毎回続くと慣れるもので、骸は無表情にジョットを押し遣った。
その間に髑髏に手を引かれ座敷へと入る。
「少しな」
ジョットは骸の頭を撫で回し、危うい足取りで席へと戻った。
「珍しいですね、酔ったところなど初めて拝見しました」
「昨日から飲みっぱなしでな」
「すごい……」
「しかしどこも不味い酒で、口直しに呼ばせてもらった」
「白湯でも用意させましょうか」
「いや、酒でいい」
「まだ飲むの……?」
交互に話す禿がおもしろかったのか、ジョットは珍しく声に出して笑った。
少しと言ったが、もしかするとかなり酔いが回っているのかもしれない。
新たに見せられた一面に梔子は呆れながらも、鈴を鳴らして酌を命じた。
ただし、人差し指をそっと立てて、少しだけでいいと暗に指示しておく。
髑髏は頷いて見せると、ジョットの元へと寄っていった。
「すまんな、今日は菓子を持ってきておらんのだ」
「僕らにまで気を遣っていただかなくて結構ですよ」
「太夫が大事にしている子らなのだろう、ぞんざいには扱えん」
酒を注ぎ終えた頃合いで、髑髏の頭も撫でてやる。
髑髏は桃色の頬をさらに濃く染め、黙って下を向いてしまった。
「特にお前はよく太夫を守っているしな」
「……禿ですからね」
「一度俺と手合わせしてみないか、いや、綱吉とでも構わん」
「お断りします」
聞いたことのない名前に骸を見遣ると、不機嫌そうにしながらも嫌がっているわけでないのが簡単に知れた。
そういえば、と思い出す。
最近ジョットからの文を届けに来る少年と親しくなったと髑髏が言っていた。
もしかするとその少年のことかもしれない。
「なんだ、つまらん奴だな」
「褒め言葉として預かっておきます」
「ははっ、頼もしい」
裾が割れることも厭わず立てた膝に額を落とし、けたけたと笑い続ける。
かと思うと、真剣な表情で梔子を見つめてきた。
鼓動が跳ねる。
思わず顎を引いて身構えると、柔らかく微笑みを向けられた。
「その着物、実によく似合っている。梔子は白が一番似合うのだな」
まるで少年のような。
初めて目にする、純粋な笑顔。
不意に。
梔子は、なぜだか不意に、泣きそうになった。
どうしてそんなに色々なものを見せてくれるのか。
どうしてこんな造花を愛でてくれるのか。
どうして。どうして。どうして。
唇の内側を噛んだとき、ぐらり、と金色の頭が傾いだ。
「あっ」
骸と髑髏の声が重なった瞬間には、ジョットは畳の上に倒れ伏していた。
「ちょ、この酔っ払い!」
「だ、大丈夫なの? どうしようっ」
「とにかく人を呼んできますっ」
慌ただしく骸が飛び出していった後に、
「お、お水もらってくるのっ」
髑髏も慌てて座敷から出ていってしまった。
取り残されて、二人きり。
梔子は耳を澄ませて近くに誰もいないことを確かめると、膝を擦ってジョットの近くに寄ってみた。
鼈甲の色は見えないけれど。
おそるおそる、金色の、獅子のたてがみにも似た髪に手を伸ばす。
さらさらと硬質な手触り。
一房掬い取り、身を屈めてそっとクチに当てる。
「この色……染めてもらいたくて選んだんです……」
ふ、と自嘲を吐息に乗せて呟いた、つまらない戯言。
「……ねぇ、私には過ぎた望みでしょうか」
それが、一瞬の隙となり。
鼈甲の。
驚きに手を引くより早くジョットは身を起こすと、俊敏な動きで梔子の手首を捕まえた。
「やはり、話せるのだな」
「――っ」
酔いの色などない、真剣な瞳。
完全に騙された。
しかし、それ以上に。
――やはりと、言った。
実は話せるということを見抜いていたというのか。
どこで。どうやって。なぜ。
「なぜ偽る」
力強い手を振り払うこともできず。
重ねた着物が邪魔で立つこともできない。
顎を掴まれ、額が触れるほど間近に瞳を寄せられ。
「何を、隠している」
刃のように。
貫かれた。
「……ふ、ヌフフっ」
瞬間、梔子がこぼしたのは笑い声。
「ヌハハハハっ!」
心臓は破裂しそうなほど騒いでいるのに。
「ははっ、は……」
思考はやけに冷静で。
鋭い視線を受け止め、あと一寸で唇が触れ合えるほど近くに顔を寄せ、梔子は逆に問うた。
突き放すようにも誘うような微笑みで。
「秘密を共有する覚悟、あります?」
掴まれた手首から震えは伝わってしまっているだろう。
早鐘の心中は不安で満ちている。
けれど。
賭けてみたかった。
是か非か。
