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一座の踊り子から産まれたデイモンは、それはそれは皆に愛されて育った。
母や他の女たちの真似をして踊りを覚え、屈強な男たちからは身を守る術を叩き込まれた。
やがて母はとある街で男に求婚され、デイモンに道を選ばせた。
母と共にこの地に残るか、一座と共に旅を続けるか。
時に厳しく、時に優しく接してくれる彼女のことは大好きだった。
尊敬し、愛しているからこそ、最上の幸せを願うのは当然のことで。
――どうか、末永く。
新しい幸せを祝福するためにも。
デイモンは迷わず“剣の者”の道を選び取った。
「ほら、ぼけっとしてないで食べる、お肉は? お魚も食べた?」
歳が近く世話焼きの踊り子に次々と料理を差し出され、デイモンは困ったように手を振った。
「もういっぱいです、大丈夫、たくさん食べましたから」
「ダメよぉ、あなたはもっと太って筋肉つけなきゃあ」
舞いを披露した後、広間は酒宴の場へと雰囲気を変えていた。
ねぎらう様にカゴいっぱいの果物やパン、それに樽いっぱいの酒が振る舞われる。
本来ならデイモンも踊り子たちに混ざって酌に回るのだが。
どうにもジョットの言葉が胸に引っかかったせいで、できるだけ主催から離れた席で目立たぬようにしていた。
別に彼のことを信じたわけではない。
心配事はないに越したことはないと思っただけで。
深い意味はない。
ないはずだけれど。
酒器に注がれた果実酒を一口舐めて、思考がすべて自分に対する言い訳なのだと気がつく。
どうして、無視すればいいことをこんなに悶々と考えてしまうのか。
デイモンは外していた紗を結び直すと、静かに席を立った。
皆が嬉しそうに騒ぐ空気は好きだけれど、なんとなく、風に当たりたくなったというか。
「あら、外に行くの?」
途中で面倒役の女性に呼び止められ、足を止めて微笑んでみせる。
「少しだけ」
「何か悩み事?」
「んー?」
「そういう顔、してるわよ?」
一体どういう顔になっているのか、触れてみたけれどわからない。
不思議そうに頬を揉むデイモンに笑って、
「素敵な答えが出ることを祈ってるわ」
面倒役は纏っていたストールをデイモンに巻きつけ、軽く頬に口付けた。
「体、冷やさないようにね」
「……ありがとうございます」
礼を述べて口付けを返し、デイモンは庭に向けて開け放たれたままの窓から外へと出た。
涼しい夜風と、草花の香り。
宴の熱気にあてられた頬を冷やし、天蓋の丸い月を仰ぐ。
今宵の月はやや黄みを帯びていて、自然と彼の瞳が思い出された。
「……んー?」
なぜ、ここで、彼のことが思い出されたのだろう。
生け垣の中で咲く花へと視線を落とし、デイモンは無意識に首を傾げた。
最近、どうにもおかしい。
ふとした拍子に、彼のことを思い出すことがある。
彼が熱心に自分を口説こうとしているから、きっと、そのせいだと一度は結論を出したけれど。
それにしては、毎度こうして、鼓動が少し速くなってしまうのはどうしてだろう。
「……ほだされかけて、いるのでしょうか」
正直なところ、彼のことは嫌いではない。
歯に衣着せぬ物言いや、好意を包み隠さない態度には辟易するけれど。
その実直さ、誠実さに関して言えば、充分に信頼できる人物だと思う。
こんな人を好きになれたらと、少しは、考えたりもした。
「でも、無理でしょう……どう考えても……」
同性だし、立場が違いすぎるし、どうせ遊びのつもりだと。
彼を信じきれない自分が、思考を陰鬱に塗り潰してしまう。
もう一度月を見上げ、せめて心残りなく別れるにはどうすればいいかと考えていたとき。
「貴様、本当は男らしいな」
