10-3 | Tip Trap Trump Lovers











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 椅子が大きいため、片方の肘掛けに膝を乗せると、ちょうど反対側が頭の下で枕代わりとなった。
 このアンティークチェアに触れていることが結界の条件であるため、特に姿勢などはどうでもいいらしい。
 寝転んだ状態でブーツの脚を揺らしながら天井を見つめる。
 話はすべて導いたままに進み、おそらく今月中にでもオークモスファミリーは崩壊するだろう。
 そのきっかけを作ったとも知らず、愚かな男は感謝の言葉を口にする。
 いわく、ミケーレとかいう男はファミリーが仕切っている商売の半分を自分の物にし、それを己が親しくするカラブローネファミリーへと流していたそうだ。いずれはそのファミリーの傘下へ入れてもらう約束までして。
「あの野郎、ファミリーの存亡に関わることを勝手に決めやがって」
 アラウディが感じ取っていた不穏な動きとは、この不当な武器の流れのことだったのだろう。
 目の前の堅実な男が勇んでそれを断罪し、武器の流れも断たれた今、もしかすると捜査は難航しているかもしれないが、この後に来る大きな波を考えれば些細なことだ。
 それはオークモスファミリーを壊す波。
 組織の中で個人が個人を責め立てた場合、少なからず波紋が起きるもの。
 そして、カラブローネファミリーとの間にも少しずつ悪い波が立ち始めている。
 こんな罠にまんまとかかって。
 本当に愚かしい人。
「……どうした? 何やら浮かない顔をしているが」
 覗き込もうとするロレンツォを、それ以上近づくなと言わんばかりに冷たく睨みつける。
 しかし、拒絶の態度を取ったところで喜ぶ反応を見せるのはわかりきっているので、すぐに視線をそらしてプレゼントの山へと手を伸ばす。
「今日はまた一段と不機嫌だな。いや、その雰囲気もまた格別というか」
 積み重なった箱の中から細かいレースが出ているのを見つけて引っ張ってみると、端が何段ものフリルになったストールが出てきた。
「そうだ、今日は香油を持ってきたんだ。少し甘すぎるかもしれんが、リラックス効果があって」
 ガラスと金属の触れ合う音を響かせ、頭上を気配が通り過ぎる。
 それには目も向けずに、ふわり、とストールを身に掛けてみる。
 素材は綿だろうか、それだけで温かさが感じられた。
 まるで花嫁衣装のように椅子の足元へと広がるレースを、指先で撫でながら視線を落とす。
「香りがきつかったら言ってくれ」
 わずかに焦げた匂いと、それからムスクに何か花を混ぜたような香りが漂った。
 ずっと昔に、どこかで聞いたことのある匂い。
 日差しの記憶。
 そうだ、薔薇園の香り。
「懐かしい……」
 怪我をしないようにと上着を被せられて、でもそのせいで自分はひっかき傷だらけになって。
 薔薇の中でたった一輪、けれど大輪の向日葵が咲いたように笑う。
 自分だけに向けて。
「……また、他の奴のことを考えてるな」
 声に引かれるように視線を持ち上げると、すぐそばに跪く赤銅色の瞳とかち合った。
「誰のことを考えているんだ? そいつはもしや、貴方に寂しい思いをさせているのでは?」
「んー? 一体何を言って」
「俺なら誰も敵わないほどの愛情を貴方に捧げると誓える」
「寒気がします」
 デイモンは真っ白なフリルのストールを抱き寄せながら、無表情に告げた。
「本当に、ねぇ、貴方は私のどこが良いと言うのです?」
「どこって、そりゃ、可憐で、無垢で、清楚で、清廉として、それから」
「ヌハハっ、まさか、冗談でしょう?」
 熱くなりかけていた弁舌を冷笑で遮る。