造花と知ってなおこの花を愛でるのか。
今度はこちらが試す側。
「……共有、か」
そう呟くと、ジョットは唇を三日月に歪め、
「おもしろい。あぁ、ますます気に入った」
掴んだままの顎を軽く持ち上げ、重ねた。
「んっ!?」
訳もわからず反射的に、梔子は片手でその胸を突き飛ばした。
それでももう片方の拘束を解くことはできず、シャン、と鈴の音だけがただ涼やかに響いた。
覆い隠した口許から熱に、冒される感覚。
「な、何、なにをっ」
「随分ウブな反応をしてくれるな、初めてか」
「ふざけないでください!」
咄嗟に振り上げた手も捕まえられ、あまつさえ手の平に口付けまでされてしまう。
「やめっ」
「その秘密やらすべて、俺が負ってやる」
「なっ」
「だからもっと声を聞かせろ」
その場しのぎの戯言の気配など欠片もない、凛とした声音。
信じてしまいたくなる言葉に。
唐突に、理解した。
空虚な心に満ちていた感情。
これは不安などではなく。
恋しい。
愛しい。
求めて。
願い。
慕う。
人を愛する気持ち。
梔子は抵抗する気力も失い、手に触れる柔らかな熱にどこか泣きそうに笑った。
「後悔することになっても、知りませんからね……?」
それに対し、ジョットは鼈甲の目を細めつつ明瞭に答えた。
「承知の上だ」
*****
梔子はこの花街で生を受けた。
母は十で身売りされた女性で、呪い師の血を引いていたためか珍しい濃紺の髪色をしており、太夫にこそなれなかったが、それなりに客を抱えた座敷持ちの遊女であった。
その母が客の子を身篭ると、花屋の主人は愚かしくも打算を働かせた。
もしかすると、さらに毛色の珍しい商品を手に入れることができるかもしれない、と。
そして十月十日の後、その思惑通りの赤子が生まれ出た。
鮮やかな瑠璃色の髪は絹糸のように。
淡い縹色の瞳は舶来の宝石のように。
「母は言っておりました。産声もあげず、ただこの瞳で見つめてくる私に怖気が走ったと」
主人はまさに金の成る木が手に入ったと喜び、その子を太夫候補として育て上げることにした。
けれどそこには問題がひとつ――その赤子は男児であった。
花街は禿や下男以外の男が存在することは許されない、完全なる女の世界である。男が太夫になるなどあり得ない。
そのため、商品として表に出せる齢に達するまで、主人はその子を隠して育てた。
「母と私は牢のような奥座敷に閉じ込められ、母は私の世話をするだけの女に成り下がりました」
その子は成長するほどに美しくも鬼のような魅力を開花させていったが、声が変わり始めたある日、母が病に伏してしまう。
すでに商品価値のない母に主人は冷たく、医者を呼ぶことも薬を与えることもなく、やがて母は苦しみ抜いた果てに息を引き取った。
最期に、呪いの言葉を吐き出して。
――梔子は一生誰も愛さず、誰にも愛されずにここで死ぬの。
それが、最後の記憶。
「母の末路は幼い私を絶望させるのに充分でした」
この身も、この心も、自由なものなど何もない。
ならば母から与えられた梔子という名が示す通りにクチをなくし、ただ主人が望むままに美しい人形へと成り果てよう。
梔子は母のいた座敷へ移され、母の着物で飾られ、他の遊女と共に座敷へ据えられた。
どこからともなく現れた奇異な瑠璃色はすぐに噂となり、造花と知らずにあらゆる男がこぞって梔子を呼び出した。
もちろん遊女である以上必ず体を求められたが、真を知る主人は決して身を開くことを許可しなかった。
そのことがさらに噂となって客を呼び、さらに主人が跳ね馬の若旦那の思惑に乗ったこともあり、梔子の価値は瞬く間に吊り上がっていった。
梔子に入れ込んで身上を潰す者が増える一方、梔子の座敷に忍び入ろうとする不逞な輩も現れ、そして真を見てしまった者は見せしめに命を落としていった。
「昔は髪も長かったのですが、狂った男に切られて以来伸ばすこともやめました」
この瑠璃色は呪い。見た者を不幸にする禍々しい色。
「まぁ、短くしたところでどうにかなるはずもありませんでしたけど」
商品を傷つけられたことを受け、主人は梔子を守り、そして瑠璃色を際立たせる男女の禿を用意した。
兄の骸は梔子の身を、妹の髑髏は梔子の心をよく守り、二人の存在は梔子に少しずつ変化をもたらしていった。
空虚な心をわずかずつにも満たしていく何か。
そして出会う。
それは、すべてを見抜く瞳――
