02-4 | クチ無し造花のモノ語り











*****






 わずかな衣擦れの音に瞼を持ち上げる。
 障子の向こうが薄明るい。
 やけに四肢が重く、意識がはっきりとしない。
 視界に入るのは己の腕と、皺の寄った褥と、明かりの消えた行燈のみ。
 袖を通さず、上に掛けられただけの襦袢。
 どうして。なぜ。
 考えを巡らせる前に、こめかみに柔らかいものが触れた。
 続けて、穏やかな声が耳に届く。
「起きたか?」
 頬を包まれ、天井を向くと鼈甲の瞳があった。
 ――そうか。
 あのまま、気を失っていたのか。
 思い出すと同時に、一気に顔が熱くなるのを感じる。
「あ、あのっ」
「無理に動かなくていい」
 ジョットは枕元に座ったまま、その瑠璃色の髪に指を絡ませた。
 手櫛で梳かすように、すくい上げては流れるままに落としてゆく。
「絹糸を何度藍で染めようとこうはならんのだろうな」
「……気味の悪い色でしょう」
「美しい色だ」
 ジョットはそう言って立ち上がり、窓に歩み寄って障子を開け放った。
 早朝の清々しい香りと。
「見ろ、夜明け空と同じ色だろう」
 光を背にして微笑む、伏しがちの瞳。
「その瞳もまるで、そう、晴れた日の空のようで綺麗だ」
 少年のように無邪気に。
 直感で、率直に、美しいと述べる。
 汚れない人。
 こんな造花よりも、彼のほうこそが美しいと思う。
 その光景が、窓から入り込む朝の風が。
 あるいは遠く、鳥の囀る声が。


 静かに夢の終わりを告げる。


 梔子は痛む身体を起こすと、襦袢を腰にまとわりつかせたまま凛と姿勢を正した。
 ジョットが訝しげに見つめる前で、ゆっくりと手をついて頭を下げる。
「……ありがとうございました」
「礼を言われることなど」
「貴方のおかげで私は短くも永遠の夢を見ることができました」
「……何を言っている」
「私はもう充分に満たされました」
「おい待て」
「梔子はこの箱庭で散る花なれば」
「――っ」
 ジョットは言葉を音に変えるより速く駆け、躊躇なくそのクチに指を突っ込んだ。
 一寸遅れて、ガリ、と骨を噛む音がする。
 咥内に広がる、鉄を舐めた味。
 唇を赤に染めて、顎を伝い落ちる。
 梔子はわずかに驚きつつ、縹色の瞳でジョットを見つめた。
「……なぜ止めるのか、聞きたそうな顔だな」
 痛みに耐え、そのまま指で舌を押さえつける。
「その前に質問に答えろ」
 ゆるりと瑠璃色のまつ毛が揺れる。
 それを同意と取り、ジョットは一度深く呼吸してから、鋭く梔子を睨みつけた。
「元より、このつもりで俺に身体を許したのか」
 まばたき。
「俺と共に外へ出るつもりはないと?」
 まばたき。
「俺の言葉は信用に足らぬか」
 見つめたまま。
「ではなぜ、どうして――」
 何かが思い当たったのか。
 ジョットは眉間に深く皺を刻み、最後の問いをクチにした。
「それは……お前が梔子だからか」
 目を閉じる。


 彼と共に生きることもまたひとつの道だろう。
 けれど、梔子として生きてきた時間がすべて今更だと嘲笑う。
 花として生まれ育てられたこの身が、外の世界で生きていけるわけがないだろう、と。
 ――その通りだ。
 ただの花が、それも造花がどうやって生きていける。
 それに己の生き方を受け入れた時、既に覚悟していた。
 梔子はその花を咲かせた時が、最期だと。
 代わる代わる別な男に身を開くなど怖気が走る。
 ならばと。
 たったひとりの為に咲き、そして散ることを望んだ。
 望みが叶った今、他に何を求める。


「……ふざけるな、このっ、痴れ者が!」
 舌が自由になった瞬間。
 高い音が。
 刺すような痛み。
 緩慢な動作で、梔子はその頬に触れた。
「飾るだけの花など最初から欲しておらんわ!」
 首を鷲掴み、額をぶつけんばかりの勢いで間近から睨みつける。
「俺が欲したのは容易く枯れる花ではない」
 橙色の炎が。
 爛々と。
「……では、なおさら私など」
「黙れ!」
 喉が握り潰され、息苦しさに咳がこぼれる。
「お前はお前の価値を見誤っている」
「か、ち……?」
「お前、人の心が読めるだろう」
「……なに?」
「妖術や神通力の類でなく、けれど常人にはない力だ」
 梔子の眉が怪訝に歪む。
「加えて長年、語らずに人を騙し続けてきた度胸と技量、そして経験」
 首を絞める力が緩まる。
「瞬く間に人を魅了し、さらに仕草や鈴で心を操るわざ」
 唇が触れそうなほど近い距離で、真っ直ぐに視線を絡め。
「俺が欲しいのはお前だ」
 真を告げる。
「――デイモン」