 それほど、聞くに堪えられなかった。
「なぜそう見えるのか知りませんが、私は、もっと汚い人間です」
 人を計略にはめ、非情に見捨て、洗い落とせないほど赤く黒く手を汚してきた。
 今だって事実、この心は策略を抱き、こうして彼を騙している。
 彼の言うことは何ひとつだって――
「でもな、そう、貴方の言う通り好色家の、俺の経験からだが」
 ちらと見遣った先で、視線を縫いとめられる。
 見惚れているときの目とは違う、剣呑な光。
 ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
 違う、彼の言っている意味は、もっと別のものだ。
 無垢なのは。
 ロレンツォは雄の目をぎらつかせ、自信を含んだ声音で問うた。
「貴方は一度も、経験がないだろう?」
 一瞬、言葉の意味がわからず。
 それから。
 理解すると共に。
 一気に顔が熱くなった。
「なっ、何をっ、失礼なっ」
 動揺に舌が回らず、しかも不自然な体勢でいたため起き上がって殴ることもできず。
「――っ」
 デイモンは悔しくも言葉を飲み込んで、ストールを顔に押し当てた。
 なんという。
 とんだ侮辱だ。
 相手に腹が立つと同時に、このぐらいで自制を失う自分にも嫌気がさす。
 平然と返せばよかったのだ。
 受け流せない問いではなかった。
 それだのに。
 悔しい。
 ひどく悔しい。
 ストールの下で唇を噛んでいると、離れた場所から小さな笑い声が聞こえてきた。
「可愛い人、夜の蝶のような色で、なのに誰にも翅を広げない、清らかさが愛おしい」
「うるさいっ」
「触れてはいけない気がするのに、でも、やっぱり触れてみたくて」
「黙れ!」
「組み敷いて、俺の下で、乱れる様を――っ!?」
 肘掛けを掴んだ手を支点にして。
 デイモンは椅子の上からロレンツォの側頭部を容赦なく蹴り飛ばした。
 鈍い音が響いて。
 なのに、力なく絨毯の上に落ちたのはデイモンのほうだった。
「ど、して……」
 立ちくらみに似た、急激な眩暈に襲われる。
 すぐそばに気配。
 慌てて背後に向かって腕を振り回すが、容易に受け止められてしまう。
「さわ、離せ! 私に触れるな!」
「すまない。本当に、謝っても許してもらえないかもしれないが」
 そのまま引き上げられ、アンティークチェアに押しつけられる。
「もう我慢の限界なんだ、頼む、俺を受け入れてくれ」
「お断りしますっ」
 押しのけようにも腕に力が入らない。
 その間にも武骨な手が腰や脚を撫でて。
 熱のこもった吐息が口端にかかり、逃げるように首を振る。
 どうして。
 うっすらと浮かび始めた涙で滲んだ視界に、それが入った。
 花びらを浮かべた香油の皿。
 そこから漂う甘い、匂い。
「まさか――」
 見開いた目を向けられ、ロレンツォが苦々しく笑う。
「大丈夫、意識が少し朦朧として、動けなくなるだけだ。本来は自白に使うんだが、あぁ、媚薬といった効果はないから安心してくれ」
「そ、いう問題じゃなっ」
 プチ、と上着の金具が外される音に、全身に鳥肌が立つ。
 油断していた。
 ずっと約束を守っていたからと、あるいは今宵でお別れだからと。
 わずかでも気を許してしまっていた自分が情けない。
 最後の最後で隙を作って。
 ぎゅ、と固く目を瞑ると、目尻から雫がこぼれた。
「泣かないでくれ、こんな真似しちゃいるが、どんなに最低でも、約束する、痛いことはしないから」
「このっ、ゲスが、戯言をっ」
「ゲスか、そうだな、あぁ、もうそれでも構わない」
 ひとつふたつとシャツのボタンも外され、胸を露わにされる。
 恥ずかしさなんてものはない。
 ただ気持ちが悪い。
