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鳥の声と、朝の涼しさを含んだ風が窓から入り込む。
いつの間に眠ってしまったのか。
重い瞼を擦る前に、ふと、隣の空間へと手を伸ばす。
けれど。
「――っ!?」
驚きに覚醒すると同時に飛び起きて見遣ると、そこには皺の寄ったシーツがあるだけで、何も残ってはいなかった。
「そんな……」
まるで昨夜のことが夢であったかのように冷えきったベッド。
手にも、肌にも、まだ抱きしめた感触が残っているのに。
あのまま手に入るものと信じていたのに。
別れも告げないまま。
「結局……違っていた、のか……?」
身を重ねた末に。
確かめ合ったことで見い出したモノは。
自分とは違う感情、だったのだろうか。
シーツの上で固まっている情事の跡を指でなぞる。
快楽で繋ぎ止められるものではないと、わかっているけれど。
ここが引き際なのだろうと、冷静に考えるけれど。
「……あきらめられるわけが……ないだろう」
拳を握りしめて。
ジョットは急いで身なりを整えると、まだ朝焼けの滲む街に飛び出した。
まずは宿屋に寄るべきか。
ここから近いのは舞台のある広場の方か。
入り組んだ階段を駆け下りながら、遠く、眼下の広場へと目を凝らす。
そして見えてきたものに、思わず、足が止まった。
昨夜まで広場を占拠していた舞台はただの木の板に戻され、天幕は次々と畳まれて小さくなっていた。
まさか。
混乱する頭から、ずっと前にサインした書類の内容を引っ張り出そうと試みる。
興行の日程は一体いつまでだったか。
いつ、立ち去ると話していたか。
「まさか何も言わずに、去ってしまうつもりなのか……?」
鼻の奥が痛んで、泣きそうなのだと悟る。
たった一晩で、どうにも涙脆くなってしまったらしい。
しかし、ここで立ち呆けて泣いてる暇など、どこにもない。
きつく唇を噛みしめ、改めて階段を駆け下り始める。
せめて一目、一言だけでも。
たった一夜の関係であったとしても。
「愛してるの言葉さえ、まだ、まともに伝えてないんだぞ……!」
急な階段を一段飛ばしに進み、ちょうど細い路地が交わる場所へさしかかったとき。
「きゃっ――」
不意に物陰から現れた人影とぶつかってしまった。
傾ぐ影を見て、慌てて相手を抱き寄せる。
ふわりと。
鼻腔をくすぐる花の――ジャスミンの、香り。
風で膨らんだ深い菖蒲色の紗と、鈴の音。
そして。
ゆっくりとこちらを向いて笑う、天蓋よりも深い蒼の瞳。
それは。
それは。
「んー……その目はただの、飾りですか?」
今度は突き放すこともなく、デイモンは両手でジョットの頬を包み込んだ。
走って熱くなった体に、それはちょうどいい冷たさで。
ジョットはそれを受け入れつつ、小さく頷いた。
「あぁ、今までずっと、飾りだったのかもしれない」
日々の空模様をただ眺めているだけの、ガラス玉。
そこに映り込んだ異彩に魅せられて初めて、この目は光を得た。
一瞬にして。
縫い止められて、離せないほどに。
デイモンは小さく笑って、口許を隠す紗を外した。
「……前にも、このようなことがありましたね」
「そうだな……」
頬から離れていく手を逃がしたくなくて、それぞれに指を絡めて捕まえる。
「……いつまで、この街に……留まるんだ?」
あの時と同じ問い。
返ってくる答えも同じなのか。
不安も隠せずに待っていると、デイモンは絡めた指に力を込め、よく通る声で答えた。
「この先、ずっと一緒に」
そして片手だけ振りほどき、向かい合う形から隣り合う形に手を繋ぎ直す。
「ひとまず住む場所を探しているのですけれど」
「す、住む場所?」
「えぇ、どこかいい場所はご存知です?」
どこか悪戯っ子のような笑い方でデイモンはジョットの顔を覗き込んだ。
何の話をしているのか心中で反芻して。
じわじわと。
理解が至るにつれて。
もしかして、いなくなったのは。
一座に、家族たちに別れを告げるためで。
ここに留まると決めて。
自分を、選んで――
気がつくと、ジョットはデイモンを再び抱きしめていた。
「……あぁ、あぁ知ってるぞ、とびっきりの一等地だ」
「おや、本当ですか?」
「あぁ、広い部屋に大きなベッド、窓からはこの街が一望できる」
「それは素敵ですね」
そして繋いだ手を引いて、共に階段を昇り始める。
「毎日おいしい食事と、温かい風呂も用意しよう」
「なんて贅沢なのでしょう」
「それに、」
ふと立ち止まり、蒼の両眼を射止めて泣きそうに微笑う。
「俺もついてくる」
デイモンは一瞬きょとんとした表情を作り、それから鈴のような笑い声をあげて破願した。
「もう充分ですよ、最後のは遠慮します」
「なんだと?」
「ヌフフ」
絡み合い確かめ合った後。
体の中から熱をすべて解き放って、生じた空白の中に。
改めて満ちた感情は。
明確に姿を現した答えとは。
「……愛してる」
「私も」
答え合わせは、キスの中に。
― 了 ―