 白い花弁が。


「……ま、」
 喉が痙攣し、声が震える。
 花弁が舞い落ちる。
「待って、待ってください、い、意味がわかりません」
 視線を外し、髪をかき上げるように頭を押さえる。
 何枚も、何枚も、落ちてゆく。
 混乱。
「それは、でも、生きてゆくために必要であっただけで、」
 強い香りを放って白い花が散ってゆく。
 困惑。
 幾重にも梔子の花弁で隠し閉じ込めたものが。
 焦燥と惑う。
「天賦の才を経験で裏付けた確かな能力だ、デイモン」
「その名で呼ばないでください!」
 心音が耳にうるさい。
 落ち着け。
 よく考えろ。
 最初から――
「……待って、待ちなさい、ジョット、貴方は」
 思い出す。
 常に向けられていた目。
 次々と試そうとする態度。
 あの目が見抜こうとしていたのは。
 あの態度が引き出そうとしていたのは。
「最初から「私」を……?」
 鼈甲が緩やかに笑む。
「なんだ、あどけない顔もできるのだな、デイモン」


 はらりと、最後の一枚が、落ちた。


 その瞬間、背後の襖が大きな音と共に倒れ込んできた。
 思わず身を固くしたデイモンに、ジョットが慌てて抱き寄せるようにして襦袢を羽織らせる。
 すっかり明るくなった室内に視線を落としつつ、襖を踏み倒した男は特に何かを気にした様子もなく、
「よう」
 煙管を咥えたまま片手を持ち上げた。
「き、貴様はっ、本当にっ、間の悪いっ……!」
「まだ説得できてねぇのかよ鈍間」
「黙れあとひと押しだ。それよりあっち向いてろこっち見るな」
 まるで猫を追い払うように手を振る。
 しかし従う素振りも見せず、男は敷居の上にしゃがんでデイモンを眺めた。
「へぇ? なかなかの上玉じゃねぇか」
 訝しげに見つめるデイモンの瞳を真っ向から受け止め、にやりと笑う。
 燃えるような濃紅の髪に同色の瞳、右頬には炎のような刺青。中性的で整った顔立ちだが態度と目つきと言葉がやけに悪い。
 そういえば、時折ジョットの話にこんな男が出てきていたような。
「それより着物は」
「おらよ」
 彼は小脇に抱えていた風呂敷を丸ごとジョットに投げて寄越した。
「けどそれ男物だぜ? 女に着せるつもりか?」
「まぁな」
 笑うジョットからそっと身を離し、デイモンは勝手に風呂敷の結びを解いた。
 卯の花色の羽織に濃藍の着物と、薄藍地に銀糸で雪花模様を描いた帯、同じ柄の襦袢まで入っている。
 誰のために用意したものか、確認せずともわかる。
 白が似合うと、言ってくれたのは。
「……ねぇ、ジョット」
 それを少しずつ広げながら。
「何だ?」
 俯いたままデイモンは感情のない声で言葉を紡いだ。
「私、貴方のこと殺したいほど憎いと思っています」
 瞬時に背中に殺気が刺さる。
 けれど、ジョットは男を一瞥して制し、デイモンに続きを促した。
「……貴方に連れ出されるなど怖気がします、それに引き換えここでの暮らしは楽でいい」
 下を向いたまま、淡々と。
「クチを閉じ、身も心の空にしていれば、苦しいことは何もありません」
 その手がジョットの着物を握りしめる。
 きつく、皺を刻みつけるほどに。
「ですから外の世界などに興味はありませんし、連れ出してほしいと願うことも、貴方と共に生きるつもりもありません」
 俯くほどに瑠璃色の髪が流れ落ちて、白いうなじが露わになる。
 ふ、と嘲笑にも似た吐息。
「私は誰も愛さず、誰にも愛されずに枯れる、小さな花です」
 ジョットが無言でその頬に触れると、肩がわずかに震え、言葉が止まった。
 ゆっくりとした呼吸音。
 心音。
 静かに。
「……ねぇ」
 ゆっくりと顔を上げると、デイモンは上目遣いに微笑んだ。
「このようなどうしようもない大嘘つきでも、本当に、よろしいのですか?」
 梔子とはまったく違う。
 香り高くも触れる者すべてを容赦なく傷つける棘のある花。
 清らかにも妖艶な花が、そこに、咲き誇っていた。
 その毒々しさに一瞬呆気に取られて、けれど、ジョットはすぐに口許を笑みに歪めて頷いた。
「もちろんだ。俺の目的は最初から、その大嘘つきなのだからな」
「んー、本当に愚かな人ですね」
 鈴が転がるように笑いながら頬に当てられた手を取り、すでに血の止まった傷口を唇で食む。