 発情した目で見られることが、吐きそうなほど、気持ち悪い。
「素晴らしい……あぁ、なんて美しいんだろう……」
「触るな! はなっ、やあっ」
 荒れた指先に鎖骨をなぞられ、悲鳴と嗚咽が喉を震わせる。
 悔しい。
 悔しい。
 きつく唇を噛み、声を殺して睨みつける。
 ロレンツォは猛る欲望を抑えるように唇を湿らせると、そっと身を屈めてきた。
 嫌な予感。
「や、やめっ、やめなさっ――」
 肌にナメクジが這うような感触と、ちくりと針で刺されたような痛み。
 ロレンツォがゆっくりと頭を持ち上げると。
 白い皮膚の上に。
 赤い。
 花弁のように赤い痕が。
「――――っ」
 切れる音。
 デイモンは素早い動作でベルトに仕込んだナイフを抜き取ると。
 一切の躊躇もなく。
 銀色を反射させて、一閃した。
 わずかに血液が散って。
「……残念」
 あと一寸のところでよけられ、ナイフは喉でなく庇った腕を切り裂いただけだった。
「んー、幻術と動きを封じれば簡単に犯せるとお思いで?」
 腕を真っ直ぐに伸ばし、切っ先を向けたままゆっくりと立ち上がる。
 頭は割れそうなほど痛く、足元はおぼつかない。
 けれど。
「外見に惑わされて正体を見失ったようですね」
 それをおくびにも出さず。
 驚きを隠せずにいるロレンツォを足蹴にして。
「スペードとは剣のこと、それももろ刃の剣。安易な気持ちで触れようものなら……」
 刃を下に向けると、付着した液体が一滴落ちて。
「ヌフフ、きれいに死ねるとはお思いになりませんよう」
 室内は何か、大きな生き物の腹の中のようにうねり。
 中にあるものをどろどろに溶かして。
 黒い穴を広げていく絨毯が蛇腹を這わせて。
 相手の瞳に引きつった恐怖を見て、デイモンはうっすらと笑みを浮かべた。
「ご機嫌よう」
 そして、ナイフを――突き立てた。





 噛み切った舌先がじくじくと痛む。
 薬の効果も抜け切らず、脈に合わせてこめかみが疼く。
 服にも髪にも相手の香水が移っているようで気持ち悪い。
 早く戻って、すべて洗い流そう。
 隠れて裏口から入り込み、廊下を自室へと急ぐ。
 こんな姿、絶対に見せられない。
 こんな、痕。
 じわりと浮いた雫を袖口で強引に拭ったとき――
「デイモン、今日は早かったな」
 自分でもわかるほど大きく、肩が震えた。
 心音が耳鳴りのように反響する。
「ちょうどいい、聞いてくれ、今日は雨月が間違って大量の花を買ってきてしまってな」
 楽しげな声。
 動揺。
 体が固まって振り向くこともできない。
「あちこちに活けて、それでも余ったから花びらを千切って浴槽に浮かべてみたんだが」
 声と一緒に跳ねるような足音が近づいてくる。
 困惑。
 思考がまとまらず幻術で逃げることもできない。
「デイモン、お前そういうの好――」
 腕を引きながら覗き込んだ顔が、わずかに目を見開いた状態で表情を失う。
 何か言いかけた口は一度引き結ばれ。
 眉間に深く皺が刻まれる。
「どこへ行っていた?」
「……貴方には関係のない、ことです」
 そむけようとした顔を片手で捕えられる。
 その熱さに胸中がざわつく。
「は、離して、くださ――っ」
 目を見るのが怖くて視線を落とすと、シャツの隙間から赤い痕が見えた。
 慌てて襟元を握りしめるが、それが逆にジョットの気を引いてしまい。
「……何を隠している?」
 感情のない声に、ふるりと首を振る。
「何も」
「なぜ隠す?」
「隠してなど」
「デイモン」
「何もないと言ってます!」
 頬に触れる手を払いのける、その一瞬の隙に、襟元の手を掴み上げられた。
 あまりに強引だったせいでボタンが引きちぎれ、小さな音が床を転がっていく。