背後から、どこか神経に障る声が聞こえた。
振り向いた瞬間に眉根を寄せる。
先ほどデイモンが出てきた窓から、この館の主――マルシェが護衛を従えて歩み寄ってきていた。
その頭に飾られた趣味の悪い帽子に見覚えはあるけれど、どこで見たのだろうか。
「……本当も何も、隠してなどいませんが」
記憶を手繰りながら、片手で剣の鞘を握りしめて警戒を露わにする。
「言われてみれば胸も尻も、えらく小さいな」
しかしマルシェは警戒も気にせず、下卑た笑い声を響かせた。
その、笑い方。
一瞬、記憶の端にジョットの姿が掠めて。
――そうだ、思い出した。
確か初日の公演のとき、ジョットの腕に体をぶつけてしまう直前に見た、踊り子に手を出そうとした男だ。
やっと確信を得て、デイモンは顎を上げて不敵に微笑んでみせた。
「んー、また帽子を跳ね飛ばされたいのですか?」
わざとらしい挑発に乗る様子もなく、マルシェは値踏みするような目でこちらを見つめてきた。
ぞくり、と寒気が走る。
過去に幾度か向けられたことのある、粘ついたいやらしい視線。
このような気持ち悪い目をする男は決まって同じ台詞を口にする。
そしてマルシェも例外でなく。
「まぁこれなら、男だと言われても抱けるだろうな」
「黙りなさい」
デイモンは発声と同時に剣を抜き突きつけようとした。
しかし、いつの間に背後に立たれていたのか、他の護衛に手首を掴み上げられてしまった。
「なっ!?」
手から落ちた剣が足元の石に当たり、キン、と短い金属音が鳴り響く。
「は、離しなさい!」
慌てて振りほどこうとしても、縄で拘束されたかのように、びくともしない。
何とかしようと暴れる間に、マルシェは悠々と歩いて近寄り、落ちた剣を拾い上げた。
「……やはり、な」
芋虫ほどに太った指で、刃の部分をなぞってみせる。
相手の意図を悟った瞬間、デイモンはきつく唇を噛みしめた。
「この剣、まったく研いでおらんではないか」
その言葉を証明するように、刃をなぞった指からは一滴の血も落ちる様子がなかった。
言い訳はたくさんあったけれど、そのすべてを飲み込み、デイモンはマルシェをきつく睨みつけた。
「まぁ普通に考えればわかることだよなぁ」
片手で持った剣を、不細工な剣舞のように振り回す。
「道具が客を傷つけていい訳ないもんなぁ、切っちゃいけないもんなぁ」
まったくもってその通りだ。
あの剣は、今まで一度だって研がれたことはない。
“剣の者”が守れるものなど、結局は場の空気と体裁だけだ。
悔しさにただ睨みつけるデイモンの視線の先で、マルシェは笑って剣を構えた。
「さて、確かめさせてもらおうかな」
「確かめる……っ!?」
怪訝に眉をひそめた隙に、背後の男にもう片方の手も掴み上げられてしまった。
せっかく面倒役にもらったストールが足元に落ちてしまう。
「やめっ、離しなさい!」
引いても押しても岩のように動かない。
その間にもマルシェは歩み寄って来ていて。
「貴様にも男の証拠が付いているか、触ってみないと、なぁ?」
腕が使えないのなら。
「私に、触るな!」
デイモンは伸びてきた手を膝で蹴り退け、
「うわぁっ!」
振り下ろしたかかとを、マルシェのこめかみの真横で寸止めした。
風圧だけが、悪趣味な帽子を地面に落としてしまう。
護衛の男たちを眼光で牽制し、最後にマルシェへと視線を向けて告げる。
「……私に指ひとつでも触れてご覧なさい、仲間たちが黙っていませんよ」
ここにはひとりできたわけではない。
腹から叫び声を上げれば、すぐに座長や他の皆が飛んでくる違いない。
今までだって、本当に危なくなれば誰かが助けてくれた。
踊り子を複数人まとめて抱え上げられるほど筋骨隆々とした男共には、この護衛たちでも敵うまい。