「触れる度に怪我をしますよ?」
「言っただろう、飾るだけの花などいらないと」
「酔狂な」
 重ねようとする唇を避けて後ろを振り返り、デイモンは小馬鹿にした表情で告げた。
「生憎、他の男に見せられるほど安い身体ではありませんので、即刻外していただけます?」
「なっ」
 濃紅の瞳を驚きに染め、男はジョットを睨みつけた。
「テメェえらく趣味が悪くなったもんだな」
「この棘がたまらんのだろうが」
「馬鹿か」
 短く吐き捨て、さっさと廊下へと出て行ってしまう。
 襖は開けたままだが、一応背中を向けてこちらを見ないようにしていることを確認してから、デイモンは羽織っていた襦袢を落として立ち上がった。
 下半身が痺れるように痛んで、わずかによろめく。
「大丈夫か?」
「平気です」
 今度はしっかりと立って、改めて己の身体を見下ろす。
 真白い肌のあちこちに散る痕は、指で触れると鈍く痛んだ。
 それだけなのに昨夜の情事が思い出されて、少しだけ頭が熱くなる。
「これ、ちゃんと消えますよね……?」
「あぁ、消えたらまたつけるがな」
 じとりとねめつけるのを飄々とかわし、ジョットは包みの中から雪花の襦袢を取って渡した。
「骸から聞いた寸法で仕立ててある。丈が合っていると良いが」
 たまに文を持って出て行くのを見ていたが、まさかこんなことだったとは。
 デイモンは受け取った紐で胸の下を締めながら、二人の禿のことを思い出した。
 口うるさく可愛げのない男児の禿と、内気で可愛らしい女児の禿。
 ずっと共にいてくれた、子ども。
「……ジョット、ひとつ、お願いがあるのですけれど」
「何だ?」
 続けて手渡された濃藍の長着に袖を通してから、ふと、デイモンの動きが止まった。
「どうした」
「……どうしましょう……私、男物の着方がわかりません……」
「なんだと?」
「だ、だって、今まで一度も着たことがないんですよっ?」
「そういうことだろうと思いましたよ」
「えっ?」
 驚いて声のしたほうを見遣ると、随分と動きやすそうな格好をした骸が呆れ顔で立っていた。
 濃紅の男を押しやって遠慮なく座敷に踏み入り、デイモンの前に立ってから、やはり遠慮なく長着を脱がせる。
 ジョットが驚いて立ち上がりかけたが、長い間禿として扱ってきた子どもを今さら男と見るわけもなく、デイモンは抵抗もなく引かれるままに長着から腕を抜いた。
「襦袢からして間違ってるじゃないですか」
 昨夜はあれほどまで躊躇っていた紐も容易に解かせる。
 今までデイモンの世話をしてきたのだから当然だと理解しつつも、ジョットは余所を向いて奥歯を軋ませた。
「骸、え、どうしたのですか、その格好は」
「外に行くのにいつもの格好では動けない上に目立つでしょう」
 確かに禿の衣装では行動しづらいところがあるが、しかし、普段着でも今のような着物は見たことがない。
 それは初めて見る、男の格好。
「そうしていると……そうですか……お前も男児だったのですね……」
「じろじろ見ないでください気持ち悪い」
 襟の位置を変え、改めて普段より低い位置で紐を締め直す。
「腕通して」
「はいはい」
 濃藍の長着も同様の無地のようだが、光の加減で裾に雪花の模様が見えた。
「それより、外へ行くとはどういうことですか?」
 促されるままに合わせを押さえ、紐で締められるのを見下ろしながら問う。
 すると、骸は一瞬きょとんとしてから、眉間に皺を寄せた。
「ひとりで、出ていくつもりだったんですか」
「まさかっ、今、ジョットにお願いしようと――」
 はたと気づいて見遣ると、ジョットはあぐらの上に頬杖をついて素っ気なく答えた。
「あぁそうだ、子どもらも連れて行く」
 なぜか苛立った様子で息を吐き出して。
「可愛い孫の頼みでもあったしな」
「クフフ、感謝してますよ」
「だったら早く着付けてデイモンから離れろ」
「デイモン?」
「私の名ですよ、本当の」
 骸はわずかに色違いの目を見開いて、それからゆっくりと細めた。
「だから雰囲気が異なっていたんですね」
「わかるのですか?」
「えぇ、次はここ持ってください」
 腹の位置で帯を押さえさせたまま、骸はデイモンの後ろに回った。