 息を呑む音すら響き渡るほどの。

 静寂。

 ジョットは見開いた目をゆっくりと閉じ、そして、鮮やかな橙色の炎を瞳の奥に宿らせた。
「いっ――」
 掴まれた手首が軋む。
「ジョット、痛いっ」
 けれど懇願はその耳に届かず、ジョットは手首を強く握ったまま廊下を歩き出した。
「は、離してっ、離しなさい!」
 返事はない。
 こちらを見ようともしない。
 血の気が引く。
 今までにないほど怒っている。
 けれど、こんな怒り方は知らない。
 嫌悪。
 きっとそうだ。
 こんな自分に呆れて、見放して、このまま外に追い出すつもりなのだ。
 謝罪の言葉を口にしようとしたけれど、どうして自分が謝らなくてはいけないのかと自尊心が邪魔をする。
 かといって振り切って逃げることもできず、引きずられるままに向かった先は。
「……え?」
 扉を開けた途端に襲ってきたのは、くらむほどの花の香り。
 そこは外ではなく、予想外にも、浴室だった。
 中央に据えられた陶器の浴槽には色とりどりの花びらが鮮やかに漂い、生花特有の青臭さと花弁の香りを湯気に溶け込ませていた。
「な、どうして、ひわあっ!?」
 ジョットは重さなど微塵も感じさせない動作でデイモンを抱え上げると、一寸の躊躇もなくその中に放り込んだ。
 大きな水音が響き、湯が溢れ出る。
 慌てて縁に手をかけて水面に顔を出したデイモンは、むせながら叫んだ。
「なっ、なにっ、何するんですか!?」
 しかしジョットは無言のまま、浴槽からはみ出た脚からブーツを脱がせ、上着も強引に剥ぎ取った。
「やっ、やめ、んんっ」
 咬みつくように口を塞がれる。
 絡んだ舌が傷に触れて、痛みに思わず舌を引っ込めてしまう。
 それを拒絶と取ったのか、ジョットはさらに強引に唇を重ねてきた。
 その間にもジョットの手は服を脱がそうと動くが、濡れて肌に貼りつくせいで思う通りにならない。
 やがて痺れを切らしたのか両手でシャツを掴むと、
「んっ、んー!?」
 まるで紙のように易々と破いてしまった。
 さすがに暴れようとするデイモンを押さえつけ、ズボンと、下着すらも破り裂いてしまう。
 追剥ぎでもここまでしないだろうと思うほどの強引さ。
 必死の抵抗も功を奏さないまま、デイモンはあっという間に裸にされてしまった。
 もちろんそれで終わるはずもなく。
 ジョットはデイモンの手首をまとめて浴槽の縁に押さえつけ、じっとその裸体を見下ろした。
 動かない視線の先には、白い肌を汚す鬱血の痕。
 痛くて。
 いたたまれなくて。
 唇を噛んだまま、赤い痕から、ジョットからも、顔をそむける。
「……お前は、―――」
 ぽつりと、呟きひとつ。
 不意のことで聞き逃したデイモンが意識を向けるより早く、ジョットは水面に浮かんでいたシャツの切れ端でその痕を拭い始めた。
 力任せに、何度も。
 もちろんそんなことで痕が消えるはずもなく、徐々に強くなっていく力に、デイモンはたまらず悲鳴を上げた。
「痛いっ、ジョット、痛いっ、やめてください!」
 もう薬も切れてかけているというのに、拘束する手を外すこともできず。
 何度も。何度も。
 鬱血痕は擦過傷に上書きされ。
「やめっ、いたっ、痛い!」
 叫び声を聞いたのか、それとも単にあきらめたのか、ジョットは短く息を吐き出して身を起こした。
 赤を吸い込んだ布きれが手から滑り落ち、沈んでいく。
 手首の拘束が外れて。
「……っ、ぁ……」
 叫び抵抗し疲れた体を浴槽の縁に預けるようにして、ぐったりとうなだれる。
 傷の痛みはそのまま胸の痛みとなって、心中をひどく苦しめる。
 どうして。
 霞む視界で、暴れる内に随分と数の減った花びらを見るともなしに見つめていると、今度は肩を押さえつけられた。