ジョットに呼び出される度に、梔子は短くも二人きりの時間を作らせた。
禿らは怪訝そうにしていたが切に頼む梔子に負け、あるいは梔子の変化を感じ取ったのだろう、主人には内密に大人しく廊下に控えて待っていた。
線香にして一本にも満たない時間で、少しずつ、梔子は昔話を語って聞かせた。
ジョットは表情を変えることも相槌を打つこともなく、いつものように伏し目がちに梔子を見つめたまま話を聞き続けた。
過去を吐き出すことで不安が消えていくのを感じる一方で、共有させることの罪深さが重くのしかかる。
すべて話した後に後悔したのは、梔子のほうだった。
このことが主人に知れれば、彼も殺されてしまう。
わかっていたことなのに。
「ふむ、なかなかの話の重さに正直驚いているが」
ジョットは掬い上げた梔子の手に口付け、吐息に乗せて告げた。
「言っただろう、すべて負ってやると」
想いが心に満ちて。
苦しくて、苦しくて。
「それに話を聞いて今後の動き方も決まった」
「動き方?」
「あぁ。元より計画の内だったが、これではっきり筋が見えた」
「んー、何の話です?」
「お前は静かに待っていろ。それこそクチを閉じてな」
「だから何の――」
「太夫」
襖の向こうから鋭い声が聞こえる。
途端、梔子はクチをつぐみ、ジョットの手を離して立ち上がった。
わずかに急ぎ足で外側から開けられた襖をすり抜け、廊下へと出る。
「梔子太夫」
背中から肩を掴まれ、耳元にクチを寄せて。
「もう一度来る。決して疑うな」
触れた場所から熱が広がる感覚。
梔子は小さく頷き、座敷を後にした。
それが、最後。
座敷に戻ってきた骸は、頬に赤い擦り傷を作っていた。
「骸さまっ」
「ど、どうしたのですか」
「たいしたことじゃありません」
滲む血を手で拭い、痛みに顔を歪ませる。
「髑髏、薬を用意して」
「はいっ」
「骸はこちらに来なさい」
「だから平気だと」
「来なさい」
手を引いて目の前に座らせ、傷をよく見分する。
「……誰に殴られたのですか」
「ちゃんと避けました」
「そういうことを聞いているのではありません」
「……主人ですよ、綱吉と会ってるところを見られました」
「なっ」
「あぁ、ちゃんと綱吉は無傷で帰しましたよ。逃がした、と言ったほうが適切ですかね」
「そういうことを、聞いているのではっ」
言葉にならず、畳を殴りつける。
薬を持ってきた髑髏が驚いて肩を震わせたが、構う余裕すらなく。
何度か殴りつけた末、梔子は顔を押さえたまま長く息を吐き出した。
話を語り終えたあの日以来、ジョットは一度も来ていない。
怪しい風向きを確かに感じつつも、言われた通りクチを閉じて待ち続けていた。
その折に現れたジョットの遣い。
それを目にした主人の行動。
嫌な予感。
動悸が治まるのを待ってから、梔子は静かに問うた。
「それで? 彼からの文は?」
「……取り上げられてしまいました」
一気に血の気が引く。
最悪だ。
主人は薄々感づいていたのだろう、そうでなければ文を取り上げることなどしない。
もし文に梔子の話したことが綴られていたら。
不意にジョットの言葉を思い出す。
――もう一度来る。
逆に言えば、あと一度しか来ないつもりだった。
その一度とは。
「身請けする、つもりだった……?」
馬鹿な。そこまで本気だった訳がない。
もちろん信じたい。
この身に、この心に熱を与えてくれた彼を。
だけれど、あの強欲な主人が易々と商品を手放すとは思えない。
そう、売り渡すくらいなら――
「っ太夫?」
辿り着いた結末に、目の前が真っ暗になる。
その頭に、まるで耳元で囁きかけるように、母の言葉が甦る。
誰も愛さず。
誰にも愛されず。
呪いの、その意図は。
「愛せば……殺されてしまう、から……?」
不幸な瑠璃色。
愛することで抱えた不幸を誰かに移して。
愛したものすべてを不幸にする花。
その瑠璃色にかけられた呪いはつまり。
誰も、愛せないこと。
母の呪詛はこの身を縛り心を空ろにした。
誰も愛さぬように。
不幸を撒き散らさぬように。
この梔子は。
「愚かしい……本当に愚かな夢……」
両手で顔を覆い隠し、梔子は肩を震わせた。
泣いているのかと思ったが、こぼれたのは掠れた笑い声。
「最初から何もなければよかったのに」
身も心も、何もかも。
壊れてしまえばいい。
「太夫!」
「梔子さまっ」
どうせ最初から、闇の中。