 手際良く結び目を整えてゆく。
「どこか憑き物が落ちたような感じがします」
「憑き物……」
 梔子の名にかけられた呪い。
 もうすでに枯れて散ってしまった花。
「そうですね……」
 さすがにすべて消えてしまったわけではないが、心意気が改まったような感覚。
 梔子に包んでいただけで最初からあった性根。
 それが表に出ただけで何が変わったわけでもないのに。
「できましたよ」
 最後に整え直した襟元を軽く叩き、骸はデイモンから離れた。
「男物など初めて着ました……」
 デイモンは袖を振ったり背中を見下ろしたりと、戸惑いながらも嬉しそうに頬を染めた。
 これほど動きやすいのは初めてだ。
 それに――
 ジョットは立ち上がると残っていた羽織を肩にかけてやった。
「よく似合っている」
「……んー、なぜだか、白を着ているのに、」
 羽織を引き寄せつつ、デイモンは思ったままに言葉をこぼした。
「すでに貴方の色に染められてしまった気分です……」
 深い意味も意図もなく、ただそう思っただけだったのだが。
 ジョットは一瞬表情を固くすると、そのままデイモンを腕の中に閉じ込めた。
「じ、ジョットっ」
「あまりの愛おしさに今すぐ抱きたくなってきた」
「ばっ、子どもの前で何ということをっ」
「お前もあの一回では足らんだろう、他にもやりたい体位が」
「黙りなさい!」
 加減なく突き飛ばし、痛む下半身を引きずるようにして、足早に座敷の間へと逃げる。
 そもそも、ずっと褥のそばにいるのは恥ずかしくて仕方なかったのだ。
 冷静になればなるほどに思考が沸騰しそうになる。
 あんな、こと。
「そ、それより!」
 座敷の中央で振り返って睨みつける。
「説明してください。私とあの子ら、貴方は三人も身請けたのですか?」
「いや? まぁ最初は穏便に済ますつもりだったんだが」
 まるで散歩するようにゆっくり近寄りながら、ジョットは肩を竦めた。
「あの主人め、あり得ん高値をふっかけてきた上に刺客まで放ちよった」
「やはり……」
「花街の用心棒程度、俺の敵ではなかったが腹が立ったのは確かだ」
 朝日を吸い込み、鼈甲の瞳が剣呑と光る。
「お前を得るためなら手段を選ぶつもりもなかったしな」
「んー、つまり? 何をしたのですか?」
「お前から聞いた話もあったしな、すべての悪事を暴いてやった。あぁ、調べれば調べるほど真っ黒だったぞ」
 金のためなら男を女と偽り、知った者をすべて葬ってきた男だ、悪事の内容は相当なものだったのだろう。
 ひとりの女すら見殺しにするほどに。
「……あの子どもも、攫い子だったしな」
「なっ」
 驚いて骸を見遣ると、複雑な笑みを返してきた。
「元より親なしではありましたがね」
「そのような話、一度も聞いていません」
「言えばあなたのことだから自分を責めたでしょう」
「それは……」
「そうやって落ち込まれると面倒ですし、それにね」
 骸は腰に手を当て、いつものように嫌味な調子で言った。
「楽しかったんですよ、そんなこと関係ないぐらいに」
「骸……」
「それで、だ」
 デイモンの肩を掴んで無理やり自分のほうを向かせ、ジョットは話を続けた。
「梔子に宛てたように見せかけて主人に揺すぶりをかけてやった」
「最後の、あの文ですか」
「あぁ、俺が生きていると知れば取り上げるだろうことは容易に想像できたしな」
 戸口から痛い視線を感じて見遣ると、骸がかなり鋭い視線でジョットを睨みつけていた。
 おそらくはあの時に殴られたことが無駄だったと知って怒っているのだろう。
「しかし主人が動くまでやけに時間がかかってな」
「んー、おおかたあちらこちらに隠した金を掻き集めていたのでしょう」
「よくわかるな、その通りだ」
 関心しつつも、デイモンに寄りかかるように俯いてため息を落とす。
「その一方で俺は出入り禁止にされるし、お前が毎夜抱かれているという噂を耳にするし」
「はぁ!?」
「あの噂ちゃんと流れてたんですか」
「骸!?」
「おびき出せるかと思いまして」
「そっ、それにしたって、そんなっ」
 言葉にならずにジョットの着物の袖を握りしめる。
 このような外聞を聞かされるとは辱めにも程がある。