ジョットが心配していた危険も、回避できる。
脅しが効いたのか、マルシェは大人しく手を下げた。
「わかればいいのです」
とりあえず安堵し、靴を地につけたとき、
「座長の許しは、得ている」
あり得ない言葉が鼓膜を震わせた。
一瞬理解できず、見開いた目でマルシェを見返す。
何を言った。
何と言った。
聞きたいことは多々あるのに、驚きに喉が詰まって、一音も声が出ない。
その様子が気に入ったのか、マルシェは上機嫌で残酷な言葉を続けた。
「金を掴ませたら喜んで、ぜひとも女にしてやってくださぁい、だと」
下品に笑いながら、デイモンのズボンの留め紐に構えた剣の先を引っかける。
「なかなか高い買い物だったが、それなりに楽しめそうだなぁ?」
このままでは、されるがままだ。
嫌だ。
怖い。
なのに、どうすればいいのか。
ゆっくりと紐がほどけていくのを、せめて涙をこらえて見下ろしていた視界の端に。
瞬間。
金色の獅子が映った。
獅子は塀の上から素早く飛び降りてくると、最初にマルシェを蹴り倒し、その反動で宙に舞い上がった。
真っ黒な外套が翻って。
すぐさに、デイモンの両腕を握る男の頭を掴み、怯んで手を離した隙に地面へと押し倒してしまう。
何が起こったか理解する隙もなく。
一瞬の着地と跳躍を繰り返して、ただ肉に拳を埋める音だけを連続的に響かせて。
デイモン以外の全員を地に伏せさせると、最後に、倒れたままのマルシェの首に手を乗せて動きを止めた。
ふわり、と。
風の止まった夜の中、獅子は静かに問うた。
「どうする? このまま殺すか? それとも慈悲を与えるか?」
研ぎ澄まされた声音。
デイモンは我に返ると同時に、獅子の正体を口にしていた。
「ジョット……」
正気に戻ったものの、なおも疑問が尽きない。
困惑するデイモンに、ジョットは短く告げた。
「望め、すべてはお前次第だ」
手に力を込めたのか、短い悲鳴が漏れ聞こえた。
どうしてここにいるのか。
なぜ助けたのか。
どうして。
なぜ。
重なる疑問はすべて、逃避の表れで。
デイモンは深呼吸と共に心を鎮め、ゆっくりと、静かに首を振った。
「……そのような下衆に、貴方の手を汚す必要は、ない」
「そうか、承知した」
ジョットは首から離した手で胸倉を掴み上げ、その顎に向けて軽く拳を振るった。
小気味いい音が響いて。
マルシェはぐるりと白目を剥くと、そのまま気を失ってしまった。
何をどうしたかわからないが、一発で人を気絶させる技なのだろう。
ぼんやり考えている内にジョットは立ち上がって外套の裾を払い、こちらに歩み寄って笑った。
「出過ぎた真似だったか?」
「……そう、ですね」
おそらくひとりでは、きっと、抵抗もできないまま消えない傷を負わされていただろう。
心にも、身体にも。
そのまま、もしかしたら、囲われてしまったかもしれない。
そんな、最悪の事態から救ってもらったのだから、感謝の言葉くらい渡さなければいけないと。
頭では思ってるのだけれど。
そこまで気が回らない。
ちらり、と部屋の方を見遣るけれど。
どうして、足が、動かない。
ジョットは短く息を吐いて足元のストールを拾い上げると、何度か塵を払ってからデイモンの両肩を包んだ。
「夜は冷える、ほら、ここは俺に任せて、早く部屋に戻れ」
頷こうとしても。
答えようとしても。
体は岩になったかのように、一歩たりとも動かない。
この心を占めるのはたったひとつ――怖い、という感情。
男に拘束されたことではなく、貞操を奪われかけたことでもなく。
――本当に、自分は金なんかで売られてしまったのだろうか。
確かめたいけれど、真実を知ることが怖い。
もしも、最も信じる人に裏切られていたとしたら。
「……座長とやらは、信頼に足る人物か?」