「なにを……?」
 袖を捲ることもなく、ジョットの腕が深く水中に差し入れられる。
 落とした布を取るのだろうか。
 ぼんやりと目で追っていた、その先で。
「……ジョット?」
 細い指先は迷うことなく、青白い脚の間の、その奥へと伸ばされて。
「冗談、でしょう……?」
 ゆるりと向けられた瞳の中には、変わらず淡い炎が宿り続けていて。
 自分でも引きつった笑みを浮かべていたのだと思う。
 ジョットもわずかに口許を笑みに歪めて、そして。
「――いっ、いやぁ!?」
 強引に指先を後口へと捻じ込み始めた。
「やめっ、痛い! ぃやっ、やっ、ジョットっ!!」
 ひっかくように腕を押しのけようとしても。
 湯がこぼれるほど暴れても。
 誰も何も受け入れたことのない場所を犯す手は止まらず。
「お願いっ、やめっ」
 鋭い痛みが――
「ひっ、ぃっ、いやぁああ!!」
 反響するほど悲痛な絶叫に、ジョットは我に返ったように息を呑み、慌てて指を引き抜いた。
 気がつけばデイモンの両手は、すがるように、ジョットの胸にしがみついていて。
 壊れた呼吸音と。
 痛みと精神的なショックでひきつけを起こしかけている体と。
「……お、ねが……ジぉ……やめ……」
 それでも懇願する言葉と。
 じわり、水の中へ滲み出た鮮血を見て。
「――っすまない、デイモン、すまない」
 ジョットは脱いだマントでくるむようにして、震える体を抱き上げた。
 早く手当てを。
 そう考えてきびすを返そうとした耳に、掠れた声が届く。
「……ごめ……な、さぃ……」
「――っ」
 朦朧としつつもシャツを離そうとしないデイモンをきつく抱きしめ、ジョットは寝室へと急いだ。





 ゆっくりとベッドへ降ろされる。
 シーツが臀部に触れた瞬間に痛みに襲われ、短く声をこぼしてしまう。
「デイモン」
「触らないでください」
 肩を抱こうとした手を叩いて背を向け、膝を抱えたまま頭からマントを被る。
 完全なる拒絶。
「……手当てだけでも、させてくれないか」
「結構です。私に触れないでください」
 少しの沈黙の後、椅子を引いてくる音が聞こえた。
 腰掛けて、ため息の気配。
「その……すまなかった……」
 黙ったまま。
 胸の傷口を指で触れると、痺れるような痛みが走った。
 水に濡れていたせいで血が固まっておらず、指先に赤が移る。
 どうして。
 何度も巡った問いをもう一度浮かべる。
 彼は一体、何に対して、あれほどまでの怒りを露わにしたのか。
 今までも激怒する彼を何度か見たことはある。
 けれど、それは仲間を傷つけられたときや、理不尽な権力の行使に対しての、正義感からくる怒りで。
 あんな怒り方は初めて見た。
 静かに、寒気すら覚えるほどただ静かに、激情だけをぶつけて。
 最初こそ嫌悪かと思った。
 不貞と取られても仕方ない痕をつけてきた自分に対する、嫌悪だと。
 けれど。
 視線を落とした先に、シーツを点々と汚す赤いシミ。
 ――嫌悪だったならば、このようなこと、しただろうか。
 あのとき、ジョットから激流のように伝わってきた感情は。
 それは。
「……デイモン」
 覇気のない声音。
 己のしでかしたことを、その結果を、心から後悔している響きで。
「すまない……その、傷つけるつもりはなかった……」
 返事も、振り向くこともしない。
 それでもジョットは言葉を続けた。
「何を言っても言い訳に聞こえるだろうが、その、痕を見た瞬間、頭が真っ白になって」
 あの驚いた顔を思い出す。
 直後に灯った炎も。
「……お前を責めるつもりはない、むしろ、俺自身に腹が立っているんだ」
 手で顔を覆ったのだろう、ため息がくぐもって聞こえる。