 しかも好いた者の前で。
 ジョットはあやすようにデイモンの髪を撫でた。
「まったくの嘘であることは昨夜充分に思い知ったから安心しろ」
 ついでに腰を撫でようとした手を黙って払う。
 もしかすると、とんだ好色に捕まってしまったのかもしれない。
「……まぁ、先に跳ね馬に話を通していた分、動いてからの展開は早くてな」
 ジョットの友人であり、この花街を仕切る一派の頭。彼に黙って事を進めることはその顔に泥を塗ることにもなりかねない。
 筋というものを通すに越したことは――
「……なるほど」
 花街であっても仁義にもとる行いを見逃せない性分の跳ね馬は、時折、名こそ出さなかったが主人のことを愚痴ることがあった。
 つまり。
 梔子が欲しいジョットと、膿を出したい跳ね馬。
 今回の一件に関して、二人の間で密約があったということか。
「結構な策士ですね」
 ふ、と笑う吐息がジョットの笑んだ唇にかかる。
「俺ができるのはこの程度だ」
 お前ならもっとうまくやるのだろう、と暗に言い含めてジョットは軽く唇に触れてきた。
「ばっ」
 逃げる顎を捕えてもう一度、今度は深く重ねる。
「んっ、んぁっ、離しなさい!」
 再度突き飛ばそうとする前に、小気味良い音がジョットの後頭部を叩いた。
「いっ――」
「朝っぱらから盛ってんじゃねぇよ」
「きっ、きさまっ」
「言われた通りとっ捕まえた男は跳ね馬に引き渡しといたぜ」
 手の上で器用に煙管を回してから帯に差し、濃紅の男はジョットの襟首を掴んでデイモンから引き剥がした。
「は、離せっ」
「離してんじゃねぇか、ったく餓鬼の教育に悪ぃだろーがよ」
「そっちの離すではないっ!」
「梔子さま!」
 振り向くより早く、脇腹に誰かが抱きついてきた。
 誰かと確認せずともわかる。
「髑髏」
 骸と同様に禿の衣装でなく町娘の格好をした髑髏は、デイモンの声が聞けたことでさらに安心したのか、ぼろぼろと泣き出してしまった。
「よかった、よかったのぉ」
「心配をかけましたね……」
 その頭を優しく撫でてやりながら戸口を見遣ると、ジョットとよく似た面影の少年が骸と何か話をしていた。
 彼が例の綱吉という少年だろうか。
 それにしても、彼と話す骸の表情が柔らかく見える。
「髑髏、あまり泣いては可愛い顔が台無しですよ」
 目の高さを合わせるようにしゃがみ、袖で目許をそっと拭ってやる。
 髑髏も自分の袖で涙を拭ってから、ふと、きょとんと目を丸くした。
「梔子さま、男の人の格好してる?」
「えぇ、似合いますか?」
「うん、すごい、男の人みたい」
 みたいではなく本当に男なのだけれど。
 どう言ったものかと困るデイモンの耳に、二人分の笑い声が届いてきた。
「髑髏、太夫は最初から男性ですよ」
「あっ、そっか」
「元より女顔だからな」
「そう思うのでしたら女物を用意すればよかったでしょう」
 立ち上がって骸と、それからジョットを睨みつける。
「いや、」
 ジョットは飄々と笑って視線をかわし、
「俺が連れて行くのは梔子でなくデイモン、お前なのだからな」
 襟首を掴まれたまま格好をつけるように言った。
 デイモンは己のクチから、うわぁ、と呟きが落ちるのを自覚しながら、なぜこのような者に惚れてしまったのかと過去を思い返した。
 我が強く自分勝手で決めたら真っ直ぐそこに向かって進み他の道を選ぼうともしない。
 多少頭が切れるようだが情に流される節も見受けられる。
 それに、その、夜は、かなり、あれだし。
 とにかく総合的に見ても惚れる要素はどこにもなかったはずなのに。
 それだのに。
 どう思考を巡らせようと行き着く結論はひとつだけ。
「まぁ、その色々あったが、主人のいない花屋に花は必要ない。他の遊女も跳ね馬が良いように取り計らうと言っていた」
 なんとか濃紅の男の手を逃れ、ジョットは髑髏の背を押すように戸口へ向かった。
 待っていた綱吉の頭を撫で、骸の肩を軽く叩く。
「そして、お前たちは俺と共に」
 最後にデイモンに向かって手を伸ばして微笑む。
「行くぞ」
 鼈甲色の瞳。
 最初に見た時から変わらない。
 心に落ちた気持ちも。
 デイモンは呆れたように縹色の目を細めて、その手を取った。