「少なくとも……私は、信じていたつもりです」
「ならば奴の方便ということもあり得るだろう」
自分だって、マルシェの戯言だったと思いたい。
思いたいのに、怖くて、どうしても動けない。
どうすればいい。
一体どうしたら、傷つかない答えを得られるのか。
震えながらもなんとか動かした手は、いつの間にか、ジョットの服を掴んでいた。
こんなに弱い自分を笑うだろうか。
けれど、彼ならばと。
自覚もなくすがるデイモンに、ジョットは安心させるよう微笑んでみせた。
「ならば、俺が聞いてこよう」
「……え?」
「そうだな、いくらでお前を売ってくれるか、聞いてみようか!」
「は!? ちょ、ちょっと!?」
止める手すら間に合わず、ジョットは唐突に走り出して部屋の中へと消えていった。
踊り子のはしゃぐ声が湧いて。
少し静かになったかと思うと、聞き覚えのある怒声とテーブルの倒れる音が響いてきた。
「なっ!?」
驚きに駆け出そうとしたデイモンの目の前に再びジョットが現れ、それを追いかけるように座長と他の団員たちも庭に飛び出てきた。
「やはり違ったぞデイモン」
すれ違う耳元に嬉しそうに囁いて、
「いくら積まれようとお前は誰にも渡せないと、だから、安心しろ」
ジョットは高い塀の上に飛び乗ると、そのまま夜闇へと姿を消してしまった。
一体中で何があったのかと、誰かに尋ねる暇もなく。
「デイモン! 無事か!?」
「大丈夫なの!? 怪我はない!?」
「うわ、なんで倒れてんだこいつら?」
「ちょっと腰の紐が、まさかあの人に!?」
皆に取り囲まれ、逆に質問攻めされてしまう。
そのひとつひとつに、動揺しつつも首を横に振っていると、
「デイモン大丈夫? 怖かったわね?」
面倒役がふくよかな胸にデイモンを抱き寄せた。
優しいぬくもりが、浸透して。
不意に、心のしこりが涙とともにポロリと落ちた。
「で、デイモンっ?」
「どうした? やっぱ怪我ァしてんのか!?」
手の平で涙を拭い、なおも首を横に振る。
自分は、誰にも裏切られてなどいなかった。
そう安堵すると共に、少しでも不安に駆られたことが恥ずかしくて。
俯いて首を振り続けていると、ショックで何も言えないのだと勘違いした座長が、さらに顔を赤くして声を荒げた。
「ウチの子を泣かせやがって許せねぇ!」
「早くとっ捕まえてボコってやろうぜ!」
「いいぞやっちゃえ!」
「やっちゃえー!」
「ち、違いますっ」
血気盛んな座長の服を掴んで、デイモンは慌てて制止した。
「あの人は、違うんですっ」
「あんな奴庇わなくても」
「そうではな――」
ふと、回り出した思考に言葉が止まる。
今までのことが、次々と脳裏によみがえって。
ほんの短い期間だけれど。
その間に、毎夜顔を合わせ、言葉を交わし、共にいたけれど。
ジョットは一度も――デイモンの身に、触れることはなかった。
「どうして……」
最初こそ偶然ぶつかって抱き留められたけれど。
触れ合ったのはあの一度きりで、それからはずっと、手を握ることすらしなかった。
あんなに熱心にアプローチしてきた癖に。
先ほどのように、デイモンが手を伸ばしさえすれば届く距離を保っていて。
彼は。
大事にしてくれていた。
何よりも、デイモンの――心を。
「……デイモン?」
黙り込んだデイモンを心配する面倒役を丁寧に押し離して取り巻く人垣から抜け出し、デイモンは静かに告げた。
「すみません、一晩だけ、暇をいただけますか?」
そして答えも聞かずに。
気づいた瞬間には、塀を乗り越えて走り出していた。
もう迷わないように。
夜空を駆ける満月を追いかけて。
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