「本当は俺も、正直な話、あぁ、本当に自分勝手な話だが」
 声音に冷たさと熱がこもる。
 まるで彼が作す出す氷と同じ。
「痕をつけていいのは、抱いていいのは、啼かせていいのは俺だけなのに――」
 苦笑。
 あるいは嘲笑。
「お前を傷つけたくなくて、いや、お前に嫌われたくなくて、そういった行為を忌避していたのは俺自身なのにな」
 とん、と心臓が強く胸を叩いた。
「だから、だけど、他の男に抱かれたと思ったら、何も考えられなくて、本当かどうか確かめたくて」
 左胸に手を当てて、ぎゅう、と抱きしめる。
 だけれど、鼓動は激しさを増していく一方で。
 胸が破れてしまいそうなほど。
「結果として、その、最低なことをした……」
 苦しくて。
 けれど、同時に。
「……馬鹿、ですか」
 ふつ、と怒りが胸に湧く。
「どうして傷つくと、嫌われると思うんです、私は、そんなに弱く見えますか」
「それは、」
「それとも信用がない? 触れただけで嫌いになると?」
 ジョットは迷うように少し黙ってから、気を悪くするなよ、と前置いてから言葉を続けた。
「デイモン、お前いつも触れようとした時に一瞬怯えて、身構えるだろう」
「なっ」
「あと俺がGと猥談してたら絶対怒ってくるだろう」
「それは貴方とGが面白がってからかってくるからっ」
「だってお前が、今時少女でもしないような反応をするからだな」
「しょ、少女って、ば、馬鹿にするのも大概になさい!」
「だが、俺が言ったことは全部真実だぞ? 毎晩組み敷いて俺の名を呼ばせて俺でないとイケない体にし」
「ばっ、だっ、黙りなさい馬鹿!」
 怒鳴りながら振り返ると、真っ直ぐにこちらを見つめる琥珀色の瞳があった。
 もう、その奥に炎は灯っていないけれど。
 冗談で言っているとは思えない、真摯な光が宿っていた。
「……壊しそうで怖い、だが壊してでも抱きたいと思う、お前の体に俺を刻みつけたい」
「――っ」
「これが俺の本音で、醜悪な願望だ」
 頭が沸騰しそうなほど熱くなる。
 それでも、驚きに飲みかけた言葉を、喉から、絞り出す。
「った、確かに……私は、そういった話は嫌いですし、そういった行為は怖いです、けどっ」
 きっと今言わなければ伝わらない。
「わ、私だって、本当は……っ」
 恥ずかしすぎて涙がこぼれてくるし、嗚咽で喉が震えるけれど、気にしてられない。
「嫉妬してほしくて、独占してほしくて、あ、貴方の物だという証が、ほしくてっ」
 滲んで歪む視界でジョットが立ち上がったのが見えた。
 ゆっくりと。
 お互いに、ずっと怯えていた、あと一歩の距離。
 本当はまだ怖いけれど。
 伸ばされた手を。
 引き寄せて。
 デイモンは力の入らない腕でジョットを掻き抱きつつ、ずっと胸の内に閉じ込めていた言葉を吐露した。
「今すぐ、わ、私を、抱いてくださいっ……!」
 短い呼吸の気配。
 身を剥がすように肩を掴まれた思った瞬間には、天井を仰いでいた。
 濡れたマントを下敷きにして。
 逆光の中、ジョットは瞳だけは爛々と光らせ、苦々しくも興奮した印象を受ける笑みを浮かべた。
 それはまるで、猛禽類が捕食する瞬間のような。
「……言っておくが、今日の俺は一切の手加減ができないからな」
 それだけで、ぞくり、と芯が熱くなる。
 自然と笑みが浮かんで。
「貴方の物なのですから、どうぞお好きなように」
 デイモンはジョットの首を撫でた。
 琥珀が見開かれ、それから、いつものようにわずかに伏せられる。
「決して壊れてくれるなよ」
 そして、獅子が獲物にとどめを刺すように、白い喉元に咬みついた。







( cautions ) 1  2  → ●◆◆◇◆◆ →  4  5(end)