「あぁ、そうだ」
 静かな廊下を進みながら、ジョットが思い出したように言った。
「お前の母君の言葉だが、俺にはどうも呪詛に聞こえんかった」
「え……?」
「梔子は、と言ったのだろう?」
「え、えぇ」
「ここで、というのにも引っ掛かったんだが」
 顎に手を当てて短く呻く。
「母君はおそらく、お前がデイモンとして、ここを出て行くことを望んでいたのではなかろうか」


 ――梔子は一生誰も愛さず、誰にも愛されずにここで死ぬの。


 強く、痛いほど強く手を握りしめて。
 最期の、あの時、母は微笑んでいなかったか。
 泣きそうに、願うように、言っていなかったか。


 ――だからデイモン、お前は偽ることなく誰かを愛し、愛されて、幸せになりなさい。


 不意に思い出された言葉に、デイモンは思わず足を止めてしまった。
 前触れもなく視界が滲む。
「私は、わたしっ、は、」
「愛されていたよ。母君は確かにお前を愛していた」
 繋いだままの手の甲に唇の感触。
 もう片方の袖で顔を隠して。
「そうでなければ真の名などつけないだろう?」
 髪を撫でる優しい手。
 愛おしげに名を呼ぶ声。
 忘れていた思い出に静かに涙がこぼれ落ちる。
 なのに。
 くす、と隣でジョットが笑う声。
「よかったな、デイモン」
 知らず笑んでいた口許に指を当て、驚きつつもデイモンは頷いた。
 ずっとこの身を、この心を蝕んでいた呪い。
 それが。
 この身は最初から、誰にも何にも呪われてなどいなかったのだと。
 やっと教えてもらえた。
「ありがとう、ございます」
「礼を言われることは」
「ジョット」
 涙を拭い、デイモンは頬を紅に染めて笑んだ。
「私、貴方のことを愛してます」
 ジョットの目が驚きに見開かれる。
 その表情がおかしくて。おかしくて。
「ヌフフっ」
 まばたきひとつ、棘のある笑みに変えると。
「嘘ですけどね」
 デイモンは、ふい、と視線をそらせた。
 慌ててジョットがその頬を包んでこちらを向かせて問い詰める。
「う、嘘ではないだろうっ」
「おや、嘘つきをご所望だったのでは?」
「そうだが、いや、俺には嘘をつくなっ」
「んー、ではこう言いましょうか、大嫌いです」
「デイモン!」
 強く引かれるままに、口付けを受け入れる。
 深く絡めてから。
 名残惜しげに離れつつ。
 繋いだ手に力を込める。
「……ずっと離さないでください」
「承知している」
「ずっと、愛してください」
「当然だ」
 視線を交わして。
 ふ、とどちらからでもなく笑みをこぼしてから。
 二人は再び歩き出した。










 幾度目かの季節を過ぎてやっと。





 身も心も満ちて自由に。










― 了 ―





× × ×

Hの時あれスペたんMに目覚めてますよね。



はい!長い長い話に関わらず最後まで読んでくださってありがとうございました!

まずは発端、ついったーにてしのつきをたぎらしてくださいました御二方に多大なる感謝を。
お二人がいなければこのような形にはならなかったでしょう。
えぇ、本当に、感謝しても尽きません。

次に、読んでくださったすべての方々に謝罪を。
ほんっとうにすみません本文もエロも内容ないくせに長ったらしくて!
削るのが面倒だったとかそんなことは一切ないんですよたぶん嘘ですけどっ

orz三ドゲザー

以上!ありがとうございました!しばらく長編控えます!!




( cautions ) 1  2  3  → ●◆◆◆◇